第二章『なんの変哲もないごく普通の「楽しい」一日』その5
結局、僕らは一限目には間に合わなかった。
「もう急がなくてもよくない? こんなタイミングで教室入るの嫌なんだけど……」
「……一理あるな」
それなりに早足だったが、疲れてきたし、ちょっと開き直りたくなっている。
いや、こころの学校は近かったのだ。
問題は着いてからで、小学校の集団登校にこころがいないことが教師たちにも伝わっていたらしく、すでに保護者にも連絡が向かっていたとのこと。
そこに平然と、こころを連れてやって来る、見るからに怪しい男子高校生と、見た目のチャラい女子高生。すわ何ごとか、と事情聴取を受ける羽目になったわけだ。
まあ、勝手に連れ出したのどうこう疑われなかっただけ幸運だろう。
むしろ、しきりに礼を言われてしまった。
小学校から連絡を受けたこころの母親が向かって来ており、「ぜひ礼がしたいから」としばらく待つように頼まれてしまったのだ。いや、もちろん固辞はしたけれど。
結果を言えばできなかった。
今どき見上げた子じゃないか云々と、いらない気を利かせた教員のひとりが「君たちの高校にはこちらから連絡を入れておくから大丈夫だ!」と言ってくれてしまったのだ。
僕も、天ヶ瀬も、大人に囲まれて褒めちぎられては、さすがに断りにくい。
結局「事情があるから遅刻扱いにはしない」と高校からの返事もあり、そのままなんと応接室でお茶をご馳走になってしまった。
なんだろうね、この展開?
その後、やって来たこころの母親に何度も礼を言われ、何かお礼がしたいという提案を必死で遠慮しまくった。向こうも食い下がったのだが、そのときたまたまスマホに着信があったため、それを理由に逃げ出したのである。生贄として連絡先を提示して。
うーん……あんまり縁を作るのは正直、僕の本意ではないのだけれど。
この場合は仕方ないだろう。向こうも一応の礼儀として言っているだけだろうし。
──ちなみに、着信は灯火からだった。
『どういうことですかっ! わたしが寝坊している間にいったい何が!?』
「寝坊だったのか。っと、それよりいいところに掛けてきてくれたな。助かったよ灯火」
『へ? はあ……それならいいですけど。いや違うよくないっ!』
「何言ってんだ?」
『こっちの台詞なんですけどぉ! さっきのメッセージ、あれはいったい──』
「ああ、うん。今ちょっと天ヶ瀬といっしょでな」
『はああああああああああああああああああああああああああああっ!?』
「うっさ! 声でけえよ……おい、勘違いするなよ。ただちょっと、小さい女の子がだな」
『子どもぉっ!? まさかっ、う、うまっ……生まれたんですかっ!? おめでたっ!?』
「…………ごめん電波がちょっとアレだわ」
『いやちょっ、待っ、せんぱ──』
そこまでで僕は通話を切った。
どういう勘違いだ。物理的にあり得ないだろうが。
説明するのが面倒になって、僕は以降、スマホの電源を落とした。
それから小学校を出て、通学路に復帰したわけである。
「ねえ、やっぱサボらない? いいじゃん、今日はいいコトしてきたんだし」
学校の目前まで来てなお、天ヶ瀬はそんなことを言う。
「無理だっての。学校に連絡行ってんだから。わかってんだろ?」
「わかってるけど……なんかなあ。こういうのじゃないと思うのにな……」
さきほどから天ヶ瀬は、何かが釈然としない様子で、しきりに首を傾げている。
「どうしたんだよ、さっきから。何が不満なんだ?」
「不満ってわけじゃないけど……てか、先輩こそどうなの?」
「どうって」
「普段からこんなことしてるワケ? それって楽しいの?」
「…………」
問いへの答えはともかく。
楽しい──。
彼女は楽しいかどうかを強く意識している。これはひとつのキーワードだ。
これを掘り下げれば、あるいは天ヶ瀬の目的に迫れるかもしれない。
「別に楽しいわけじゃないが。楽しくないとダメか?」
訊ねると、天ヶ瀬はハッと鼻で笑って。
「そりゃそうでしょ。第一、先輩は自分から首突っ込んでんじゃん」
「……別に好き好んでやってるわけじゃないぞ」
「なことわかってるっての! あーもう、そういうことじゃなくってさあ……!」
天ヶ瀬は言葉を探していた。
何か、僕に言いたいことがあるのだろう。それを待つ。
「──先輩は、さ。もっと、自分の好きに人生生きようと思わないワケ?」
やがて、彼女はそんなことを僕に訊ねてきた。
自分の好きに、ときたか……また難しいことを言ってくれる。僕は軽く肩を揺らした。
「割と好き勝手やってるつもりだけどな」
「だからそういうことじゃなくてさ。あーもう、なんで伝わんないかなあ……」
頭を抱えて。
天ヶ瀬は、うがーっ! と叫ぶと僕に向かって指を差す。
「人は、自分のために生きるべきだと思う」
「……哲学か?」
「違うから。現実の話。先輩って、いっつも自分以外の人のことばっか考えてるじゃん」
「僕がそんな善人に見えるのか、お前には……」
「そんなこと言ってない。てか悪いって言ってるんだけど」
どうやらこれは批判だったらしい。
押し黙った僕に、天ヶ瀬は細い目を向けながら。
「もっと、何も考えずに遊んだりとか、無駄なことに時間使ったりとかしないと、いつか絶対、全部が溢れるんだ。自分の中に留めておけるものなんて、限りがあるんだから」
流れで出てきた言葉にしては、実感が込められている。
つまりこれは、天ヶ瀬が以前からずっと抱いていた考えなのだろう。
「だから先輩には何も考えず、バカみたいにしててほしいと思ったワケ! だってのに、朝からあんなの……計算外にも程があるっての」
「アレは、まあ偶然だったろ」
「だから付き合ってんじゃん! でも、ずっとそうだと私が楽しくない!」
「……自分のためにか?」
「当たり前でしょ。先輩ずっと陰気臭いし。暗いし難しいコトばっか言うしバカだし」
「おい」
「私はそんなこと絶対したくない。いいじゃん別に、高校生なんだから。変なことばっか考えてないで、適当に、気楽に──楽しく過ごしてればそれでいいじゃんか」
「それは……なんというか」
少しだけ迷って。
それから僕は、どこまでも中身のないことを口にした。
「お前、女子高生みたいなこと言うのな」
「いや女子高生だっての。どこから見ても恥ずかしくない華のJKだっての!」
「その発言がすでに恥ずかしいだろ」
「うっさいな、先輩のバカ頑固。とにかく私のいるうちは、先輩は余計なこと考えないで遊んでればいいの! ほんっとマジあり得ないっての。私の温厚も限界なんですけど」
ふん、と視線を切ることで、天ヶ瀬はこの話題を断ち切った。
それから彼女は、通学鞄の中から、急に一冊の手帳とボールペンを取り出した。
「なんだそれ?」
「日記帳」
訊ねた僕に、天ヶ瀬は端的な答えを返す。
答えているようで事実上、あまり答えになっていない。
「なんで、道端で急に日記帳を取り出すんだよ」
「私の勝手でしょ。急に日記が書きたくなったんだから放っといて。文句ある?」
言うなり天ヶ瀬は、すぐ傍にあった植木の周りを囲う円形のベンチに腰を下ろした。
学校の敷地の近くに、いくつか並んでいるものだ。
「別に文句はないが……、……ん?」
──そのとき。
僕の脳裏を何かがよぎった。
「何? 勝手に見ないでよ。乙女の秘密なんだから」
「人の日記を勝手に覗いたりしねえよ」
答えつつ、僕は思い出していた。
それは、まだ中学生だった頃の記憶だ。星の涙に封じられていたわけではない。純粋に思い出す機会をなくしていた、大事だけれど遠い記憶。
天ヶ瀬が指摘した通り、僕はなんでもない日常をどこか遠くに置いていたのだろう。
「……その日記帳」
僕は言った。
天ヶ瀬は顔を上げて、けれど不自然なまでに無表情で。
「何?」
「……いや、なんでもない。それより、いったい何書いてるんだ、道端で?」
僕は話を誤魔化し、別の話題へと移った。
そうする意味があるのかは正直、わからないのだが。
「うるっさいなあ、念のためだってーの。文句ある?」
「なんで怒るんだよ……」
「先輩の顔、なんかムカつくし。道端で空飛んでる野鳥に煽られてる気分になる」
「どういうこと?」
よくわからない比喩を使う天ヶ瀬。小学生に影響でも受けたのだろうか。
灯火と違い、天ヶ瀬は常識人枠なのだ。その立ち位置を大事にしてもらいたい。
あんな面倒臭いの、ひとりだけで充分だ。
「えーと。『今日は先輩といっしょに、通学中に人助けをしました。朝から面倒でした』」
「覗くなとか言ったくせに音読するのかよ……。何それ? 当てつけ?」
「『先輩は、今日も面倒臭いです』」
「当てつけだね。オッケー、聞きますよ」
「『わたしがいないと、たぶん先輩は、近いうちに警察のご厄介になるでしょう』」
「不吉な予言をするんじゃねえ」
「『仕方がないので、わたしもいざというときに備えて、防犯ブザーを買っておきます』」
「通報を視野に入れるな」
僕は何も悪いことはしていない。なぜなら、お天道様が見ているのだから。
「ふっひひ」
手帳から顔を上げた天ヶ瀬は、楽しそうに顔を綻ばせた。
実際、楽しんでいるのだとは思う。彼女にとって、それは大事なことなのだろう。
「……いくら時間稼ぎしても、もう学校だぞ」
「ちぇーっ。せっかく、ちょっとでも楽しい思い出を作っておこうと思ったのに」
こんな道端のベンチで、ペース的に、読んでいる内容をそのまま書いたわけではないだろうが。
なぜか僕も、突っ込む以上の邪魔をする気にはなれなかった。
「あーあ。本当に面白くいかない先輩ですねー」
言われたところで、改善しようとも特に思えない。
「だったら早く学校に行こうぜ」
「わかってませんねえ。そういう無駄なやり取りを少しでも長くやれるのが友達ってものじゃないですか。この際、話の中身は問題じゃありません。先輩は甲斐がなさすぎです」
「今し方、面白くないことを責められたばっかだと思うんですけど」
「それ以前の問題だからですー。今日の採点は、十点にも満たない感じですからね!」
まさか十点満点ということもないだろうし、なかなか辛口採点だ。
友達になる、と名乗りを上げてしまったことだし。ちょっとは考えるべきだろうか。
「その辺は今後に期待してくれ」
そう告げた僕に、天ヶ瀬はくすりと笑って。
「なら、今後の成長に期待して──追試の権利はあげてもいいよ、伊織?」
「……偉そうに言うよ」
なんて、他人のことを言えた義理もないのだが。僕は肩を竦めて、
「わかった。僕も本気を出すことにしよう」
「何、それ? 本気って」
「僕だって本気さえ出せば、それなりに天ヶ瀬を歓待することはできるって話だ」
「はあ……、はあ?」
「現に灯火とデートしたときは、これでも大爆笑を掻っ攫った実績がある」
「……や、よくわかんないけどさ。デートで笑われるって、それなんか違わない?」
だろうね。僕だってその辺りはわかっている。
つまらないよりはまだ、マシだろうと思って言ってみただけ。
「まあ期待しておけ。お前は僕の本気に驚くことになる」
「なんで自信満々なの……? いや、まあいいけど。それならそれでも。──あ、でも、今日はダメだから。遊ぶならまた明日にして」
「あん?」
「今日の放課後は用事があるんですー。遊ぶのはまた明日ねっ!」
そんなことを天ヶ瀬は言った。
乗り気になったところで潰されてしまった。ちょっと拍子抜けだ。
いや、準備の時間ができるなら、それに越したこともないか。僕は頷いて答えた。
「わかった。じゃあ明日の放課後は、どっかに遊びに行くとしよう」
「じゃ、約束ですからね、先輩。──そのことも、きっちり日記に書いておきますので!」
宣言通り、何やら日記帳に書き込むと、それから天ヶ瀬は日記を仕舞って。
僕に向き直ると、少しだけからかうような表情を見せる。
「そろそろ灯火ちゃんに構ってあげないと、嫌われちゃいますよ?」
「……。まあ実はさっきから連絡が来まくってるんだけどな。全部無視してる」
「うわあ……」
LINEの通知が二桁溜まったスマホを見せると、天ヶ瀬は引いたような表情になる。
その『うわあ』が僕宛か灯火宛かは、とりあえず考えないでおこう。
「じゃあ、行きましょうか」
こちらを見上げるような天ヶ瀬に、僕は頷きを返す。
さて。
考えることが、増えてきたような気がするね。