第二章 気が付けばいつも一人になっているような後輩 11

 花言葉になぞらえたさんくさい迷信を俺が初めて知ったのは、前々回に騒がれた八年前の二月。

 小学生だった俺は友達同士が迷信のうわさばなしで持ちきりだったのに感化され、母さんに携帯電話でざっくりと調べてもらった。SNSやブログには唐突に咲いたスノードロップの写真がアップしてあるものの、彗星の写真や動画はないため真偽は定かではなく、ネット上の目撃情報は匿名のためみにできない。俺の周りでも目立ちたがりの構ってちゃんが増長し、ねつぞうの目撃エピソード語りに励む小学生が後を絶たなかったと思う。

 しかし、世間はいつも通りの表情を崩さずにまわっていた。身近で起きた唯一のごとといえば、一夜にして最寄りの病院にスノードロップの花壇がお目見えしたことだけで、数日後に友人と見に行った頃には花が枯れ落ちていたという拍子抜けの笑い話未満。

 当時、閲覧した覚えのあるネット記事は、こんな文言でくくられていた。

【スノードロップ彗星を本当に待ち望んだ者だけが、いずれ邂逅するかもしれない】

 なんとも迷信レベルで現実的ではない話だ。星が流れるとスノードロップが咲くとか、本当に待ち望んだ人しか見られないとか……ネットが普及していない時代に語り継がれ、いつの間にか噂話に尾ひれが付いたに決まっている。

 どもだましにもならない。調べれば調べるほど、興味の熱は急激に冷めていった。

「……わたしは、春の訪れを告げる星を信じていますよ。子供の頃、この目で一瞬ですけど目撃していますから」

 俺のいぶかしみが伝わったのか、渡良瀬は改めて体験談を述べた。子供の頃に一瞬見ただけにしては数ミリ単位の細部まで鮮麗に表現され、瞳から手を突っ込まれて心を直接握られるような美しい激情のとりこにされる。生半可な悲しみくらいでは、もう忘却できないほどに。

「……星空の絵は、もう少しで完成させられるはずです。そしたらセンパイは……」

 そこまで言いかけたわただったが、再びキャンバスへ視線を戻し、待ち焦がれているであろう景色を空想の世界で描き進める。

「……センパイの大絶賛が楽しみで仕方ありません」

 途中で切った台詞せりふを改めて言い直し、自分だけが知るお楽しみをもつたいぶって隠すように俺をらした。

「小学生だった頃の話だけど……渡良瀬と同じようにスノードロップすいせいを信じる女の子がいたんだ。うそつき呼ばわりする俺に……『スノードロップ彗星の絵を描いてみせる』って豪語してみせてさ」

「……その女の子は、ちゃんと証明できたんですか?」

「俺が転校しちゃったから、それっきり。高校入学を機に町へ戻ってきたのは、その子が描いた絵をもう一度見たいっていう小さな心残りなんだよ」

 この話を誰かにするのは初めてだ。演出された特別なムードが口を滑らせたのか、懐かしい感覚に後押しされ、淡い思い出に消えかけた昔のごともぺらぺらと話せてしまう。

「……その女の子の代わりに、わたしが証明してあげましょう。とっても……とっても美しいスノードロップ彗星を描き上げてみせますから」

 妙に重くし掛かった渡良瀬の声音と表情。俺の中で鈍く引っ掛かり、美化した記憶と混在したため、これ以上の無粋な話を振るのも躊躇ためらわれた。

「星はともかく、あの子は嘘つきなんかじゃないって信じてる。待つよ、いつまでも」

 だから俺は……あの子と渡良瀬の面影を勝手に重ね、完成をただ待ち望むのだ。

 昔も今も相変わらず、絵を描く寡黙な少女の隣でしやべりかけながら。

「……見学してくれた一年生、入部してくれるでしょうか」

 驚いた。渡良瀬のほうから雑談を振ってくるなんて意外すぎる。しかし、見学会の話題は触れようかどうか迷っていたこともあり、意図せず唇を固く結んでしまう。

 俺はもう、あの下級生が決めた結論を知っているから。

「……部員が増えたら向かい合いながらデッサンをして、見せあいっこをしてみたいです。長期休暇に合宿もしてみたいですね。自然豊かな場所であいもない会話をしながら、経験が浅い後輩に指導したり……なんて」

 たいした絵に筆先を乗せた渡良瀬の弱くかすれた声は、冬夜の微風にすらさらわれた。

「……たまに部長面して、差し入れのアイスを買ってあげたり。コンクールに入賞したらお祝いにファミレスで打ち上げをしたり……」

「渡良瀬……あのな。あの一年生は……」

「……憧れてたんです、そういう風景に。普通に学校へ通って、好きな部活に打ち込んで、たまには親しい人とお喋りする……そんな日常が、欲しかったんです」

 駄目だ。励ましの言葉を紡ごうとしても、陽気に盛り上げようとしても、はかなくて痛々しい渡良瀬を直視できない。

 俺が思っていた以上に、渡良瀬は見学会を心待ちにしていた。

 わたは他人が嫌いなんじゃない。他人との付き合い方が分からなくて、共通の好きなものを通じて会話の糸口をいだすしかない、臆病で繊細な年下の後輩なんだ。

 苦しいよ、無性に。痛いよ、切実に。

 どうして、報われなかった努力の結末を告げるのが俺の役目なんだろう。

「……次の見学会はいつにしましょうか。今度は一週間くらい体験入部をしてもらって、一枚の水彩画を完成させるとか──」

「渡良瀬……!!」

 これ以上、黙って聞いていられなかった。こんなにも一方的にしやべりかける渡良瀬を止めてあげなければならない。もう渡良瀬は察しているだろうに、無理やり明るく振舞おうとしているのが、なおさら胸をきりきりと絞り上げた。

「あの子はもう来ない。自分で描くより、渡良瀬の絵で感動する側の人間だったって……」

 それでも、伝えるべき事実を言語化しなければならない。絶対に来ない相手を待ち続ける行為は救いがなく、傍観する俺のほうが先にもろく壊れてしまう。

 これで正解だ。根拠のない残酷な期待を残すほうが、罪深いのだから。

「……そうですか」

 渡良瀬は絵に拘束された視線を微動だにさせず、筆を躍らせる。

 背後に立つ俺の位置では表情までうかがえないが……肩は小刻みに揺れ、吐息が不安定に震えているのは気のせいじゃない。

「……実を言うと部員の勧誘に失敗したのは、これが初めてじゃないんです」

 喉奥につかえた嘆きを、渡良瀬は必死にひねりだす。

「……これまで……いろんな新入生が見学にきました……。わたしは部長なのに……何もできなくて……どう接していいのか迷って、分からなくて……」

 渡良瀬は一人で戦っていたんだ。かりそめの部長として、そして年上の先輩として、絵に興味がある後輩たちと憧れの部活動を始めるために。自分が好きなものを、これまでの苦労を、今後の目標を、他の誰かと分かち合いたいから。

「……黙って絵を描いているだけなんて……部活じゃないですよね……。何かを教えようとしても、わたしが一方的に喋りすぎてしまって……何もかもが下手くそで……」

 渡良瀬は息を詰まらせ、湿りを帯びた台詞せりふを吐露した。


「……気が付いたら誰もいなくなっていて……いつも一人になってました……」

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