第一話 『長くつ下のピッピ』の幸せな幸せな日 5
ぼくがドアを開けた瞬間、
「このセクハラ教師っ!」
「うわぁぁぁ!」
妻科さんの怒りの叫びと、武川先生の驚きの声と一緒に、武川先生の顔面にげんこつを叩き込む妻科さんの姿が飛び込んできた。
細い身体がしなり、突き出された右ストレートが武川先生の顔のど真ん中を見事にとらえ、ごつい体躯が後方に吹っ飛ぶ。
資料を並べた棚にぶつかり、そこから本がどさどさ落ちてきて、武川先生の頭や肩にあたる。
『天誅じゃあ!』
『セクハラ教師め、思い知れ!』
『エロエロ魔神を成敗してくれる!』
落下する本たちが勇ましい声を上げ、彼らがあたるたびに武川先生が「ぐぇ!」とか「うぎゃ!」とか苦悶の声を放つ。
ぼくはといえば、ドアを開けたままあっけにとられてこの様子を眺めていた。てか、本の角ってあたるとめちゃくちゃ痛いんだよね。
「なに、今の声」
「おい、なにがあったんだ」
ぼくの後ろに人が集まってくる。
本の落下もおさまり、ようやく立ち上がれるようになった武川先生が、顔を情けなくゆがめて言う。
「あいたた……なにをするんだ妻科。教師にいきなり暴力を振るうなんて」
どうやら武川先生は、とぼけることにしたらしい。
後ろにいる生徒たちも、顔の真ん中に赤い痣をつけてよろよろしている武川先生と、ファイティングポーズをとったまま先生を睨みつけている妻科さんを見て、
「あの子がやったんだって」
「校内暴力かよ? 女なのに怖ぇ」
なんて言っている。
妻科さんがキッと眉を上げて、それまでよりもっと怒っている顔つきで、
「あんたがべたべたさわってきたんでしょう! セクハラ教師!」
と怒鳴る。
『そうだ、そうだ!』
『腕にさわったぞ』
『肩を叩いたぞ』
『背中も撫でたぞ』
『腰——は、まだだったな』
本たちも一斉に同意するが、その声はぼくにしか聞こえない。
武川先生はますます困惑している顔で、
「ちょっと手がぶつかっただけじゃないか。なのに急に怒り出して」
と、あくまで被害者を装い、集まってきた生徒たちも武川先生の言葉を信じている様子で——。
「ざけんなっ! 肩とか腕とか背中とかさわったでしょう」
妻科さんが興奮して主張するのも、
「えー、肩や腕が、ちょっとぶつかることあるよね」
「背中も、普通に叩いたりするし」
「潔癖すぎなんじゃない?」
と完全に逆効果になっている。
そんな声が聞こえたのか、妻科さんが悔しそうに顔をこわばらせる。
このままだと、妻科さんが勘違いして先生に暴力を振るったことにされてしまう。なので口出ししてみた。
「武川先生のさわりかたは、偶然とかうっかりとかではなくて、あきらかにわざとでした。ぼくは見ていたので証言します」
武川先生が目をむき、妻科さんも眉をつり上げぼくを見る。二人とも、誰だこいつ、という顔だ。
「まず『かまわないから、なんでも話してみろ』と言って、肩を叩きましたよね。そのあと『力になるから』と言って腕にさわりましたよね」
実際はぼくが見聞きしたわけではなくて、本が言っていることを、そのまま口にしているだけなのだけど、身に覚えがありまくりの武川先生はぎょっとして、
「なっ! おまえ——いつから」
と、ぽろりと口にした。
「はい、全部見てました」
ぼくではなく、本が。
「最初のふたつはまだ言い逃れできる範囲かもしれませんけど、背中を撫で回したのはちょっと……。そのあと腰を抱き寄せようとしたところで、妻科さんの右ストレートが炸裂したんでしたね」
武川先生は、わなわなと体を震わせるばかりでなにも言えずにいる。ぼくを見つめる妻科さんの表情が、不信から驚きへと変化してゆく。
そして、ぼくの背中から聞こえてくる生徒たちの声も、
「武川先生がセクハラしたんだ。目撃者がいるなら、間違いないよな」
「やだ、最低」
と変わっていった。
あ〜、悠人先輩はこっそり処理したいって言っていたのに、これは絶対に騒ぎになるなぁ……。
◇ ◇ ◇
予想通り、校内は武川先生のセクハラ事件でもちきりになった。
他にも被害者が多数いるらしいとか、一年生の男子がたまたま目撃して発覚したらしいという声も聞こえてきたけれど、一番注目を集めているのは、武川先生を殴り飛ばした妻科さんだった。
「顔面に、がつんと右ストレートだって。カッコいい〜」
「美人でスタイルもいいの。おまけに強いなんて、憧れちゃう」
という一部女子の声もあったけれど、
「確かに美人だけど、ちょっと怖くねぇ?」
「キツそうな顔してるもんな〜。武川もなんであんなのに手を出したんだ。どう見ても地雷だろ」
「妻科のほうから誘ったらしいぞ。知り合いが被害に遭ったんで、自分がおとりになって武川の悪事を暴こうとしたって」
「気持ちはわかるけど、豪傑すぎて怖ぇよ。彼女にはしたくねぇな」
男子からはそんなふうに言われている。
廊下ですれ違った妻科さんはぼくに気づいてないようで、唇をきゅっと引き結び、背筋をこれでもかというほど伸ばして、こわばった顔で歩いていた。
まるで妻科さんが犯罪行為をして周囲の非難に耐えているみたいに、全身がピリピリと張りつめていて、見ているぼくのほうが苦しくなってしまうほどだった。
この日の昼休み。音楽ホールの来賓室で悠人先輩と話をした。
武川先生は正式にクビになったという。
「妻科さんが目立っているせいで、他の被害者たちがほとんど話題にならないのは良かったけれど、妻科さんはあれこれ言われて気の毒だ」
と悠人先輩も眉根を寄せていた。
「どうにかならないんですか」
「非常に心苦しいけれど、時間が過ぎるのを待つしかないね。武川先生のことがかすむような大事件でも起これば別だけど。それはそれで困るし」
「ですよねー」
万能王子にもできないことは山ほどあるのだ。ましてや一般庶民の地味眼鏡くんなぼくには手の出しようがない。そもそも妻科さんに、顔すら覚えられていないんじゃないかという疑惑が……。
「ともかく、武川先生の件は繊細な問題でもあるし、これ以上下手にふれないほうがいいだろう。ハナちゃんのほうは、今、調べてもらっているから遅くとも明日にはなにかわかると思う」
「助かります」
「浮かない顔だね。やっぱり妻科さんのことが気になる?」
「それもですけど……ピッピさん——あ、ハナちゃんの本のことですけど、彼女の具合が思わしくなくて」
駅の貸本コーナーにどれだけの日数いたのか、ピッピさんもわからないという。けど、もしかしたらぼくが思うよりも長い時間だったんじゃないか。
ぼくが初めてピッピさんの声を聞いたとき、あんなに必死だったのも、すぐにハナちゃんに会わなきゃいけない理由があったからじゃ……。
だとしたら急がないとピッピさんは……。
悠人先輩は真面目な顔で、ぼくの話に耳を傾けてくれて、
「なにかわかったら、むすぶにすぐ連絡を入れるよ」
と言ってくれた。