第二章 紅林鈴音の本性を僕たちはまだ知らない その1
「うわぁ、やらかした……」
太陽がさんさんと照り付ける三月半ばのある日、僕は朝から怠惰を極めていた。新たな住まいとなったかりん荘の一室で、布団に寝転がりながらソシャゲを起動している。そして無課金至上主義なりに頑張ってコツコツ貯めた石でガチャを回してみたら目当てのモノが一切出なかった悲しみで枕を濡らしそうになっているところだ。
春休みだから自由に過ごせる反面、この町はそんなに見所もないし、それゆえに朝からこうして部屋に閉じこもってソシャゲをプレイしているわけだけれど——
「これはさすがに良くない気がする……」
もっと他にやるべきことがあるはずだ。
たとえば来る高校生活に向けての勉強とか。
あるいはそう——《お姉ちゃん》捜しとか。
そう考えつつ、僕は布団から這い出る。部屋に備え付けの机に向かう。
そこには、数日前に届いたメモ用紙が置いてある。
『久しぶり。大きくなったね』
そんな言葉が記された《お姉ちゃん》からのメッセージ。
一体どこの誰がこれを届けに来た《お姉ちゃん》だというのか。
夜中にこのメモ用紙を届けに来られるくらい、《お姉ちゃん》は僕の近くに住んでいるのだろう。
したがって、このかりん荘の住人が怪しいんじゃないかと思っているのだけれど、
「……どうなんだろう」
まだ分からない。
全然分からない。
だからここから地道にヒントを探すなりなんなりしていかないといけない。
ピンポーン、とその時、部屋のインターホンが鳴らされた。
誰だろう? 僕は玄関に移動し、ドアスコープから外の様子を窺う。
すると——
(あ、鈴音さんだ……)
ドアの向こう側に立っていたのは大家の鈴音さんだった。
桜色の髪を風に揺らめかせつつ、今日も胸元を強調させるニットセーターを着ているのが素晴らしいと思う。その上には紺のエプロンも着用しているのだけれど、巨乳はそれに覆われるどころかニットセーターごとエプロンからむちっとはみ出していた。相変わらずすごいおっぱいだ。はちきれんばかり、っていうはこのことだろうね。
(でもなんの用かな……?)
僕はひとまずドアを開けた。ひんやりとした風が流れ込んできて、鈴音さんのいい匂いも同時に僕の鼻を撫でていく。
「あ、おはよう要くん。春休みなのにお寝坊さんじゃなくて偉いわね」
「おはようございます、鈴音さん。何かご用ですか?」
「用というほどの用はないのだけど、夜にきちんと眠れているか気になったの。引っ越して環境が変わったわけだから、もしかしたらここのところ眠れない夜を過ごしているんじゃないかと思ってね。どう? きちんと眠れているかしら?」
鈴音さん、わざわざそんなことを気にして訪ねてくれたのか。ありがた過ぎる。
「全然大丈夫ですよ。ご心配には及ばないです」
「そう? なら良かったわ」
そう言って微笑む鈴音さんが天使に見えた一方で、僕はその天使の全身をまじまじと眺める。見とれている、のではなくて、鈴音さんが《お姉ちゃん》か否かを探っている。
僕の記憶にある一〇年前の《お姉ちゃん》は黒髪で、おどけた性格で、学生にしては発育のいい体をしていた。
そんな《お姉ちゃん》を基準とした時に、鈴音さんはまず髪色が違うけれど、髪の毛なんて幾らでも染められる。性格は鈴音さんの方が大人しめではあるものの、年月を経て落ち着いただけかもしれない。体は鈴音さんの方がグラマーなのは確実だが、こちらも年月を経て更に育ったんだろう、と言えるわけで。
……あれ? ひょっとして鈴音さんが《お姉ちゃん》……?
いや待て待て、そう決め付けるのは早計だろうよ。
顔付きが微妙に違う気がするし。
そもそも鈴音さんは先日、僕に初対面の反応を見せたんだぞ?
でもそれが演技だったら話は変わってくるわけだし……。
「要くん、どうかしたの? じーっと私を見ちゃって」
「え? あぁいや、なんでもないですっ」
僕はとりあえず思考を切り上げた。鈴音さんが《お姉ちゃん》かどうかなんて、もう少し鈴音さんを観察してみないとなんとも言えない……。
「本当になんでもない? 調子が悪いなら言わなきゃダメよ? ちょっといいかしら」
鈴音さんがいきなり僕のおでこに自分のおでこをくっつけてきた。
「す、鈴音さん……っ!?」
「どうやらお熱はないようね」
「な、ないですよ! 本当になんでもなくて、単にぼーっとしてただけですしっ!」
「それならいいのだけど」
鈴音さんは大人しく引き下がってくれた。……そういえば今日の鈴音さんは楚々として落ち着いている。先日は僕を妙な目で見ている感じが節々で感じられたのだけれど、あれはやっぱり気のせいだったのかな。
「ところで要くん、このままお邪魔してもいいかしら?」
「え、なんでですか?」
「お掃除やお洗濯を引き受けてあげようと思ってね。そういうの慣れてないでしょう?」
「まあ……」
掃除は苦手だし、備え付けの洗濯機は使い方がよく分かっていないのが現状だ。
「ふふ、男の子はそんな感じでいいと思うわ。だからこそ、私に任せてくれるかしら?」
嗚呼……僕は理解したよ。この人は天使じゃない。もはや女神だ。清掃と清楚を司るどこぞの神話の一柱に違いない。後世まで語り継いでいくしかあるまいね、これは。
「どうぞ鈴音さん、幾らでもお任せしますよ」
「ほんとに? じゃあお邪魔させてもらうわね」
かくして僕の部屋に入室した鈴音さんは——
「(す、数日使ってもらっただけでもうこんなにもショタ臭が……!)」
と、何やら小声で呟きながら目を輝かせていた。
……なんか怪しい感じが出てきたような?
「あ、あの……僕も何かお手伝いしましょうか?」
「え? ううん、お手伝いはしなくていいわ。要くんはくつろいでてちょうだいね?」
優しくそう言われてしまったので、僕は鈴音さんによる清掃を見守ることになった。
※
「あー……いいなぁ~……要っちは羨ますぃなぁ~……」
数分後。ふとそんな声が聞こえてきたので振り返ってみると——換気のために開けっぱなしの玄関から、お隣の白ギャルユーチューバー・一夏さんがこちらを幽鬼じみた表情で見つめているのが分かった。
「わっ……! え、えっと……おはようございます、一夏さん」
「うん、おはよ……要っちになりたいだけの人生だった……」
「い、いきなりなんですか?」
「だって鈴音っちによるお掃除オプションとか羨ましいじゃん! 何それ! あたしは今からこうして自分でまとめた燃えるゴミを出しに行くところなのにさ!」
一夏さんの手にはパンパンに膨れた燃えるゴミの袋が持たれていた。
「同じアパートの住人なのに何この格差! おい鈴音っち! 要っちだけ贔屓すんのはやめなよ! この露骨な贔屓を動画にまとめて炎上させちゃうぞ! BOOOOOO!」
一夏さんが左手を逆サムズアップ状態にしながらブーイングしていた。
「……朝からやかましい子ね、一夏ちゃんは」
僕の部屋を掃き掃除している鈴音さんが、呆れた表情で玄関に視線を寄越した。
「あのね一夏ちゃん、あなたは成人したオトナでしょう? 対する要くんはまだ中学校を卒業したばかりの子供なの。庇護対象なのよ。管理人の私には未成年の入居者である要くんを見守る義務があるし、私自身そうしたい気持ちがあるからこうしているの。——そもそも一夏ちゃん、あなた程度のチャンネルに載せたくらいじゃ炎上しないでしょ?」
「ぐはっ……! やめて鈴音っちぃ……っ、痛いところ突かないで~……っ!」
「秘孔まみれの一夏ちゃんが悪いのよ」
「ひでぶっ」
……一夏さんが少し可哀想になってきたので、僕は一夏さんサイドとして口を挟む。
「まあでも、今はちょっとしたことでバズりますし、チャンネルの規模と炎上の確率は比例しないと思いますよ」
「そうだそうだ! 今は何があるか分からないんだよ鈴音っち!」
「だとしても、お掃除オプションは未成年のみだから一夏ちゃんは我慢なさいね?」
「むぅー……未成年のみっていうのがさあ、それホントなの鈴音っち?」
「何が言いたいのかしら?」
「いやね、なんかその理由がさ、要っちのお世話をしたいがゆえの大義名分にしか聞こえないんだよね。だってほら、鈴音っちってショタ——」
「——ねえ一夏ちゃん、家賃二倍になりたいのかしら?」
そのひと言はとんでもない威圧感を伴っていた。蛇に睨まれた蛙のように、一夏さんは硬直して言葉を途切れさせ、僕さえも怖じ気付く。……ところで、ショタがどうしたって?
「ご、ゴミ捨ててこよーっと」
ややあって動き出した一夏さんが、逃げるように階段を降りていく。
鈴音さんが、真顔で僕に視線を移していた。
「ねえ要くん」
「は、はい……?」
「あなたは何も聞かなかった。いいわね?」
「は、はいっ……!」
そ、そうさ、僕は何も聞かなかったんだよっ。ショタがどうとか忘れちゃったよねっ。
「あら、素直でいい子ね。じゃあ引き続きお掃除しちゃうから、要くんも引き続き何もしないままくつろいでてちょうだいね?」
「い、いや、やっぱり手伝いますよ。自分の部屋のことですし」
「まあ、なんて素敵な心遣いなのかしら……泣けるわ」
ガチで潤んでるじゃないか!
そんな感情豊かな鈴音さんと一緒に、僕は改めて掃除を始めることになった。
※
『うぅ……いたいよぉ……』
『あ、要くん大変っ! 転んですり剥いちゃったんだね……——じゃあはいっ、あそこの水飲み場で傷口洗って、この絆創膏で塞いじゃおっか』
『うん……ありがと、おねえちゃん』