第一章 好きなものを語ると早口になるような後輩 4

 あからさまに視線をらしつつ、不慣れな自己紹介をしてくれた物静かな女の子は、一つ年下の後輩だった。

 弱く抑えられた声量。クラスの中心で騒ぐ女子というよりは、教室の隅で静粛に読書をしている部類の立ち位置ではないだろうか。内面を知る余地もないけど、第一印象はそれ。

 案の定、自己紹介以上の会話は膨らまず、吹奏楽部のパート練習がBGMに戻ったところで、後輩の女生徒……渡良瀬が反転し、こちらに背を向ける。

「……描き終わったら声をかけてください」

 環境音にさらわれそうな小声で言い残し、作業スペースへ戻ろうとした渡良瀬だったが、

「ちょっと待って」

 俺が呼び止めると、前に踏み出しかけた右足を地につけた。

「……なんですか? 早く絵を完成させたいので、一分一秒も無駄にできないんですけど」

 仮にも年上の先輩に対し、渡良瀬はものじせずに煩わしさを言葉に潜ませる。

「渡良瀬に頼みがあるんだ。手ぶらで来ちゃったから鉛筆と紙を貸してほしいな~って」

 軽い気持ちを隠さず、渡良瀬に頼んでみる。美術の授業で使うための鉛筆やスケッチブックなどは家の押し入れに入学当時の状態で封印したままだし、たかが補習の課題と考えていたため、道具は教師側から支給、もしくは美術室で調達できると決めつけていた。

 急に反転した渡良瀬は早歩きで接近。

 苦笑いする軽薄男へ詰め寄ると、視線を合わせることなく、小さな口を開いた。

「……失格です」

 ぼそりと、つぶやかれる。

「……描く道具も持ってこない遊び半分の帰宅部に、わたしの大切な時間を割くわけにはいきません。出直してきてください」

 声量は小さめながらも、芯が通って強調された語気。

 これはひょっとしなくても、叱られているのは間違いない。

「いや、たかが補習の課題だし……」

「……たかが補習の課題に付き合う義理はありません。真剣に取り組む人をあざわらう態度や行為は不愉快です」

 やや意表を突かれ、反応に困ってしまったが……冷静に考えると、俺みたいな遊び半分のやつにめた態度を取られたら、真剣に取り組む人ほど腹が立つのは理解できる。

 自分が楽をしてきたツケを払わされている初対面のお気楽野郎に、貴重な部活の時間を侵害されるのは不愉快そのもの。

「そうだよな……。その場のノリに甘えて適当にやり過ごしていたから、薄っぺらな人生になってしまったんだよな……」

 俺は肺の空気をいきぎ込み、重苦しい嘆きを漏らす。

 その場に両膝を折り畳んでかがみ、脱力しながら美術室の床へ寝転んだ。

「……あの、ちょっと」

「ごめん……ホントに薄っぺらな男なんだぁあああああ……」

「……そ、そこまで落ち込まなくても……。わたしが言いすぎた……のかな? よく分からないけど……すみません」

 魂の嘆きをぼろぼろと吐露する寝そべり男の姿に心底戸惑い、わたは困惑した様子ながらも、とりあえず謝ってきた。

「……苦手なんです、空気を読むとか気を遣うとか……。融通が利かなくてごめんなさい」

 静かに陳謝した渡良瀬が自らの作業スペースへ戻っていく。邪魔者なのは自業自得な事情で押し掛けた俺のほうだから、彼女は何も悪くないのに……申し訳なさの細胞が結合した罪悪感が込み上げてくるも、もと来た道をすんなりと引き返す気にもならなくて。

「キミが絵を描いているところを見学……しててもいい?」

 むくりと上半身を起こし、またもや身勝手なお願いをしてしまう。

 絵心はちりほどもないのを自覚してるので、絵画の授業はことごとく避けて通ってきた。小学校の頃も絵の具を使う授業のときは仮病を使い、近所の公園でサボっていたほど興味はないけれど、初対面の渡良瀬が描いている風景画は退屈を忘却させた。渡良瀬自身が無自覚に醸す空気感やアナログ画材を駆使する手腕に一目でれこんだのだ。

 二の腕をう鳥肌が収まってはくれないのが、ありふれた感動すら超越したあかしだろう。

「……わたしが描いているところなんて……たぶん、つまらないですよ」

「つまらなかったら、キミに気付かれる前にさっさと帰ってたよ。見ているだけで楽しかったから、もう補習なんてどうでもいいや」

 補習の分際で反省もなく、へらへらと声色を弾ませている先輩にあきかえったのか……作業スペースの席に着いた渡良瀬は溜め息をき、こうささやく。

「……お茶菓子も何もありませんが、ご勝手にどうぞ」

 環境音に食われそうな声量の一言を、抜群の聴覚は聞き逃さなかった。

 許しも得た俺は前後を反転させた椅子をまたぐように座り、背もたれに預けた腕へ顎を乗せる休み時間スタイルで渡良瀬の左斜め後方に陣取る。

 変な話だとは思うけども、記憶に初めて記録される渡良瀬の横顔が──澄んだ水のように全身へよどみなく浸透した。通い詰めた行きつけの場所にも似たこの感覚を妨害する抗体なんてない。初対面だった後輩のそばは居心地が、よかった。

「……あまりまわすように見ないでください。気が散ります」

「ごめんな、部長。つい夢中になっちゃってさ」

 怒られたので両手を合わせながら軽く謝ると、渡良瀬はぴくりと眉尻を動かす。

「めちゃくちゃ絵がくて見入っちゃったよ、部長」

「……むっ」

 顎に手を当て「……この人、ワザとやってる?」みたいな独り言をこぼし、神妙に目を細めるわた。無意識に漏れ出たであろう「むっ」という声が、冷静沈着な言動とミスマッチで微笑ほほえましいと思ってしまう。

「部長」

「……やめてください」

「渡良瀬部長」

「……失格!」

 部長と言われるのが照れ臭いのか、それとも煩わしいのか、固く結ばれた口元からは読めないが無慈悲な失格をもらってしまった。俺の勘が正しければ、まんざらでもなさそうで。

「部員がもっといれば、部長って呼んでもらえる回数も増えるのに」

「……余計なお世話です。さほどうれしくもないですし、一人だけの部活なら必然的に部長になってしまうので」

 そういう事情なら素直に喜べないのもうなずける。

「……貴方あなたは人を喜ばせようとするのが得意ですね」

「そんなやつは嫌いだったか?」

「……いえ、別に嫌いじゃないですよ。センパイはそういう人なので」

 つらつらと小声で苦言(?)を表明した渡良瀬は、そのまま作業に戻る……かと思いきや立ち上がり、リュックよりペンケースを取り出す。ファスナーを開ける音が木霊し、口が開いたペンケースから姿をのぞかせる六角形の細長い棒。表面が鈍い光沢を放つ木製の棒は義務教育を経験した者であればぶかいもので、渡良瀬により机に並べられた。

 もしかしなくても六角形の棒は新品の鉛筆。並べられた数は四本ほど。

 スケッチブックの新しいページを一枚、紙の付け根を破るように切り取り、鉛筆のすぐ隣へ置いた渡良瀬は神妙な面持ちを崩さない。せっせと動かしていた手を止め、お役御免とばかりに俺の前から離れ、絵や画材などが配置されている作業スペースへ戻っていく。

 これは……どうすればいいんだろうか。

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