第一章 好きなものを語ると早口になるような後輩 3

「……余計なことしないで。感想を聞けなんて言ってない」

「ははは~、すまんすまん。つい心でなぁ~」

 しかめっ面の女生徒に叱られ、背中を軽くたたかれている登坂だが、反省している素振りはない。というより、この二人は知り合いなのか? 女生徒に至っては教師の登坂に対して普通にタメ口を叩けるほどの身近な距離感を印象付ける。

「……さっきのこと、忘れてください」

 俺から目をらし、バツが悪そうな小声でささやきかけてくる女生徒。

「さっきのこと?」

「……分からないなら別にいいです。ただの独り言なので」

 硬い表情を崩さない女生徒は俺の横を素早く通り過ぎ、絵を描いていたスペースへ戻っていった。椅子に腰を下ろした彼女は、いつの間にやら手に持っていた菓子パンらしき食べ物の包装を破り、自分の絵をまじまじと見詰めながらパンにかじりつく。

 左右に開かれた状態のコッペパンに厚いチョコがべっとりと塗られた菓子パンをほおるたびに、女生徒は目元をとろんと柔らかくさせていた。

「あいつ、一人で何か言ってたのか?」

 興味本位からか、登坂がこっそりと問いかけてくる。

「おじさんベタチョコ、とかつぶやいていました。意味は分からないんですけど、あの子にとって聞かれるのが嫌なことだったのかもしれません」

 謎の独り言を言い放った直後、俺と目が合ったときにさらした赤面の表情を思い返す。

 あれは恥じらいの仕草だったと推測できるが、思わず走って逃げ出すほど部外者には聞かれたくなかったんだろう。

「お前ってへらへらしてるかと思えば落ち込んだりもするし、感情が豊かだよなぁ。あいつの独り言は、そんな大層なもんじゃねーよ」

 気落ちした声音の俺とは対照的に、さかこらえきれない笑いを吹き出す。

「あいつが食べてるローカルパン、あれがベタチョコ。置いてる店を探すのは山形以外だと結構大変なんだが、『絵を描いてるときは頭を使うから糖分が欲しい』だとかで、お気に入りのベタチョコを差し入れないと機嫌が悪くなるんだよ」

 言われてみれば、ベタチョコを要求し始めたあたりに集中力が切れ、いらったような動作が目立っていた気がする。おじさんベタチョコという呪文は、登坂が美術室を訪れる時間帯だろうと思い込み、言葉足らずにベタチョコを所望した台詞せりふだったのだ。

「しかも、ウチのお姫様は『冷蔵庫で冷やせ』って言うのよ。だから学校にいるときはオレが配達係として、職員室の冷蔵庫で冷やしたベタチョコを手渡すんだが……今日みたいに部室へ寄るのが遅くなった日はイライラしたあいつに怒られ──」

「……おじさん、余計なことを言わなくていい」

「すみません! ワガママお姫様は怒ってばかりで怖いねぇ」

 女生徒が鋭い眼光と威圧でくぎを刺すと、登坂は平謝りしつつニヤニヤと口角を上げた。

「さっきから気になってたけど〝おじさん〟って呼ばれてますよね。登坂先生ってそんなに老けてましたっけ?」

「そんなに老けてねーよ! まだアラサーと呼べる年齢だわ!」

 実年齢おじさん説や老け顔説は断固として否定されたが、

「学校の連中には聞かれてないから言ってもいないが、オレはあいつの母親の弟なんだよ。ひらがなのおじさんじゃなくて、漢字で書くほうの〝叔父さん〟ってわけだ」

 結構な年の差がある不思議な関係のカラクリが判明した。

 顔見知りの親族なら距離感が家族みたいに近くてもうなずける。

「あいつ、やべーんだよ。親族の叔父さんを顎で使うんだぜ? ベタチョコもオレの好物だったのに、カツアゲされるようになって……叔父さん、泣けてくるわ。ていうか、ベタチョコ係ってなんだよ、ただのパシリじゃねーか。叔父さんは悲しいな……」

 ここぞとばかりに登坂が待遇の悪さを強調するも、女生徒はパンを食べ続けて無視を決め込んでいるのが笑えてしまう……。

「そういえば、補習って何するんですか? そのために来たんですけど」

 美術室を訪れた当初の目的を思い出し、登坂に説明を求めた。

「美術室にあるものを自由に選んでデッサンするだけだ。スケッチブックに描いたデッサンを一枚でいいから提出すれば、卒業に影響しない評価をくれてやる」

「一枚でいいんですか? それなら今日中に終わりそうっすね」

 昔から絵心がないのは自覚しているし、たかが帰宅部に高い画力など期待されていないのは明白。上手に描こうとくよりは、適度に手を抜いて早く終わらせてしまおう。留年さえ回避できれば、それでいいのだから。

「あー、言い忘れてた」

 したり顔のさかが説明を付け加えようとした瞬間、面倒な気配がした。

「合否を判定するのは、ウチのお姫様。あいつが許可しないと補習は終わらないから」

「……どうしてそうなるの!」

 こちらへ振り返った女生徒が、さすがにげんな表情を浮かべる。

「一応は美術部の部長なんだし、自分の絵を描くばかりじゃなくて、部員の指導もしないといけねーだろ?」

「……その人、部員じゃない。ベテラン帰宅部の並外れたかんろくがある」

 ベテラン帰宅部の並外れた貫禄とは? かなりすごそうだが全く凄くないな、それは。

「まあ、いいじゃん。オレも補習を見張ってるほどヒマじゃないし、体験入部扱いってことで短い間だけでも面倒見てくれよ」

 登坂の口車に乗せられ、面倒事を押し付けられる女生徒は気の毒だけど、たぶん断るだろうし心配する必要はなさそうではある。

「体験入部の面倒を見るのは部長の役目だろー?」

「部長の役目……部活ってそういうものなのかな……?」

 あれ、この子……意外と前向きな反応を示してないか。表情はしく引き締まっていながら、まんざらでもなさそうな浮ついた声色が僅かにこぼれている。

「……ただ、わたしは自分の絵で手一杯だから、何かを教える時間はないよ。その人の補習課題が完成したら見てあげるだけになるけど、それでも構わない?」

「合否を判断してもらうだけでいい。あと、雑用関係はこいつに押し付けて構わねえから」

「まあ……わたしの邪魔をしないなら別に良いけど」

 女生徒と登坂の間で勝手に話が進んでいるものの、召使いやパシリにしようとしている匂いがしないでもない。

 ただの帰宅部が美術室を使わせてもらうわけだし、簡単な雑用くらいなら引き受けるけどさ、今日だけの体験入部になるだろう。たぶん、大して労せずとも終わる。絵なんて小学校以来まともに描いた覚えがないものの、鉛筆デッサンは自由帳への落書きと大差ないイメージがあり、無駄にめた心境を抱いていた。

「そんじゃあ、オレは仕事に戻るわ。あとはよろしくなぁ」

 腹立つわぁ……。ひらひらと手を振り、軽快な足取りの登坂が職員室へと戻っていった。

 その場に取り残された二人。お互いに視線を合わせることもせず、初対面な相手との気まずい沈黙に支配された夕暮れに、意を決した俺はさいな一石を投じた。

「俺は三年のはなびしじゆん。もし良ければ、キミの名前を教えてくれない?」

 女子が苦手というわけでもないので、こういうときは躊躇ためらわない。女生徒は面食らったような表情の変化を示したけど、多少の静寂を挟み、重い口を静かに開く。


「……二年のわたよしです。美術部の部長をしています」

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