第一話 『長くつ下のピッピ』の幸せな幸せな日 3

 そんな具合で、帰宅したのは夜だった。

「はーっ、疲れた」

 鞄を持ったままベッドにダイブし、そのまま枕に眼鏡をかけっぱなしの顔をうずめて、悠人先輩にどう報告すればいいかなぁ……武川先生は黒でした、セクハラしてました、で終わらせてもいいかな……とか考えていたら、はきはきした女の子の声が心配そうに呼びかけてきた。

『大丈夫? むすぶくん、ぐったりしてるけど』

 ぼくは布団に寝転がったまま、眼鏡がズレた顔を机のほうへ向け、にこっとした。

「うん、ちょっと先輩に用事を頼まれてね、あっ、ハナちゃんのこともちゃんと調べているから」

『ありがとう。でも無理はダメよ。むすぶくんが体を壊しちゃったら、わたし申し訳なくて逆立ちして後ろ向きに歩きまわりたくなっちゃうわ』

「はは、それ見てみたいかも」

『じゃあ、やってみる?』

「って、できるの?」

『わたしを床に置いて、むすぶくんが逆立ちして後ろ向きに歩いてゆくの。そうすればわたしが逆立ちで歩いているように見えるでしょう?』

「えっと……どうかな」

『ハナちゃんも逆立ちして、ピッピと同じってはしゃいでたわ。でも頭から床に落ちちゃって、たんこぶができちゃったの』

「うん……ぼくもたんこぶを作りそうだからやめておくよ」

『そう、残念ね』

 本気で残念そうにつぶやいたあと、急にまたはじけるような明るい声で言った。

『そうだわ、わたしを読んでみればいいんだわ。ハナちゃんもわたしを読むと涙も止まって元気になったもの! ね、むすぶくん、わたしを読んでみて』

 長い靴下と大きな靴をはいた、三つ編みにそばかすの陽気な女の子が、目をきらきらさせて話している様子が目に浮かぶようで、口元がゆるんだ。

 ああ、ピッピさんをめくれば、本当にどんどん元気になりそうだ。

「ありがとう。でも」

 

 そう口にしかけたとき。


……』


 首筋がぶわっと粟立ち、背筋が凍りつくような、冷え冷えとした声が聞こえた。


『浮気……許さない……』


 まだあどけない、透きとおった氷みたいな声が、ベッドに放りっぱなしの鞄の中から延々と聞こえてくる。


『浮気……浮気……浮気……浮気……浮気……浮気……』


 マズい。居間に置いてくるつもりだったのが、あんまり疲れていて忘れていた。

 ピッピさんがびっくりして、

『え? え? 誰かいるの?』

 と訊いてくる。

「あー、その」

 そのあいだも『浮気、浮気、浮気……呪う、殺す、キリキリ舞いの刑』——と声にこもる冷ややかさと怨念は増していって、そのたび背筋がぞくぞく、ざわざわして、

「ごめん! ピッピさん、ちょっと待ってて!」

 ぼくは鞄を抱えて部屋を飛び出し、階段を駆け下り一階の居間へ走った。

「どうしたのむすぶ、ばたばたして。夕飯もうすぐよ」

 母さんがキッチンから顔を出す。

「うん、わかった」

 適当にごまかし、鞄を開ける。教科書のあいだから、いつも持ち歩いている薄い文庫本がのぞいている。上品なはな色で、とても優雅で魅力的で恐ろしい——。

『むすぶ、浮気は許さない……あの本を燃やして、灰を楼閣からまいて。むすぶに手を出した罪を思い知らせる。でなければ一頁ずつ切り刻んで、鍋でとろとろにとかすか、一文字ごとに針を刺してゆくか、赤いボールペンで文字を塗りつぶしてゆくか、すべての角に穴を開けて、そこに紐を通して、馬で四方向から引っ張って引き裂いてもいい。それとも表紙の上から硫酸を振りかけてぼろぼろにして、絶対にむすぶが読めないようにするのがいい? 山羊の群れに投げ込んで、生きたままむしゃむしゃ食べさせるのがいい? それともむすぶの目に硫酸が落ちてくるよう呪いをかける? そしたら浮気できないから。そのくらい浮気の罪は重いし、むすぶとわたしの愛の巣で、むすぶがわたし以外の本をめくるのは、絶対絶対許さない。呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪う、呪うったら呪う、絶対、呪う、浮気ダメ』

「うわぁ、本当に浮気じゃないから。ごめんよ、あとでうんとお詫びするから、ちょっとここで待ってて」

 冷たくて可愛くて残酷で嫉妬深い——ぼくの大事な大事なながひめを、ソファーのクッションの上に置き『むすぶ、呪う』という細い声を背中に聞きながら、また慌ただしく自分の部屋に戻った。

『むすぶくん、今のひと誰? わたしがむすぶくんのお部屋に図々しく上がり込んだんで、怒っているの?』

 不安そうなピッピさんに、鼻の頭を決まり悪げにぽりぽりかき、眼鏡の位置を直したりしながら、

「あー、えーと……彼女は、ハナちゃんにとってのピッピさんというか、ぼくの運命の一冊というか……離れられない関係というか……、ぶっちゃけ恋人なんだ」

『まぁ!』

 ピッピさんが驚きの声をあげる。

『本が恋人なひと、初めて見たわ』

 だろうね。

 バカみたいに本が好きで、本が恋人だなんていう人はわりといるけれど、一冊の本に操を立てている人間は珍しいだろう。

 ぼくらがこんな濃密な関係になったのには、深い事情がある。まぁ、それは置いておいて、嫉妬深い夜長姫のおかげで、ぼくは自分の部屋に教科書以外の本を置いておくことができない。

『彼女、むすぶくんのことを愛しすぎていて、むすぶくんが浮気したら相手の本もむすぶくんも殺しちゃいそうな感じだったわ。わたし彼女の殺気を感じて、ぞくぞくしたもの』

 うん……ピッピさんを鍋で煮るとか山羊の群れに放り込むとか言ってたね。

『そんなふうに想われるなんて怖いけど、むすぶくんも彼女のことを愛しているなら相思相愛ね。素敵ね』 

「あはは……」

 他の本を読むとき、夜長姫の目を盗んでこそこそページをめくらなきゃいけなかったり、やたら後ろめたい気持ちになったり、色々大変なんだけどね。

 なんだか感激している声で言われて、頬がちょっと熱くなってしまった。

「ぼくのことより、ハナちゃんのことを聞かせてくれる? ハナちゃんの見た目とか、部屋での過ごしかたとか、ハナちゃんと出かけたときのこととか、なんでもいいんだ」

 そう言うと、嬉しそうに話しはじめた。

『ハナちゃんは小さいころはピッピの真似をして三つ編みにしていたの。ソックスも、膝の上まである長いのがいいってお母さんにねだっていたわ。お父さんの靴にちっちゃな足を入れて『ピッピみたい』ってにっこりしたり、ピッピと同じように床でクッキーの生地をのばそうとして、床を粉まみれにしてお母さんに怒られてべそをかいたり。お母さんが『この本は、ハナによくないことばかり教える』って、わたしを取り上げようとしたとき、ハナちゃんはわたしを胸にぎゅーっと抱いて『いい子にするから、ピッピを捨てないで』って、わんわん泣いてわたしを庇いとおしてくれたわ。そして、わたしを連れて家出を決行したの』

「家出?」

『ご近所の公園までだったけれど』

 まぁ、子供の家出なんてそんなものだよなぁ。

『公園に首長竜の滑り台があって、中ががらんどうで、子供が入れるようになっていたの。そこにしゃがみ込んで、夜の八時までねばったのよ。冬でとても寒かったから、ハナちゃんは鼻の頭を真っ赤にして鼻水をたらしていたわ。それでもわたしをしっかり抱いて『ずっと一緒だからね』って言ったの。わたしもハナちゃんに、『わたしも同じ気持ちよ、ずっとずっと一緒よ』って語りかけていたわ。そのあとお父さんが捜しに来て、ハナちゃんはおうちに帰還したの』


 ——ピッピのこと、捨てない?


 ——ああ、お父さんからお母さんに頼んであげるよ。


 ——本当に?


 ——約束だ。


 ——よかった。


 帰り道、心底ほっとしたように笑うハナちゃんに、お父さんが『ハナは本当に、その本が大好きなんだな』と言うと、ますます顔中でにっこりして、


 ——うん! 大大大好き!


 と答えたのだと。

 いい話だなぁ……。ぼくもほっこりした。

 それに、今の話の中に重要な手がかりもあったし。

「首長竜の滑り台がある都内の公園って、珍しいんじゃないかな。検索したら出てくるかも」

 さっそくスマホで調べてみると、

「あった!」

 緑の首長竜が、地面に向かって長い首を差し出す様子を模した滑り台の画像がヒットした。

「どうだい? 見覚えある?」

 画像を見せながら尋ねてみると、

『ええ! この滑り台よ! 間違いないわ!』

 はずむような声が返ってきた。

「よし!」

 ぼくも思わずガッツポーズする。

「ここならそんなに遠くないから、明日早起きして行ってみよう」


 この夜は、資料室で聞いた武川先生のセクハラ疑惑に関する調査の結果をまとめたものを悠人先輩にメールで送り、早めに休んだ。

 居間に置いたままの夜長姫に、おやすみの挨拶をしに行ったら、あどけない声で淡々と、

『浮気……呪う……キリキリ舞いの刑……疫病を流行らせる……むすぶとわたし以外、死に絶えればいい……』

 と、怖いことをつぶやいていた。

 高貴なはな色の表紙から、冷え冷えとした空気がゆらめきながら立ちのぼっているようで、ああ……これはちょっと厄介かも、とぶるっとしたけれど、まぁ、ハナちゃんの件が片付いたら気長に機嫌をとって許してもらうしかない。

「おやすみ、夜長姫。愛しているよ」

 と言って、自分の部屋に戻った。

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