プロローグ
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「私たち小人は、開封しなくても手紙の中身を読めるんです。手紙を触ってみると、そっけないことしか書いてない手紙はなにかひんやり、冷たいのです。でも手紙に気持ちがこめられていればいるほど、あったかい感じが伝わってくるんですよ」
『長い長い郵便屋さんのお話』より
◇ ◇ ◇
「ぼくはこの町で最後の本屋さんだからね。ぼくが生きているあいだは店を閉じたりはしないよ」
それが店のオーナーであり店長だった
水海も笑顔で、
「なら店長には長生きしてもらわなきゃ」
などと言っていた。
十年前、水海がまだ中学生のころは町に五店もあった書店は、本を読む人が減ったことや、電子書籍や、オンラインで本を注文し配達してもらう大手のネット書店に淘汰され、次々閉店していった。
最後の一店になった幸本書店は、古い喫茶店や居酒屋、小さな映画館などが並ぶ静かな通りにある三階の縦長の建物だった。栄えているあたりとは逆方向だが、駅から徒歩三分という近さもあり、地元の本好きたちの憩いの場所だった。
それでも売り上げは年々右肩下がりで、配本も減ってゆき、発売を心待ちにしている人たちにぜひ読んでもらいたいと頑張って仕入れた話題作が、大量に売れ残り返品せねばならなかったりという、胸がつぶれそうな苦しい事情が多々あったことを、水海も知っている。
そんなときも店長は、おっとり笑いながら、
「幸本書店は、この町の最後の本屋さんだ。なくなったら淋しい思いをする人や、困る人たちがたくさんいるはずだ。隣町の書店へゆくのは車で一時間はかかるし、雪が積もる季節だと、それも難しいお年寄りもいるだろう。だからぼくが生きているあいだは店を続けたいんだ」
と、やわらかな口調で語っていた。
それは、自分の代で店を閉じると言っているようにも聞こえて、水海はひそかに胸がもやもやしていた。
……店長はもう、結婚はしないのかしら。
まだ四十代で若いし、おなかも出ていなくてスマートで、人当たりが良くて優しいから……店長を好きになる女の人はいると思うのに。
でも、店長にはとても哀しいことがあって、愛する人たちをあんなふうに亡くしてしまったから、もう家庭を持つつもりはないのかもしれない。本当に心臓が破れそうに哀しい出来事だったから、店長がそう考えてしまってもしかたがないけれど……。
店長の死とともに幸本書店も終わりを迎えるのは、心にしんしんと冷たい雪が降りつもるように淋しいことだ。
もっとも、それはまだ先の話だと水海は思っていたし、店長に新しい家族ができて幸本書店が続いてゆく未来もあるはずだと願っていた。
まさか店長が四十九歳の若さで亡くなるだなんて、想像もしていなかった。
しかも、あんな不自然な事故で。
遺体を発見したのは、書店でバイトをしている大学生の男の子だった。十時の開店準備のため朝九時に店を訪れたところ、二階の児童書コーナーの床に、店長が頭から血を流して倒れていたという。
隣には脚立が横倒しになっており、周りに本が散らばっていた。
前日の夜、一人で店に残り、本の整理でもしていたのだろう。その最中に脚立が倒れ、本棚に手がふれた際になぎ倒した本が頭上に降り注ぎ、その中の一冊が運悪く急所にあたった。さらに平台の角にも頭を打ちつけたことが追い打ちとなったようで、床に血だまりができ、すでに店長の息はなかった。
バイトの彼は慌てて救急車を呼んだが手遅れで、警察は不幸な事故死として片付けた。
店長の身内は全員亡くなっており、オーナーを失った書店は閉じられることになったのだった。
幸本書店さん、閉店しちゃうの? これからどこで本を買えばいいの?
駅から近いし品揃えもいいから、便利だったのに。店長さんも親切で、すごく本に詳しいし。
三代目の笑門さんが、あんな亡くなりかたをするなんてなぁ。笑門さんは奥さんとお子さんを亡くされたあとも、町のために頑張ってきたのに。本当にあの家の人たちは、みんな運が悪すぎだよ。
なんとか書店を続けられないのか?
わたしも、幸本書店さんがなくなるのは淋しいわ。
そんな声が書店で働く水海たちのもとへ次々寄せられたが、赤字の書店を買い取って営業を続けようとする酔狂な人物は現れず、六十九年続いた幸本書店は、三代目幸本笑門の死から二ヶ月後の三月末日に閉店となることが決まった。
ずっと店を閉じていたが、閉店前にお客さまへの感謝と在庫の整理をかねて、一週間だけ営業をしようということになり、水海はその準備に追われている。
店長が亡くなって一ヶ月ほどはなにもする気になれず、毎日家でぼんやりしていた。涙もこぼれないくらい、店長がもういないという事実や、幸本書店がなくなるという現実を遠くに感じて——。心を守るため感覚を鈍化させ、一日中ベッドで目を閉じていた。
本好きの常として水海は近眼で、眼鏡がなければ伸ばした手の先さえ見えない。それでも、眼鏡をかけずに部屋の中をうっそりと歩き、手探りで冷蔵庫からハムやチーズなど調理のいらないものを取り出して義務的に食べる、という日々が続いた。
ようやく起き上がれるようになり、今は最後の営業に向かって忙しく働くことで、気持ちを紛らわせている。
バイトは水海を入れて全部で五人おり、高校生が二人、大学生が一人、主婦という面子だ。高校二年生のときから七年間、幸本書店でバイトをしていた水海が一番の古株で、他のバイトたちから頼りにされる存在だった。また彼らのように勉強をしているわけでも、家族の世話をしているわけでもないので、すべての時間を幸本書店の最後のお祭りのために使うことができる。
なので、この日も一人で店に残り、細々とした仕事を片付けていた。
三階のコミックスコーナーの整理を終えて、階段を下りていったとき。
二階の児童書コーナーから話し声が聞こえた。
すでにシャッターを下ろしており、店内には水海しかいないはずなのに。バイトの誰かが戻ってきたのだろうか?
階段の半ばほどから眼鏡をほんの少し持ち上げて、二階のフロアのほうへじっと目をこらしてみる。
すると見たことのない少年が、本棚の前に立っていた。
高校生くらいだろうか?
小柄で、紺のダッフルコートに白いマフラーをぐるぐる巻いている。
勝手に店に入ってきたことを注意しようと、水海が近づいたとき、少年らしいやや高めの声が聞こえた。
「そうなんだ。うん、うん……それは本当に哀しいことだったね。うん……わかるよ」
誰かと話している?
でも、何度眼鏡の位置を変えてみても、水海の視界に映っているのは、ダッフルコートの少年一人きりだ。
「えっと、ごめん
水海は気味が悪くなってきた。
少年は誰と話しているのだろう?
「そうだね、十日も離れてなんかいられないよね。ぼくだって同じだよ。うん、愛しているよ。嘘じゃないよ。ぼくにはきみだけだよ。だからちょっとだけ静かにしてて。本の神様に億万回誓って浮気じゃないから」
少年が立っている場所は、ちょうど店長が血を流して倒れていたというあたりだ。
そのことに気づいて、さらに首筋がざわっとあわだち、手足がこわばった。
「途中で話がそれてごめんよ。ぼくの彼女は、とびきり可愛いけど、やきもちやきで。えーと、じゃああらためて訊くけど、誰が笑門さんを殺したの?」
背中を冷たい手で撫で上げられたような気がし、肩が小さく跳ねた。一斉に這い上がってくる恐怖に耐えかねて、水海は声を荒らげた。
「そこでなにをしているの!」
少年が振り向く。
大きな眼鏡をかけていて、まだだいぶあどけない。目を丸くし口を小さく開けて水海を見ている。
黒い髪がやわらかに跳ねていて——ごく普通の、純朴そうな少年だ。
少年の容貌が気が抜けるほど平凡だったことで、水海の恐れも薄れ、ためらうことなく少年のほうへ歩み寄った。
「今、誰と話していたの? 店長のことでなにか言っていたでしょう? どういうこと?」
睨みながら問いつめると、少年は眼鏡の向こうの目をぱちぱちとさせ、両手を『待ってください』の形に、あるいは降参の形に上げた。
「すみません。一階の裏口から声をかけたんですけど、返事がなかったので入らせてもらいました。ぼくは
むすぶ少年に、この地域の住人たちに特有の訛りはなく、テレビから流れてくるような標準語だった。
この子、よそから来たの?
弁護士ってなに?
疑念を強める水海に、むすぶが告げたのは驚くべきことだった。
「笑門さんが生前弁護士さんに託された遺言状に、ぼくのことが書いてあったそうです。笑門さんが亡くなられた場合、幸本書店にあるすべての本をぼくに任せると」
そして、非常に人の好さげな、開けっぴろげな笑顔で言ったのだった。
「ちょうど学校が春休みに入ったので、明日からしばらくお世話になります。えーと、あなたは円谷水海さんですね? バイトさんの中で一番長くこちらでお仕事をされていて、一番頼りになるかただそうですね! うわぁ、心強いです! ぼくは本の扱いには慣れているんですけど、書店で働くのは初めてなので、どうぞよろしくお願いします」