第一話 『ほろびた生き物たちの図鑑』は待っていた 2
バカバカしい。
あのときはつい引き込まれて、むすぶが本当に本の声が聞こえているように錯覚してしまったけれど、よく考えたら事前にバイトのデータを見ることは可能だったはずだ。履歴書に写真も添付されているし。
きっとそれで水海が誰だかわかったのだろう。
本と話ができるわけないじゃない。
できると信じているなら、むすぶはやはり中二病か誇大妄想だ。
誰が笑門さんを殺したの?
あの言葉も、自分が作った設定の世界に入り込んでしまって、言ってみたかっただけなのだろう。
水海は来店するお客さんたちの案内をしながら、むすぶのほうへたびたび鋭い視線を向けていた。
むすぶは声もしっかり出ていて、お客さんへの対応も感じがよく、こちらがなにか言う前に自分からよく動いて、口惜しいことに即戦力になっていた。
それに、本の扱いに慣れていると言っていたが、本を扱う手つきが目を見張るほど丁寧だ。大事なものにふれるようにそっとふれ、撫でるように優しくカバーをかけてゆく。本を見る瞳も、まるで親しい友達に向けるみたいに優しい。
お客さんが本を手に取ったり、その本を買っていったりすると、『良かった!』というように口元をゆるめる。
そんな様子が笑門店長を思い出させて——店長も、本が買われてゆくと本当に嬉しそうで、『良かったですね』と声に出さずに本に向かって語りかけるように、ふんわり微笑んで見送っていたから。
でも、店長とむすぶは別人だし、店長の隠し子ということも絶対にない!
「円谷さん、ポップの紙、もう少し作ったほうが良さそうです。ぼく、やりますね」
むすぶのほうは屈託のない表情で、水海に話しかけてくる。
ポップ用のボール紙をハサミでちょきちょき切りながら、
「閉店フェアで、お客さんにおすすめの本のポップを書いてもらって、ずらっと並べるのって、あれですよね? 『かのやま書店のお葬式』にかぶせたんですよね?」
と楽しそうに言う。
「雪国の村に一店きりしかない書店が閉店の日を迎えて、その最後の一日を描いたベストセラー。書店にゆかりの人たちが次々店を訪れて、思い出の本と一緒に撮った写真や、お客さんがその場で書いたポップが、店内のいたるところに、色とりどりの旗のように楽しく誇らしげに立っていて——あのシーン、小説も映画もどっちもすごく印象的で良かったです。作者の
「……田母神さんは……デビューする前はうちの常連さんで、笑門店長と親しかったらしいから……」
映画も大ヒットしたベストセラー作家が、地元の書店でサイン会を開く。そのニュースに町の人たちは活気づき、当日は書店の外まで長い行列ができたという。
みんな『かのやま書店のお葬式』を胸に抱えて、それは嬉しそうにわくわくしていたのだと、店長もこぼれそうな笑顔で話してくれた。
きっと、幸本書店が一番輝いていた時代だ。
ネットは今ほど普及しておらず、スマホもなく、今よりも一人でできる娯楽も少なく、本を読むことが多くの人たちにとって喜びであり、幸いであり、生きる糧だったころ。
立派な装丁のハードカバー本の、指が切れそうな真新しいページや、手にしたときのずっしりとした重みに、心ときめかせていたころ。
もう、二十年も前だ。
水海は当時は幼稚園にも入っていなかったが、母親と一緒に長い列に並んで本の表紙の裏にサインをしてもらったことを覚えている。
その本は、いつのまにかなくなってしまったけれど。
「田母神さんはフェアに来てくれますかね? 来ますよね? そしたらすごい宣伝になりますよ。村に一店しかない本屋さんの最後の一日を書いてベストセラーになった田母神さんが、町で最後の一店になった書店の、閉店フェアに来店するなんて」
むすぶが、わくわくしている様子で言う。やわらかに跳ねた黒髪が、一緒にひょこひょこ動いている。
「さぁ……連絡はしたけれど、忙しい人だから」
田母神港一は最盛期の人気は衰えたものの、今でも定期的に作品を世に送り出している。
幸本書店でのサイン会は一度きりで、地元の公民館での講演の依頼なども全部断っているらしいから、来ないかもしれない。
厳しい売り上げが続いたころ、また田母神さんのサイン会を開くのはどうですか? と誰かが提案したとき、店長は眼鏡の奥の目を細めて少し淋しそうに微笑んで、
——うーん……田母神さんは、難しいかな。
と答えていた。
田母神が町にいた当時は、書店の事務室に泊まり込んで一晩中本の話をするほど二人は親しかったようだけれど、デビューが決まってすぐ東京へ行ってしまってからは、そうでもなかったのかもしれない。
おととし辞めた高齢のパートさんも話していた。
——笑門さんのお子さんが生まれたとき田母神さんからお祝いが届いて、笑門さんはとても喜んでいたのだけれど、そのときお礼の電話をかけて『また幸本書店に遊びに来てください』と言ったら、断られたみたいで……すごく落ち込んでいたわ。
笑門さんは、悩みを表を出す人ではないのだけどねぇ……あのときは本当に哀しそうで珍しく弱音を吐いていたから、よく覚えているのよ、と。
田母神さんも、あんなに笑門さんと仲が良くて、笑門さんが忙しいときも事務室に入りびたりだったのに薄情だと文句を言っていたけれど、しかたがない。
町を出ていった人たちは、町のことを忘れてしまうから……。
とどまっている人たちは、出ていった人たちのことをいつまでも覚えていて、まるで昨日会ったように噂するけれど。
「あれ……あのお客さん」
話しながら手もちゃきちゃき動かしていたむすぶが、ふいに動きを止めた。なにか気になる様子で、出入り口のほうを見ている。
レンズの向こうにある大きな丸い瞳が、一人の来客の動きに合わせて同じ方向にゆらゆら動く。
レジの前から通路へ。
その向こうへ。
なにかに耳を澄ますように息を止めて。瞳だけを、水面に一枚だけ浮かぶ木の葉のように、ゆらゆらと揺らして。