第一話 『長くつ下のピッピ』の幸せな幸せな日 10
「武川先生を殴り飛ばした妻科さんに、そのときセクハラ証言をした眼鏡くんが熱烈アプローチしてフラレたって評判になってるよ。むすぶも一躍有名人だね。もっとも誰もむすぶの名前を口にしてなくて、『眼鏡の』とか『あの地味な』とか『一年生の』とか呼んでいたけれど」
休み時間。
一時間目の授業をサボって、音楽ホールの来賓室に避難させてもらっていたぼくに、様子を見に来た悠人先輩が、わざわざ教えてくれた。
ああ、しょせんぼくは地味な眼鏡くんだよ。もうそれがフルネームで、全然オッケーさ。あーうぅぅぅ。
「……ピッピさんに合わせる顔がない」
あきらめないで、とか、絶対ハナちゃんに会わせるとか言っておいて、やっぱり無理でしたなんてとても言えない。
ましてや、ハナちゃんがピッピさんを嫌いになって捨てただなんて。
教室に戻ってピッピさんを見たら、絶対顔に出てしまう。察しのいいピッピさんをこれ以上がっかりさせたくない。それで悠人先輩に頼み込んで、音楽ホールに逃げ込んだのだ。とんだチキン野郎だ、ぼくは。
「自分の体に、墨で『バカ』『無能』『間抜け』って百個ずつ書いてやりたい……」
床をごろごろ転げ回りたいくらいだ。といっても、来賓室にはふかふかの絨毯がしきつめてあるので、気持ちいいだけだろうけれど。
ソファーで頭を抱えて唸っているぼくに、悠人先輩が言う。
「まぁ……直情的すぎて逆に妻科さんの感情を煽って、ムキにさせてしまった感じはするけれど」
「うっ」
「悪くなかったと思うよ」
悠人先輩が、ぽん、とやわらかくぼくの肩を叩く。
「妻科さんの教室をのぞいてきたけれど、友達に囲まれて無理して普通に話そうとしているみたいだった」
「うぅ」
「オレが見たところ、あと一歩かな」
あと一歩?
どういうことだろう。
悠人先輩が、めちゃめちゃ頼りになる大人みたいな顔をしてぼくに言った。
「武川先生の件で働いてくれたお礼に、オレがあと一歩分、力を貸そう」
◇ ◇ ◇
放課後。
妻科さんはうつむきかげんに廊下を歩いていた。これから部活なのだろう。Tシャツにジャージという格好で、肩から鞄を提げている。
人通りの少ないルートを選んで歩いているのは、強気に振る舞っていても、やっぱり周りからじろじろ見られて、あれこれささやかれるのがイヤなのだろう。しかもセクハラ教師に右ストレートをかました凶暴な女という評判の他に、一年生の地味な眼鏡に朝っぱらから告白されたという別の話題まで加わって、うんざりしているに違いない。
「妻科さん」
名前を呼ばれて、妻科さんがキッと顔を上げる。が、その顔がすぐに戸惑いの面持ちに変わった。
妻科さんに声をかけたのが、学園では知らない人のいない理事長の息子——オーケストラ部の指揮者も務める、三年生の姫倉悠人だったからだ。
モデル並みの長身で、華やかで甘い顔立ちのイケメンで、ただ立っているだけで品格がただよっている。そんなVIPに突然声をかけられたら、妻科さんでも驚くだろうし、さすがに学園の王子様を敵意丸出しの目で睨むわけにもいかないだろう。
「な、なんですか……」
緊張して声をうわずらせる妻科さんに、悠人先輩が紳士的な口調で言う。
「一年の榎木むすぶを知っているよね」
「!」
妻科さんの頬が、また引きつる。
「実は、むすぶから本を預かっているんだ」
妻科さんの肩が、小さく震える。
ぼくの名前を出されて、さらに本を預かっているだなんて、その本はもう彼女が知っているあの物語でしかありえない。
悠人先輩が、手に持っていた書類袋を妻科さんのほうへ差し出す。
受け取れません——と妻科さんは言おうとしたのだろう。
それより先に悠人先輩が口を開いた。
「きみから、むすぶに返してもらえるかな」
「え」
思いもよらない人からの、さらに予想外の頼みごとに、どう答えていいのかとっさに判断できずにいる妻科さんに、
「頼んだよ」
と書類袋を渡して、悠人先輩は優雅に立ち去った。
相手に有無を言わせない見事なお手並みで、これはぼくにはできない。
「……なんであたしが」
妻科さんは書類袋を見下ろして、困りきった顔でつぶやいた。
学園の王子様から預かった品を、そのへんにうっちゃるわけにはいかない。
「……榎木、まだ教室に残っているかな」
さっさと渡して終わらせてしまおう、そう思ったのだろう。一年生の教室に引き返しはじめ——その足を、廊下の真ん中でピタリと止めた。
「……」
手の中にある重みは、きっととても懐かしい重さで……。
迷うように、じっと紙袋を見下ろす。
『ハナちゃん』
書類袋の薄い紙越しに呼びかける朗らかな声は、妻科さんには聞こえない。
けど。
『ハナちゃん、ハナちゃん』
聞こえないはずの声が聞こえているみたいに、書類袋を凝視したまま動けずにいる。
茶色の書類袋は上の口を軽く折り曲げているだけで、封はされていない。そこに息を止めるようにして、指をかける。
カサッ……と、曲げた箇所が持ち上がる。その感触にびくっとしたように、妻科さんの指が止まる。
またじっと書類袋を見下ろして、息を吐いて——。また上の口におずおずとふれる。
自分の内側にあるなにかと戦っているように、苦しそうに顔をゆがめて、歯を食いしばって。悪いことでもしているみたいに後ろを振り向いて。途方に暮れたように立ちつくしたあと。
『ハナちゃん』
眉をきゅっと下げて、すぐ横の生物室のドアを開けて、中へ入っていった。
『ハナちゃん、ハナちゃん』
ビーカーや標本がびっしりと並ぶ生物室は、暗幕がはられて暗かった。もどかしそうに灯りをつけ、黒い耐熱机に鞄を置き、立ったまま書類袋の口を開き、目を落とす。
文庫よりもう一回り大きい、子供向けの本。
真っ黄色になったページの部分を見ただけで、子供時代を一緒に過ごしてきた大事な本なのだとわかった。
手を差し入れ表紙にふれた瞬間、ピッピさんも妻科さんも、同時に震えたに違いない。
腕に猿を抱えて、膝の上まである長い靴下をはき、先がにょろんと長い靴をはいた、三つ編みの女の子を見て、妻科さんの眉がまたきゅっと下がり、目がうるんでゆく。
『ハナちゃん、やっと会えたね』
はじけるような声が、妻科さんに語りかける。
『嬉しい、ずっと会いたかった』
『また会えた。嬉しい、ハナちゃん。嬉しい』
すっかりくたびれて変色してしまった表紙を、妻科さんがめくる。震える指で、はじめはこわごわと。
『スウェーデンの、小さい、小さい町の町はずれに、草ぼうぼうの古い庭がありました。その庭には、一けんの古い家があって、この家に、ピッピ・ナガクツシタという女の子がすんでいました』