第一話 『長くつ下のピッピ』の幸せな幸せな日 7
翌日は、ピッピさんは家で休んでいてもらって、夜長姫を鞄に入れて登校した。
『あのひとが家にいるうちは、お外でもわたしのことを読んだらダメなんだからね』
と夜長姫の禁止令は続いていたけれど、昨日居間で一人で留守番をしていたのが寂しかったのか、だいぶご機嫌だ。口にしなくても、うきうきしているのが伝わってくる。
それはぼくも嬉しいけど、やっぱりピッピさんのことが心配だ。今日は悠人先輩から良い知らせをもらえるといいな。
電車の窓から外の景色を眺めながら、もうすぐピッピさんと出会った駅だな……なんてことを考えていたら。
あれ?
駅のベンチに、見覚えのある女子が座っているのが見えた。
スレンダーで、ちょっとキツい感じの——妻科さんだ。
この駅から乗るのかな?
けど、電車が止まりドアが開いても、妻科さんはぼんやりした表情でベンチに座り込んだまま動こうとしない。
もしかしたら具合が悪くなって、休んでいるんだろうか?
発車のベルが鳴り響く。
次の電車だと遅刻するかも。
ドアが閉じ、電車が走り出したとき、ぼくは降りるはずではないホームに立っていて、ベンチに向かって歩いていた。
だって妻科さんはずいぶん元気がないみたいだし、放っておくのは無理だ。
「妻科さん」
声をかけると、ぼんやりしていた妻科さんの目が見開かれて、それから眉がキッと上がった。
「あんた、なんでどこにでもいるの? あたしのストーカーでもしてるの?」
電車を降りたことを悔やむような、ひどい言いがかりだ。
鞄の中で夜長姫が、
『女のひとの声。また浮気してる』
と怒っているし。
「目に入ったのはたまたまで、電車から降りて声をかけたのは、妻科さんの具合が悪そうだったからだよ。元気みたいだけど」
話しているうちに次の電車が来て、ドアが開いた。
「行けば、遅刻するよ」
「妻科さんは? 乗らないの?」
「関係ないでしょ」
「あいにく、この状況で一人で登校できるほど図太くもないんだ」
そう言ってやると、妻科さんはぷいっとそっぽを向いて、
「なんだ……ストーカーじゃなくて、ただのお節介くんか」
と、つぶやいた。
ドアがしまり、電車が出発する。
あ〜、遅刻確定だ。
「もしかしたら学校に行きたくないのか? 昨日のことでなにか言われた?」
「……言われまくってるよ。知ってるでしょ」
「あー……まぁ」
妻科さんも被害者なのに、女のくせにやりすぎだとか、絶対彼女にしたくないタイプとか、さんざんな言われようだった。
いくら気が強くても傷つくよなぁ……と同情したとき、
「……あんたは『一年の眼鏡の子』扱いで、名前も全然広まってなかったね。あのとき武川に向かって結構しゃべってたのに」
「悪かったな、地味な眼鏡くんで。てか恩に着せるつもりはないけど、ぼくがあそこで証言しなかったら、武川にとぼけられて、教師に一方的に暴力振るったことにされてたかもなんだからな」
ちょっとは感謝してくれてもいいんじゃないかと頬をふくらませる。すると、
「……そうだね。ありがとう」
わっ! お礼を言われた。
そうなると急に照れくさくなり、
「えーと、なんかお礼を強要したみたいでゴメン」
と謝ってしまう。
「いいよ、本当に助かったから」
「いやぁ」
「武川があたしに言ったことまでぺらぺらしゃべってて、そんなに長々とのぞき見してたのかって、ちょっとキモかったけど」
キモい?
うぐぐ、あれはぼくじゃなくて本が見ていたんだと言いたいが、もっと気味悪がられそうで言えない。
「驚いて足がすくんじゃって……もっと早くに止められなくて悪かった」
とりあえず、そう言い訳しておいた。
「別に……あんなエロ教師、一人でどうにでもなったし」
「うん、スカッとするような右ストレートだったね」
つい本音を漏らすと、またキッと睨まれた。
「どーせ、強すぎて引くとか、可愛げないとか思ってるんでしょ。絶対彼女にしたくないタイプとか」
「そ、そんなことは……」
いや、ゴメン、思ったけど。それは妻科さんが武川先生を殴る前——ぶつかりそうになって睨まれたときで。
ああ、そうか。あのとき妻科さんは、自分をおとりにして武川先生の悪事を暴く覚悟でいて、とても緊張していたのだ。
それで余裕がなくて、あんな態度だったのかもしれない。
今は、とても落ち込んでいて、弱そうに見える。
「あのさ、妻科さんの右ストレート、マジにカッコ良かったしスカッとした。武川にセクハラされて誰にも言えなくて悩んでいた女の子たちもスッキリして、妻科さんに感謝したんじゃないかな、いや絶対してる」
「……」
妻科さんは一瞬だけ顔をゆがめて泣きそうな表情を浮かべた。そのまま唇をぎゅっと引き結んで、耐えていた。
そうして、うつむいたまま小さな声で言った。
「あたし……子供のころ、弱虫だったから……強くなりたかったの……」
きっとそれは、妻科さんがぼくに吐いた弱音だったのだろう。
「うん、妻科さんは強くてカッコいい」
「あんたは地味で眼鏡だけど」
「それ、今、言うか! 言う必要あるのか!」
「名前……」
「へ?」
「あんたの名前とクラス訊いたけど、みんな、なんだったっけ? って。地味で眼鏡って印象しかないみたいで」
ぼくの名前を知りたかったのか? もしかしたらお礼を言おうとしてくれていたのかも。
「榎木むすぶ。妻科さんと同じ一年生で一組だよ」
「……そっか、名前あったんだ」
「あるよ! 地味な眼鏡がぼくの名前だとでも?」
ホームで騒いでいたからか、駅員さんがやってきた。
「きみたち、学校は?」
と訊かれて、
「あ、彼女の具合が悪くて休んでて、でも元気になったので学校行きます」
と言って、ちょうど来た電車に、
「ほら、行くよ」
と妻科さんの手をつかんで乗った。
「セクハラ……」
車内で妻科さんがジト目で見てきて、急いで手を放す。
「わっ、つい。ゴメン」
右ストレートを叩き込まれたらどうしようかと焦ったが、
「……じゃないか」
と、つぶやく声にホッとして、妻科さんの頬が少し赤いのを可愛く思った。
鞄の中から夜長姫が、
『セクハラしたの? むすぶ? 浮気したの? 許さない、許さないから。キリキリ舞いの刑』
と怨念を送ってくるのに、ぞくぞくしたけれど。
「ちょっと、なに青ざめてんの? やっぱあたしにビビッてるの?」
「いや、電車酔いしやすい体質で」
誤魔化しているうちに、学校の最寄り駅に電車が到着した。
校門は当然閉まっている。
警備員さんから遅刻届をもらって、職員室へ行ってそれを担任の先生に渡さなければならない。
「榎木、あとから来てよ」
「なんで?」
「一緒に遅刻したと思われたらイヤでしょう。その、なにかあったみたいじゃない。ないから、絶対ないから」
「なにもないなら、いいじゃないか」
「よくない」
門の前でそんなふうに言い合っていたら、
「あーっ! ハナ!」
体操服を着た女の子たちが、ぼくらのほうへ走ってきた。
「ハナ、ラインしても既読つかないし心配してたんだよ。良かった」
どうやら妻科さんのクラスメイトらしいけど、え? ハナ? 今、ハナって言った?
妻科さんのフルネームは妻科早苗じゃ……。
早苗って、さなえって読むんじゃないのか?
いや、ピッピさんのハナちゃんは泣き虫な女の子で、落ち込みやすいから心配だって話してて。
妻科さんが泣き虫?
あーでも、子供のころ弱虫だったと、ついさっき聞いたような。
それに、妻科さんがベンチに座っていたのはピッピさんが置き忘れられた駅で——。
えーと、えーと。
「ところでハナ、なんで眼鏡くんと一緒なの?」
「——っ」
「ハナ、眼鏡くんのこと気にしてたよね。眼鏡くんの名前知りたがってたし。もしかして——」
「た、たまたま同じ電車に乗ってただけ!」
友達への返事に窮している妻科さんに、ぼくは空気を読まずに尋ねていた。
「妻科さんって小学生のころ三つ編みだった? でもって中学の制服はブレザーにプリーツスカートに赤いリボンだった?」
「は……ぁ?」
妻科さんも、その友達もぽかんとしている。
「妻科さんの家の近所に、首長竜の滑り台がある公園があって、そこにリンドグレーンの『長くつ下のピッピ』を抱えて家出したことがある?」
「!」
妻科さんの顔に驚きが広がる。
目を見開いたままぼくを見て、ぎこちなく唇を動かした。
「なんで……そんなこと知ってるの……」
少し掠れたそのつぶやきに、ぼくの胸も震え、頭の芯を鋭いものが貫いてゆくような感覚とともに確信した。
ピッピさんのハナちゃんは、妻科さんなんだ!
「妻科さん、さっきの駅に忘れ物をしただろう? それ、ぼくが預かってる! 妻科さんの大事な本!」
やっとハナちゃんを見つけた!
こんなに近くにいただなんて。
苗字が違うのはご両親が離婚したからで、早苗という名前も『早い』『苗』でハナと読ませるのだろう。
別れたとき中学一年生だったというハナちゃんは、高校一年生になっていたのだ。
これでピッピさんに、ハナちゃんを会わせてあげられる。
ああ、こんなことならピッピさんを家に残してくるんじゃなかった。今すぐ戻ってピッピさんを連れてこなきゃ。
が、そのとき戸惑いの表情を浮かべていた妻科さんが急に険しい顔つきになり、冷たい声で言った。
「知らない」
「へ?」
「あたし、忘れ物なんてしてないし、そんな本も知らないし、いらない」