【3巻試し読み】3年分の「ありがとう」だよ、先輩

第二章『七月六日(二回目)』その2

「ああ、恥ずかしい……。本当に恥ずかしいよ、私は……くぅ」

 リビングのテーブルについて、小織が呻く。来たときより落ち着いていたが、それでもやっぱり恥ずかしそうだ。

 別段、そこまで恥ずかしがることでもないと今は思っている。

 確かに初めは驚いたが、思い返せば違うようでいて似ている部分もないではない。少し理屈っぽいところとか、そういえば小織らしい。何より、声は完全に同じだった。

「……ふぅ。まあ、どうせいつかはバレることだし、予想外のところでこうなっちゃったけど、逆に踏ん切りはついたってことで。……うん、落ち着いた。というか開き直った」

 そう言って顔を上げる小織。

 僕は、疲れているだろうとグラスに冷えた麦茶を用意し、彼女の正面に座る。

「……確認してもいいか?」

「いいよ。っていうか、思ってるので正解。電話に出たのは、眠っているほうの私だね。話したならわかるとは思うけど、お察しの通りコミュニケーションが下手な干物女だ」

「いや、そこまでは思ってないけど……」

「……言わなきゃよかった」

 憮然とする小織。

 彼女をやり込められる珍しいチャンスなのだが、ここで追い打ちするのも鬼すぎる。

 さきほどの涙目を見てまで、からかうことを優先はしない。相手が灯火やまなつならばともかく、小織には僕は優しくしたい派だ。

「……ええと。とにかく、ここは小織の《夢の世界》ってことでいいんだよな?」

「あ、うん。それは間違いないよ。あちらの生原小織がいる時点でね。どうも、首尾よくとはいかなかったみたいだけど……とりあえず、潜入自体はできたと言っていい」

 どうやら小織にも予想外の事態が起きたみたいだが、まずは現状の把握を優先したい。

「あんまり、現実と変わらないな。夢の世界とかネバーランドとか言うから、てっきり」

「もっとファンタジーな世界を想像した?」

「どうだろうな。ドラゴンとは言わないけど、ワニくらいは覚悟してた、かな」

「ははは。そうだね、チクタク聞こえたら注意しておくといいかも……って言いたいとこだけど、残念ながら物理法則は現実と変わらない。妖精も怪物も、もちろんいない」

「……みたいだな、この分だと」

「それじゃあダメなんだ。そんな、明らかに現実じゃない世界に、生原小織は浸れない。そこが夢の世界であることを自覚してしまう。──それでは意味がないんだよ」

 小織は確信的に言う。

 夢が、夢であることを、自覚してはならないのだと。

「じゃあ、ここにいる小織は……」

「うん。彼女には、夢にいるという自覚がない。この世界を、現実だと思い込んでいる」

「……やっぱり、か……」

「いくら分割したと言ってもね。実際、理性を完全に切り離せるわけじゃない。それじゃこちらの生原小織は知性もない獣になってしまう。境界なんて、曖昧なものなんだよ」

「…………」

「だからこそこっちのアレを知られるのが、私は恥ずかしかったわけだけれどね! あの生原小織だって、結局は私にある側面のひとつなんだから! わはははー!」

「なんか悪かったよ……」

 ちょっと開き直って叫ぶ小織。

 ごめんて。でも、あっちに通話が繋がるとは思わないだろ。……あれ、なんでだ?

 それも大きな疑問点だが、今は措く。確認すべきことが多すぎて、ひとつずつ整理して進めないと混乱してしまいそうだ。

 そう。となれば、いちばん最初に確認しておくべきことは、何よりも。

「最終目標から確認しよう。星の涙の願いを捨てさせ、現実世界の小織を起こす。それは可能だと、そういうことでいいんだな?」

「可能だよ。いや、と言っても確証はないけれど」

「……そう考える理由は?」

「生原小織の願いが《《現在進行形だからだ。彼女は対価を払い続けていて、払っている分の願いを叶えられている。だから、対価を払うことをやめれば、願いも取り上げられる──そう考えるのが自然だろう。違うかい?」

「いや。──その通りだと思う。これまでもそうだった」

 灯火やまなつの場合が、そのパターンに当て嵌まる。

 逆に僕の願い──陽星の場合は、もう。キャンセルできないのは、それが理由だろう。

 これをキャンセルする場合、それは《陽星を元に戻してほしい》という、形になる。つまり、再び対価を取られる。

 割に合わないにも程があったし、そもそも僕は、二度と星の涙を使う気はない。

 小織の願いが、その形でないことを確認したかっただけだ。

 ──もしもそうだった場合、果たして僕は、小織に何を言ったのだろう。

 そんなことは、想像すらしたくない。

「わかった。次は方法だ。小織はいったい、どうすれば止められると考えてる?」

「当然、当人を説得する以外にない」

 小織は断言した。僕が想像していた方法と、同じものだ。

「星の涙の所有者は生原小織だ。私ではなく眠っているほうのね。そして、所有者がその願いを捨て去る以外に、方法はないと私は思う。ここに来たのは全てそのためだよ」

「……まあ、そうだろうな」

 つまり、これまでと特に変わらない。

 この世界の小織に会いに行き、ここが夢の世界であることを自覚させ、その願いを放棄させる。

 それ以外に方法はなく、ならばそのために、僕が小織に訊いておくべきこととは。

「……本題だ、小織。そのためには、確認しておかなきゃいけないことがある」

 そう切り出した僕に、小織は一度だけ頷いて。

──だね?」

「ああ。……それを、聞いてもいいんだな?」

 生原小織が現実を捨てると決めた理由。

 そこにはきっと、それに足るだけの過去がある。

 けれど、僕はそれを知らない。知っていたのかもしれないが、もう覚えていない。

 ──

 彼女は言った。僕に向け、かつて──現実を捨て去るそのときに。ありがとうと矛盾した言葉とともに。

 つまり、僕は一度、彼女を助けることに失敗している。救いを求めるひとりの女の子を助けてあげることができず、結果として彼女を醒めない眠りへと追いやってしまった。

 僕はそれに、向き合う必要があるだろう。

 けれど。僕を見て、小織は静かにその首を振って。

「……申し訳ないけれど。それは、教えられない」

 まさかここで梯子を外されるとは、僕も想像していなかった。

「お、おい……なんでそうなる? そのために僕を連れてきたんじゃないのか……?」

「それじゃ、たぶん意味がないんだ。教えられたところで、その程度で、生原小織を説得できるとは私には思えない。伊織先輩だって、それで説得できるとは思わないだろう?」

「……っ」

 言わんとすることは、僕にもわかった。

 だって、僕は知っていたはずだ。知っていたはずのことを忘れて、それで説得しようだなんて、烏滸がましいにも程がある。

 当時の僕が、彼女を助けることができていれば。

 ──そもそも生原小織は、こんな状況に陥ってすらいなかったのだから。

「ごめんね、勝手なことばかり言って」

 小織は頭を下げる。

 けれど、それは小織が謝ることではない。少なくともこの小織が。

「いや、むしろ呼んでくれて感謝してるくらいだ。機会があるってのは恵まれてるよ」

「……ごめん」

「謝らなくていいって。わかった、僕が自力で思い出す。──そのためのヒントは、この世界にあるってことでいいんだろ?」

「……うん、そのはず。というより、この世界に来た時点で、伊織先輩は少しずつ過去を思い出せると思ってたんだけど……」

「……そういえば」ふと、僕は思い出す。「いや、小織の記憶じゃないんだけど。ここで目覚める直前に、何かこう……妙なものを見た気がする」

「妙なもの?」

「ああ。僕が誰かと、笑って話してるところ……かな。そこで誰かに声をかけられたような、そんな気がする……」

「ああ。……それはきっと、生原小織の夢を垣間見たんだろう」

 小さく、小織は言った。

 僕は首を傾げる。

「この世界が、その夢なんじゃないのか?」

「そうなんだけどね。ごめん、なんというか……なんか、変わっちゃったみたい」

「……それ、どういう意味だ?」

 小織の説明の意味がよくわからない。

 確認する僕に、小織はどこか困ったような笑みを見せて。

「……生原小織の夢の内容は、前も少し言ったけど、要は幸せだった頃の記憶の再現だ。あるいはその理想形。たくさんの友人に囲まれ、楽しく暮らしている……青い夢だ」

「そういえばさっきの電話で、あっちの小織は自分が中学生みたいなこと言ってたな」

「その当時で、彼女が認識する時間は止まってるんだ。そしてそのことすら自覚せずに、ずっと同じ日々を繰り返し続けている」

「…………」

「永遠に終わらない中学二年生の七月──それが、この世界の正体だ」

 ……なるほど。

 しかし、だとするなら。

「ここは中学二年の頃の……つまり、三年前の七月六日ってことになるのか?」

「なる、と思ってたんだけどね。うん、本来はそのはずだった。ところで、ひとつ先輩に訊きたいんだけど」

「……なんだ?」

「先輩のそのスマホ、買ったのっていつ?」

 さきほど小織にひったくられたスマートフォンは、今はテーブルの上に置いてある。

 少し考えて、それから。

「高校に入った直後くらい……だな」

「最新機種だった?」

「え? あー……なるほど、そういうことか」

 言いたいことが少しわかってきた。僕は答える。

「確か、出たばかりの機種だった。なるほど、三年前の世界には存在してないはずだな」

 言いながら僕は、リビングの壁にかけてあるカレンダーに目をやった。

 僕の視線を追うように、小織もカレンダーの年を確認する。

「二〇一九年──現実と同じ年だね。念のため訊くけど、三年前の伊織先輩の家で、三年後のカレンダーをかけていたことは?」

「あるわけない」

「だよね。んー……だとすると、つまり……」

 小織は口元に手をやって考え込む。

 この夢は本来、二〇一六年の時間軸にあるはずが、なぜか三年後に進んでしまっているという話だ。だが電話の先が生原小織に繋がった以上、夢の中には来ているはず。

 ……まあ根本的に、夢の世界で電話が通じるのも謎な気はする。

 ていうか、なんか簡単に《夢の世界》とか言って、僕も納得していたけれど。そもそも夢の世界ってなんなんだ。現実に、物理的に存在する空間というわけではなさそうだが。

「結局、どうなってるってことなんだ?」

 僕が訊ねると、小織はそっとこちらから視線を逸らして。

「うん……まあちょっと言いにくいんだけど」

「聞きたくなくなってきたな」

「ごめん。──私にも、何がなんだかさっぱりわからない」

 それを笑顔で告げられてしまっては、返す言葉もなかった。

 どうなるかわからないとは来る前に聞いていたが、それでも予想外だ。小織はもう少し状況を把握しているものだと、勝手に思い込んでしまっていた。

「お前、実はかなり適当だよな……」

「仕方ないじゃない。こうして試してみる以外に、結果を知る方法ないんだから」

「……ま、そりゃそうだ。自分の目で見て回るしかない、って話だな」

 息をつき、そして立ち上がる。

 まずはこの目で、この世界を確認することから始めてみよう。失った記憶も、あるいはどこかで拾い上げることができるかもしれない。

「行くか」

 そう告げると、小織も頷いて席を立つ。

「そうだね。ここで話していても始まらない」

「つってもどこに行く? 特に目的地らしい目的地は思い浮かばないんだが……向こうの小織に、いきなり接触するのは避けたほうがいい、よな?」

「そうだね……ある程度、説得の材料になりそうなものは先に揃えたほうがいいと思う」

「説得の材料か……」

 少なくとも、物理的なものとして存在はしていなそうだが。

 ──基本的な方針はふたつ。

 第一に、この世界の仕組みの把握。そして第二に、失った記憶と説得材料の回収。

 どちらにしても、足で稼ぐ以外の方法はとりあえず思い浮かばなかった。逆を言えば、まずはこの世界を実際に歩いてみることが、どちらにせよ先決か。

「記憶。記憶、ね……。ところで僕と小織って、小学生の頃から知り合いだったのか?」

 小中と同じだったことは聞いているが、その頃から親しかったのだろうか。

 どう振り返ってみても、やはり僕が持つ記憶の中から、生原小織というひとりの少女の思い出が消え去っているという自覚は持てない。仮にも友達だったなら、少しくらい違和感があってもいいだろうに。まったく、星の涙は空気が読めなすぎる。

「そうだね。最初に伊織先──と親しくなったのは、小学生の頃だったよ。三年生のとき、同じクラスになったんだ。そのあとくらいから、かな」

「……なるほど。じゃあ、陽星と仲よくなったのと、だいたい同じくらいか」

 辻褄は合っていた。

 ちょうど、流希の体調が悪化し、あまり遊べなくなった頃。僕は新しい友達を作ろうとして、確か遠野と少し話すようになったのも──……。

「…………」あれ。

 それではおかしいということに僕は気づき、思わず目を細めた。

 疑問を、だから言葉にする。

「小織。お前、遠野とも知り合いだったんだよな? 最初から」

「そういうことになるね。その話も、喫茶店でした通りだ」

「……隠してた、ってことだよな?」

 遠野と高校で再会したあと、共通の知り合いであるナナさんと会ったことがある。そのとき、小織と遠野は出会っていた。

 だが僕は、ふたりはそのとき知り合ったものだとばかり思っていたのだ。

「私はそのつもりだったよ。否定しない。バレてしまうまでは秘密にしていよう、と最初から決めていたからね」

 ならば遠野は、その意志を汲んだということか。

「ん……んん。そうか……」

 そう聞けば特におかしくない気もする。あれ、なんか重大なことに気づいたと思ったんだが、よく考えれば別にそんなことなかったのか……。

 小織が言い出せなかったことは、いくらなんでも責められない。自分が消滅することを受け入れて、こうして付き合ってくれていることのほうが、むしろおかしいくらいだ。

 そして遠野は、仮に僕が気づいていないことに気づいたとしても、それを言葉にする奴ではない。親切に教えてくれる遠野のほうが、想像して気持ち悪いくらいだ。

 なんか……思ったより大したことじゃなかったな、これ。

 かぶりを振って、僕は気を取り直す。遠野のことを考えるより、まずは小織のこと。

「オーケー。そしたらまずは、小学校にでも行ってみるか」

「いいんじゃないかな。実は私も、一度行ってみたかったんだ」

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