第一章 好きなものを語ると早口になるような後輩 7
「
帰り慣れた自分の家。薄暗い玄関側ではなく、街灯が一定の間隔に並ぶ商店街の路地裏に面した店舗のドアから帰宅するや否や、気の抜けそうな軽い声で気安く話しかけられる。
シンプルなワイシャツは清潔感に
こぢんまりな面積に押し込められたカウンター席が五席ほど並び、窓際には四人用のテーブル席が三卓。外から見た印象よりも、さらに狭い。
母方の祖父が収集していたレコードや洋楽CDが壁一面に収納され、週刊少年誌や文庫本の領域もある趣味丸出しの空間は個人経営ならではの隠れ家的な内装になっており、創業時から使い続ける木製の椅子やテーブルの経年劣化も昭和の匂いを醸す。
店内にひっそりと流れる
壁に飾られた牛のLPジャケットが見守るカウンター席に堂々と腰掛け、営業時間内にも
「いつもよりは帰りが早いだろ? 今日は寄り道してないんだよ」
「ホントだねぇ。七時過ぎに帰ってくるなんて珍しいなぁ」
いつもの
午後七時に帰ってきても驚かれるほど、高校入学以降の息子はだらだらと遊んで放課後の大半を怠惰に潰していたのだ。本当にやりたいことが、何もなかったから。
食欲をそそる濃厚な匂いが換気扇を
母さんに夕飯を食べるかどうかを尋ねられ、空腹の俺は食い気味に
閉店は夜七時半。すでにラストオーダーは終わっているため、夕飯のまかないを食したりひと休みする母さんがいる。いつも通りの店内だ。カウンター席に引き寄せられた俺が着席したのを合図にカウンター奥の手狭なキッチンスペースからもう一人、母さんとお
「久しぶりに〝
カウンター越しに相対した俺と女性。身内と常連のみが知る裏メニュー〝伊澄ライス〟を頼んでみると、女性は「──はい」という淡白な言葉を返し、キッチンへ戻った……と思いきや、コップに
年齢は二十六歳。容姿は端麗で大人びており、細身ながら身長はすらりと高い。しなやかで長い髪だが、飲食店で働きやすいように襟首のあたりで華麗に
「閉店作業中にすみません」
「──いえ、大丈夫です。すぐに作ります」
表情を一切変えることなく、抑揚がない
「たまにはお家で食べる夕飯も良いでしょ~?」
隣に居座る母さんが口元を緩ませながら、こつこつと肘で
「母さんも閉店作業を手伝いなさい。伊澄さんに頼りっきりじゃん」
「ぐあぁ! こ、腰が悲鳴をあげておるぅ~っ! 安静にせねば……」
「──私は問題ありません。ホールの接客やコーヒー豆の仕入れ、事務作業などは店長が担当しているので、料理やお掃除くらいは私がやります」
「伊澄ちゃんは働きもんやなぁ……店長は感動した! 昇給! 時給百円アップ!」
「──店長よりも私のほうが
「あん? 若いのも今のうちだけやぞ? 客に口説かれた数、教えたろか? ん?」
フライパンを振る伊澄さんのフォローに喜んだりキレたり忙しい店長だが、恥ずかしいからエセ関西弁はやめなさい。あと、客に口説かれた数なら伊澄さんも負けてねぇよ。
「
「どして?」
「ワタシにはお見通しだぞぉ。いつもより
母さんは声色に陽気を含ませ、
めちゃくちゃ邪魔くさ……ウザさの極みに達したお調子者め。
素直な性格というのも困りもので、喜怒哀楽を容易に見抜かれてしまうことも多い。
誰かと遊んだわけでもないのに、充実に満ちた感覚の残骸がまだ残っており、中身が詰まった一日だった……と誇ったまま、上機嫌の明日を迎えられそうだ。
「
親に話すのは照れ臭いから、頭の悪そうな返答でお茶を濁す。
「ん~? 女の子かなぁ? ん~?」
「伊澄さんの料理まだかな……」
「女の子か! 女の子だな! 女の子の話題かな~っ!」
いや~、やまかしい母親だ。遺伝子を継いでいると思いたくないぜ。
息子の色恋沙汰を妄想しては勝手に盛り上がる母親がとんでもなくウザいし、肘での小突きが止まらねぇ。客がいないのに
「──どうぞ」
静かに一言だけを添えて、伊澄さんがカウンターに皿を置く。
野菜や果物の果肉が溶け込んだ特濃デミグラスソース。
カレーよりも黒々として深みがかったソース……これは、伊澄さん流のハヤシライスだ。
「伊澄さん、めちゃくちゃ
完食の直後に率直な感想を伝えると、伊澄さんは眉一つ震わせる素振りも見せず、
「──ありがとうございます」
そっけなく、冷ややかな声音と共に会釈するのだ。
「あ~っ! ついに彗星の季節がきたのねぇ~」
閉店作業中は店のテレビが垂れ流されているのだが、民放のとあるニュース特集に反応した母さんが好奇を凝縮させた声をあげると、声につられた俺と伊澄さんもテレビ画面を注視してしまう。
スノードロップ
前回、彗星が流れたとされるのは四年前で、俺は中学生の頃だったが……星が見えたかどうかは自己申告でしか証明できないため、大抵は自称扱いで信じてもらえず、仲間内やSNSで気を引くための虚偽申告も横行していた気がする。
彗星に託した願いが
第一志望の学校に合格、恋愛の成就、宝くじの高額当選、難病の治癒など、例として紹介されている体験談や再現VTRは
少なくとも真っ当な感性の俺には、雑誌の片隅に載っている開運グッズ以下の事柄だ。
迷信なんてどうでもいいけど、胡散臭い彗星の名前を聞くと……小学生の頃を思い出す。
「母さんはねぇ、彗星を見たら大金持ちになりたいって願うかなぁ。働きたくねえェ~」
「いいから閉店作業やれよ。いつも真面目な伊澄さんを見習え」
「
仕事の効率を下げるテレビを消すと、
「伊澄さん……大丈夫ですか? 母さんのせいでお疲れでしょうから休んでください」
「伊澄ちゃんには甘いな! 息子よ、母親にこそ優しくしなさい!」
ぶーぶーと不満を叫ぶ愉快な母親は放置し、伊澄さんを気に掛けた。
「──いえ、大丈夫です。お気遣いなく」
声をかけられた伊澄さんは平常に戻り、皿洗いを再開させる。
正直、伊澄さんのことはよく知らない。母さんがこの店を引き継いだときに人手不足解消のために雇い、いつの間にか言葉を交わす機会が増えた間柄でしかない。
それでも、伊澄さんの作るハヤシライスは様々な表情を見せてくれて、こんなにも温かいのに、彼女の表情はずっと──時間が止まったかのように凍り付いたままだった。