第一話 『長くつ下のピッピ』の幸せな幸せな日 9
翌日、ぼくは鞄にピッピさんを入れて早めに登校した。
一度自分のクラスへ行き、机の中にピッピさんを置いたあと、妻科さんのクラスまで出向き、廊下で妻科さんを待つ。
「あれ、眼鏡くん? ハナに会いにきたの? もしかしてハナのこと好きになっちゃった?」
昨日門のところで会った妻科さんの友達からひやかされたけれど、ぼくが決意のこもりまくった厳しい顔をしていたからだろう、
「あのね、ハナはキツいけど友達想いで、いい子だから。普段は絶対暴力を振るったりなんてしないし、眼鏡のくんのこともお礼を言えなかったって気にしてたんだよ」
と話してくれた。
やがて通学鞄を肩から提げた妻科さんが、ピリピリした空気をまとって歩いてくるのが見えた。
ぼくは肩と足にぐっと力を入れ、妻科さんを睨むように見ていた。妻科さんのほうでもぼくに気づいて、険しい表情になる。
ぼくの前を無視して通り過ぎようとするのを、腕をつかんで止めると、びっくりした様子で振り向き、すぐに睨んできた。
「なに? 本なんて知らないって言ったでしょ。はなして」
「そういうわけにはいかない」
ぼくは妻科さんの腕をつかむ手に、いっそう力を込めた。
「もうピッピさんには時間がないんだ。駅に忘れていかれたあと、ピッピさんは構内の貸本コーナーで貸し出されていたんだ。いろんな人に読まれてボロボロだ。表紙もページも色あせて、背表紙の糊がはがれてきている。それでもピッピさんは『ハナちゃん』のことをずっと心配していて、ハナちゃんは泣き虫だから、自分がハナちゃんを笑顔にしてあげなきゃって、ハナちゃんに会いたがっていた。きっと最後に、大好きなハナちゃんに読んでもらいたかったんだ!」
ハナちゃんと離れてからどれだけ歳月が流れていたのか、ピッピさんは知らない。
けど、自分の体が日に日に劣化していることを感じていて、それであんなに真剣に呼びかけていたのだ。
ただハナちゃんにもう一度会いたくて。
「また妄想? 本がしゃべるわけないでしょう。てか、あんたなんなの?」
腕を振り払おうとしてくる妻科さんをまっすぐ見つめ返して、言い放つ。
「ぼくは——本の味方だっ!」
そうとも。みんなには聞こえない本の声が、ぼくには聞こえる。あんなにもひたむきな声を聞かない振りはできない! ぼくの精一杯で力になりたい!
妻科さんはぼくの勢いにのまれたように目を見張ったが、すぐにまた顔をしかめた。
「あんたやっぱキモい。はなしてよ。じゃないと」
「ぼくの顔にもパンチを叩き込む? 好きにすればいいさ。キモがられたってへいちゃらだ。ぼくは確かにピッピさんの言葉を聞いたし、それで『ハナちゃん』をピッピさんに会わせたくて、捜していたんだから。ハナちゃんは中学を受験するときにも修学旅行にもピッピさんを連れていって、ピッピさんのことが大好きだったって、嬉しそうに話してた!」
妻科さんの細い肩が、幾度かびくりと震える。何故ぼくがそんなことまで知っているのか混乱しているのだろう。本の声を聞けるだなんて、普通は信じられないとぼくも、わかっているさ。だけど、ピッピさんがハナちゃんを想う気持ちだけは、知ってほしい。どれだけハナちゃんに会いたがっていたか。
会いたくて、会いたくて、目の前を通り過ぎてゆく乗客たちに、聞こえるはずのない懇願をせずにいられなかったほどに。
そうだ、ピッピさんの声は、あの日ぼくの耳に、まっすぐに飛び込んできたんだ!
彼女の願いを、ぼくは確かに聞いた。
だから、ぼくはピッピさんの味方だし、ピッピさんの気持ちを妻科さんに伝える。
「妻科さんは、忘れ物なんてしてないし、そんな本知らないって言ったよな。だったらどうして、昨日、あの駅で降りたんだ! 辛そうな顔でベンチに座っていたんだ!」
「!」
妻科さんが唇をぎゅっと引き結ぶ。大きくあふれ出そうな気持ちをこらえようとするみたいに。
「あの駅は、三年前——妻科さんが中学一年生のときに、ショウガのクッキーと一緒にピッピさんを置き忘れてきた駅なんだ! そのことを妻科さんも知っていた! だから——あの駅で降りたんじゃないのか? ハナちゃんは哀しいときや辛いとき、ピッピさんを読んで元気になったって、ピッピさんが言っていた。昨日、妻科さんは、武川先生のことでいろいろ言われてまいっていただろう? ピッピさんを読みたいって思ったんじゃないのか? それで、あの場所でピッピさんのことを思い出していたんじゃないのか? ピッピさんをなくしたことを妻科さんも後悔していたんじゃ」
「違うっ!」
妻科さんがぼくの手を、強い力で振り払った。
泣き出しそうな怒っているような、怯えているような、嫌悪しているような、色々な感情がごちゃまぜになった嵐のような目でぼくを見て、唇を震わせて言った。
「あの本は、あそこに置き忘れたんじゃない。置いてきたの」
言葉が胸を突き刺し、えぐる。
その痛みに、ぼくは思わず自分の胸を押さえた。
「どうして、そんなことしたんだ。ハナちゃんはピッピさんが大好きだったのに」
「好きじゃなくなったからよ」
妻科さんが、ところどころ掠れた低い声で言った。
「小さな子供が、学校にも行かず一人きりでおもしろおかしく暮らしている。スーツケースいっぱいの金貨を持っていて、泥棒もやっつけちゃうほど力持ちで——常識もお行儀も知らない。部屋の中を汚しても食器を割っても大人に怒られてもへいちゃらで、勝手気ままに生きている——子供のころは憧れたかもしれないけれど、大人になったら、こんな子いるわけないって嫌いになった——。あの子のやることなすこと鼻についてムカついて——もう一ページもめくりたくなかった。だから捨てたのよ」
忘れたのではなく、捨てた。
その言葉は、とても哀しく重かった。
あんなにハナちゃんが大好きなピッピさんには、絶対に聞かせられない! 哀しみでバラバラになってしまう!
「榎木があの本を持っているなら、処分して、それでもうあたしに話しかけないで」
切羽詰まっているような苦しそうな声で言い放ち、妻科さんは自分の教室へ入っていってしまった。
いつのまにか廊下には人が大勢集まっていて、ぼくは注目の的だったけれど、そんなことどうでもいいくらいダメージを受けていた。