スーパーカブ/トネ・コーケン
『部屋でバイクを楽しもう』
晴れるのは今日一日だけで、明日からはまた雨が続くらしい。
高校三年の秋。
シルバーウイークと呼ばれる十月の連休を控え、あれこれとツーリングやメンテナンスの予定を立てていた小熊は、まことに面白くない時間を過ごしていた。
梅雨の時に同じような気分になった記憶があるが、ここ数年は秋の長雨が初夏の梅雨より長くなっている気がする。
バイクがどんなに進化し、乗る人間のスキルや装備が向上しても、雨という物はバイクの天敵で、出かけるのも整備するのも不可能ではないが、色々な制約が求められ、何より気持ちよくない。
ふてくされてもしょうがないと思いつつ、雨の連休を少しでも快適に過ごすべく部屋の中を見回したが、元々家具というものをあまり置かない部屋にはろくな物が無く、せいぜい暇つぶしに役立ちそうなのはバイク雑誌とラジオ、動画が見られるスマホくらい。
小熊は自らの生活や趣味の拠点である自室がこれほどまでに寂しい物だったのかと少々呆れたが、1LDKの部屋を子細に吟味していて、この空間に足りない物が何なのか気づいた。
スーパーカブが無い。
この刑務所か何かのような集合住宅の一室も、スーパーカブがあればきっと充実した時間を過ごす事が可能なスペースとなる。さすがにエンジンを始動させる事は出来ないが、普段は行わないような整備など、やる事は多い。最近は水洗い程度でしっかりワックスやコーティングの作業をしていなかったカブをスポークの一本まで磨き上げるのもいいだろう。何よりカブはただ見ているだけで幸せな気分になる。
社会人になった男子が欲しい物の上位は、自分の車を収め、整備するガレージだという。そんな夢のガレージには大概の場合、磨き上げた愛車をガラス越しに眺める、カフェのような造りの小部屋がある。
正直なところ、小熊はそこまで愛玩的なバイクマニアではないし、実用品であるカブを肴にお茶を飲む趣味など無いが、カブを部屋に持ち込むという案自体は悪くないと思った。
あれこれと考え事を巡らせた後で、小熊は一旦冷静になった。集合住宅の賃貸部屋にカブを持ち込むなんて、そんな事が出来るわけない。入居時に積んだ敷金が吹っ飛ぶのは確実、下手すれば退去させられ宿無しになる可能性もある。
果たして本当にそうだろうか。
以前の小熊なら、こういう時にさっさと諦めていたが、カブに乗るようになってから、知己を得た何人ものバイク乗りに影響させられたのか、無理だと思う事もとりあえずダメモトでやってみるという思考が芽生えつつあった。
スマホを手にした小熊は、住んでいる集合住宅の管理会社に電話した。一応、共同入り口の蛍光灯切れを知らせるという表向きの用事を伝えつつ、世間話として雨の続く日への愚痴など述べ、相手が話に乗って来た頃合いで、部屋にバイクでも持ち込みたくなりますね、と冗談めかして言った。
意外な事に、電話相手の管理担当者はしばらく唸り声をあげた後、いいとは言えないけど勝手にやっちゃう分には、特にこちらからは何ら問題視しないと言う。
聞けばその人もバイク乗りで、ここ数日の雨に嘆息していたらしい。その後、担当者が女房より溺愛しているという旧いカワサキの自慢をしばらく聞かされた。凄いですいいバイクですと通り一遍のお愛想など述べたが、家庭を持つ社会人の身で趣味性の高いバイクに乗り続けている人間への言葉としては、世辞というわけでもない。
小熊はカブに乗るようになって知ったが、バイクを愛好する人間は、様々な業種、あらゆる年齢層の中に遍在していて、どんな職場や集団でも、探せばバイク好きが居ることが多い。
それらの半ば潜んでいるバイク乗りの多くは、他の趣味より強い連帯意識を抱いていて、同じバイク乗りに対して何かと便宜を図ってくれる。無論小熊も、客先の人間がバイクに乗っていれば、それだけでいつもより丁寧な仕事に努め。その人間の円滑な社会生活、ひいては幸福なバイクライフをお手伝いさせてもらいたいという気持ちになる。
その後、ガソリンやエンジンオイル等の揮発油を抜き取る事、床やアルミサッシは汚損しないよう養生する事を条件に、バイクの持ち込みは黙認される運びとなった。小熊が気になっていた床の強度については、うちは高度経済成長期に乱造された海砂コンクリの集合住宅とはわけが違う。成人男子の体重とさほど変わらないスーパーカブ程度ならビクともしないと請け負って貰った。
電話を切った小熊はさっそく動き始める。スペースを確保するため机をキッチンスペースに押し込み、床に段ボールとブルーシートを敷く。駐輪場のカブを掃き出し窓から一階の自室に運び入れる傾斜板については、専用のラダーレールを借りるまでもなく、以前建築解体の現場で、変形したためいらなくなったという足場板があったので、カブを車載する時に役立つと思い貰ってきていた。
管理会社に言われた通りガソリンとオイルを抜き取り、窓枠の下端にクッションを挟んで立てかけた足場板を使ってカブを室内に押し上げる。これくらいの重さなら特に力をふり絞るというほども無く、普段の駐輪場内での移動などで押し歩く作業が、ちょっと重くなった程度だった。
無事、部屋の中に入れられたカブを眺めながら、小熊は頬を緩ませた。
屋外では小さいカブも室内では案外大きく、部屋の中を移動する時はベッドとカブの間を体を横にして、思い切り腹を引っ込ませて通らなくてはいけなくなったが、それがまた主人にじゃれつく犬や猫のようで可愛らしい。
ベッドに腰かけ、しばらくカブを眺めていた小熊は、急に思い立って大窓を開けた。ついさっき運び入れたカブを外に出し、抜き取ったガソリンとオイルを入れなおす。
カブを部屋に持ち込むという物珍しい楽しみに夢中で忘れていたが、明日からの雨でしばらく近所のスーパーに行くのも雨で面倒になる。今のうちに生活に必要な物を買い出しに行かなくてはならない事を思い出した。
室内でカブをいじるためのメンテンナンスグッズも揃えておきたいし、それらとは別に買うべき物がある。
カブを眺めながら幸せな時間を過ごすための、ちょっと上等なコーヒーと茶菓子。