第一話 『長くつ下のピッピ』の幸せな幸せな日 4
そして、翌朝。
普段より二時間も早く家を出た。ピッピさんは通学鞄の中で、『ハナちゃんに、もうすぐ会えるかも』と、うきうきしている。
首長竜の滑り台のある公園は、ピッピさんが置いてゆかれた駅から乗り換えを含めて五駅ほど先にあり、滑り台は公園の真ん中に堂々とそびえ立っていた。鞄を開けて手にピッピさんを抱えると、ピッピさんはきらきらした声で語った。
『そう! ここ! ハナちゃんと家出した公園はここよ! わぁ、懐かしい! そこのベンチでハナちゃんがわたしを読んだこともあるわ! 途中で喉が渇いて、ハナちゃんは自動販売機でシュワシュワのレモンスカッシュを買って飲んだの。そしたら可愛いげっぷが出て、ハナちゃんは誰かに聞かれたんじゃないかって、恥ずかしそうにきょろきょろしていたわ』
「ここからハナちゃんの家までの道順は、わかるかな?」
『やってみるわ!』
「うん、案内して」
『えっと、まず、そこの道を左へ進んで……そのコンビニの角を曲がって、しばらくまっすぐ歩いていって……』
ハナちゃんの胸に抱かれて公園まで来た日のことを思い出しながら、ピッピさんが道案内をしてくれる。
途中で、
『どっちだったかしら? うーん、多分こっち』
とか、
『うぅ、違うみたい。ごめんなさい、むすぶくん、さっきのところまで戻って』
なんていうこともあったけれど、
『そうよ! この道! 塀に綺麗なオレンジの花が垂れ下がっていたわ。あそこのおうちで飼っているワンちゃんが、門から顔を出して、くんくん鳴いていて。ハナちゃんが撫でたそうにしていたの。それに、あの桜の木にも見覚えがあるわ! 春になるとピンクの花がいっぱい咲いて、ハナちゃんは晴れた日に木の下から桜を眺めるのが大好きで、立ち止まっていつまでも眺めていたわ。そこの家にはあじさいの花が咲いていて、ハナちゃんはなめくじが苦手だから、かたつむりを見て、きゃって飛びのいてたわ』
声がどんどん明るく早口になっていって、それはハナちゃんの家へ近づいていて、ピッピさんの興奮が増しているからだとわかった。
ぼくもドキドキしながら『ヒグチ』さんという表札を探す。ピッピさんを抱えて朝の住宅地を歩いてゆくうち、
『そのアパートの裏側よ! そこがハナちゃんのおうちよ!』
とピッピさんがこれまでで一番嬉しそうな声を張り上げた。
やった! ハナちゃんのうちに来られたんだ。
早足でアパートの裏に回る。ぼくらが見たのは『建築予定』という立て札がささった空き地だった。
え?
なんで……?
そこだけぽっかりと空いた場所を、しばらくのあいだ茫然と眺めていた。
ピッピさんは、ぼくよりショックだったろう。
大好きなハナちゃんと暮らしていた家が、丸ごとなくなっていたのだから。
「本当にここで間違いないの? ほらもしかしたら一本先とか」
わずかな望みを込めて尋ねたけれど、
『ううん……あってる』
しゅんとした声が返ってきて、胸がさらにドシンと重くなった。
一体どうしてハナちゃんの家はなくなってしまったのだろう。
そのとき、隣の家から犬を連れたおばあさんが出てきた。
「すみません、ここにヒグチハナさんの家があったはずなんですけれど、なにかご存じですか?」
ぼくはヒグチさんの元同級生で、ヒグチさんに会いにきたら家がなくなっていたのだと説明すると、おばあさんは、
「あら、ハナちゃんの? あらあらまぁ、ハナちゃんにボーイフレンドが」
と、ぼくのことをハナちゃんの彼氏で、喧嘩別れしたけれど、やっぱりハナちゃんのことが忘れられずに家に来てみたら、なくなっていて愕然としていたというストーリーを瞬時に組み立てたらしく、ぼくを興味深そうに眺め回していたが、
「ハナちゃんのところはご両親が離婚されてね。ハナちゃんは確かお母さまに引き取られたはずよ」
と、さらにショックなことを言った。
ハナちゃんの両親が離婚していたなんて!
それで家を売ったのだろうか?
ピッピさんは声も出せない様子で、ぼくの腕の中でかたまっている。
「ヒグチさんの連絡先はご存じですか?」
「ごめんなさい。お引っ越し自体急だったから、聞いてないの。お役に立てなくてごめんなさいねぇ」
おばあさんは申し訳なさそうに言った。
「……いいえ。ありがとうございます」
ペコリと頭を下げる。ぼくとピッピさんは、ハナちゃんの家があった場所から離れた。
駅に戻るあいだも、ピッピさんはずっと黙っている。
「まだ手がかりは残っているよ。ハナちゃんの中学校の制服。このへんの学校に範囲をしぼればだいぶ特定しやすくなるはずだ。それに不動産屋さんに訊けば、ハナちゃんの連絡先もわかるかもしれない。どちらも悠人先輩に頼んでみるよ。これだけヒントがあればきっと今度こそハナちゃんを見つけてくれるよ」
『そうね、むすぶくんの言うとおりね。励ましてくれてありがとう』
ピッピさんは自分で自分を鼓舞するように明るい声で言ったけれど、そのあとも黙りがちだった。
◇ ◇ ◇
なんとか遅刻せずに登校して、一時間目の授業が終わってすぐ三年生の教室へ行ってみた。
これから行きます、とラインをしておいたので、悠人先輩は廊下でぼくを待っていてくれた。
通り過ぎる女子たちが、嬉しそうに悠人先輩のほうを見てゆく。なにしろ長身でイケメンで理事長のご子息の、学園の王子様なので、お姿を拝見できただけでラッキー! って感じなのだろう。
人通りのないほうへ移動して、そこで武川先生の件と、ハナちゃんの件と、立て続けに報告する。
メールで送ったとおり武川先生は黒らしい。
ハナちゃんの家はご両親が離婚して引っ越していて空き地で、ハナちゃんは母親に引き取られたらしいと。
「わかった。ハナちゃんの件は、引き続きオレのほうで調べてみる。武川先生の件も助かった。被害に遭った子たちが好奇の目で見られたりしないように、なるべく秘密裏に処理したいと思っていたんだ」
悠人先輩もまだ高校生なのに、そこまで学園のことをあれこれ考えなきゃならないなんて大変だな……。いや多分、悠人先輩が黙って見ていられない性分だからなのだろうけれど……。
「被害者は身持ちの堅そうな真面目な子ばかりみたいだから、そうしてあげてください。ハナちゃんのことも、よろしくお願いします」
悠人先輩は、任せてくれと請け合った。
この人のその言葉は、心強い。
ピッピさんも元気になってくれたらいいのだけど……。目の前で家がなくなっているのを見たショックは大きいよな……。
それに、ピッピさんはだいぶ弱っているような気がする。
声がというよりも、表紙やページが。この前も背表紙から粉みたいなものがぽろぽろ落ちてきて、ページがばらばらになるのではないかとひやひやした。
少し補強してあげたほうがいいかな……などとぼんやり考えながら廊下を歩いていたら、曲がり角で横から出てきた相手とぶつかりそうになった。
「わ!」
「っ!」
お互い顔がくっつきそうなぎりぎりのところで足を止める。
学校指定のTシャツにハーフパンツという格好の女子生徒が、ぼくをキッと睨んでくる。
スレンダーな美人だけど、とても気が強そうだ。
Tシャツに『一年六組 妻科早苗』とある。
ぼくと同じ一年生だ。
なのに睨まれてつい、
「すみません」
と、低姿勢で謝ってしまった。
「気をつけてよね」
うわぁ〜、感じ悪ぅ。
こっちが謝ったのだから、向こうも謝るべきじゃないのか? なのに、ふんっ! だぞ。ふんっ!
いくら美人でも、ああいうタイプ、ぼくはダメだな。
とか思いつつ、実際のところぼくの恋人は、人を殺しまくり、それを高楼の上から無邪気に笑いながら見下ろす彼女なのだから、説得力に欠ける。
と——、妻科さんのほうへがっつりした体格の中年男性が近づいていった。
あれって武川先生じゃないか? 資料室の本たちにエロ魔神のおさわり魔呼ばわりされていた、はてしなくグレーに近い黒の。
武川先生は妻科さんと話している。
くそ、ここからじゃ聞こえない。とぼけて横を通りすぎてみようかと足を踏み出してみたら、妻科さんと武川先生は並んで歩きはじめた。
これは妻科さんは、危険なんじゃないか。武川先生の好みだという身持ちの堅そうな細身の女子、という基準を満たしているし。でも、さっきぼくを睨みつけた様子だと、さわられたらぴしゃりと払いのけそうだけれど。それにただ並んで歩いているだけだし……。けど、あの方向は……。
「げっ」
つい声を出してしまったのは、二人が入っていったのが、昨日ぼくが本たちの討論会の司会進行に悩まされた社会科資料室だったからだ。
あの部屋はマズい!
めちゃくちゃマズい!
急いで、ドアの前まで駆け寄る。
資料を探しにきたふりをして、押し入るか? それともここで様子をうかがうか? でも、もし本たちが話していたようなことが、妻科さんの身にも起こったら……。
——はじめは熱心な教師の振りをして話しているんだがな……さりげなく肩を叩いたり腕にさわったりしてきて、そのあと背中を撫で回して、腰を抱き寄せて、相手の女子生徒は、どう反応していいのかわからなくて、じっとうつむいていて、それを横目で眺めるのが楽しくてたまらん感じでなぁ。
——うむ、あやつはエロエロ魔神だ。
やっぱり入ろう! また睨まれてもかまうもんか。
「失礼します」