第一話 『長くつ下のピッピ』の幸せな幸せな日 6

 帰宅し、二階の自室へ上がって鞄からピッピさんを出し、

「今日は疲れただろうから、ゆっくり休むといいよ」

 と机の上にそっとおくと、

『……ありがとう。そうね……はりきりすぎて疲れているかも。でも、ほんのちょっとだから平気よ』

 と、つぶやいた。

 朝、出かけるときは、もうすぐハナちゃんに会えるかもってあんなに喜んでいたのに、今は声もしゅんとしている。

「悠人先輩が、明日にはなにか進展があるはずだからって」

『……うん』

 返事をするのも億劫そうで。空き地になっていた家を見たショックでいっきに弱ってしまったようだった。

「じゃあ、ぼくは少し席をはずすよ」

『……うん。むすぶくん、今日はありがとう』

 今も辛くて仕方がないだろうにお礼を言ってくれたことに、胸がぎゅっとした。ハナちゃんに会わせてあげたい。

 なるべく早くに——。

 もしハナちゃんが遠くに引っ越していても、ぼくが絶対ピッピさんをそこまで連れていってあげよう。たとえ沖縄でも北海道でも。

「あ、でも……海外は困るな。パスポート持ってないや」

 いいや、ハナちゃんが海外にいるとは決まってないし。そのときは、そのときだ。

 手をぐっと握りしめて気合いを入れ、一階の居間へ行くと、

『……』

 昨晩とはうってかわってだんまりの夜長姫が発する気配が、ぼくの気持ちをとたんにくじけさせた。ああ、これは怒ってる。めちゃめちゃ怒ってる。

 棚の陶器の人形の隣で、はな色の薄い本は静かに怒りのオーラを発している。さわったら本気で呪われそうだ。

「えーと、ただいま」

 汗がだらだらと吹き出しそうな気持ちでご機嫌をうかがうが、当然よろしくない。

『……』

「その、退屈だった?」

『……』

「ごめんよ。ピッピさんと一緒の鞄はイヤかと思って」

『……』

「それにピッピさんは弱っているから、余計な心配をかけたくなくて。ピッピさんに、自分のせいでぼくが恋人とこじれちゃって申し訳ないって謝られちゃったし」

『……わたしのこと、あのひとに恋人だって言ったの?』

 やっと口をきいてくれた。

 かなりぶっきらぼうで、まだ機嫌は直ってないみたいだけれど。

「うん、だって夜長姫はぼくの恋人だろう」

 棚に顔を近づけて、にっこり笑いかけてみる。

 夜長姫はまた沈黙していたけれど、

『……浮気』

 ぼそりと言った。

 ああ、やっぱり疑っているのか?

『浮気したら……本当に許さない、からね』

 あどけなさの残る声は、すねているみたいだった。

 漆黒の髪を肩からさらさらとこぼし、あでやかな着物をまとった小さなお姫様が真っ白な横顔を向けて、赤い唇をちょん、と突き出しているイメージが浮かぶ。

 どうしよう、恋人が可愛い。

「しないよ。絶対しない。だってほら、ぼくの運命の本は夜長姫だけだし」

『……』

「ね、大好きだよ」

 高貴さを感じさせるはな色の表紙を指でそっと撫でると、夜長姫は小さく震えたみたいだった。

「今日は時間をかけて、ゆっくり読むよ。一行一行味わいながら」

 そのまま抱き寄せようとしたら、

『ダメ、さわらないで』

 と拒否された。

「え、なんで?」

 疑いは晴れたんじゃなかったのか?

『ぷいっ』

 あ、今、ぷいっ、って言った! 可愛い!

 けれど続けて聞こえてきた言葉は、つららみたいに冷たかった。

『あのひとときちんとお別れするまで、わたしにさわったり、めくったり、読んだりしてはダメ』  

「えーっ、そうなの!」

 そんなこと言わないでよ、ピッピさんにはハナちゃんという運命の人がもういるんだよ、といくら説明しても、また、

『ぷいっ』

 と言われてしまって、ああ可愛いなぁ! もう!

 めくりたい! めちゃくちゃめくりたい! 一晩中読み倒したい!

 けど、恋人の許可はおりず、ぼくは肩を落としたのだった。

 夕飯をとるあいだ夜長姫はぼくの膝の上にいて、母さんに、ごはんのときくらい本をはなしたら? とあきれられてしまった。夜長姫はぼくの膝で『わたしの椅子になりなさい、むすぶ。でも、今はむすぶは恋人ではなくてドレイなんだから、わたしをめくったらダメよ』と無慈悲なことを言っていた。


 そのあと部屋に戻ると、ピッピさんはぼんやりとしていて、ぼくが入ってきたことに気づいていないようだった。

 それは夜長姫のだんまりとは違って、このままピッピさんは透明になって消えてしまうんじゃないかって感じのぼんやりで、

「ピッピさん」

 不安な気持ちで呼びかけると、

『あ……むすぶくん、お帰りなさい』

 と答えてくれた。

 その声もひっそりしていて。

 ピッピさんのことはずっと、小学生くらいの活発な女の子という印象だったけれど、今のピッピさんは小さくて可愛らしいおばあさんみたいで。

『むすぶんくん、哀しそうな顔してる。恋人さんと喧嘩したの?』

「……平気さ。夜長姫がすねるのは、いつものことだから」

『でも……とっても哀しそう』

 ああ、くそっ、笑っているつもりなのに笑えてないのか?

『ごめんね、むすぶくん』

 ほら、謝られちゃったじゃないか。ぼくのバカ。

「ピッピさんが気にするようなことはひとつもないよ。ぼくと夜長姫は、本当はすごく仲良しだから。ピッピさんとハナちゃんみたいにね」

 無理やり、にこにこ笑ってみせる。

 本当に笑えていたのかどうか、わからなかったけれど。   

 ピッピさんはひっそりと、

『良かった』

 と言ってくれた。

 あとはまたぼんやりしていた。

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