幕間2『8月7日(三年前)』
──咄嗟に名乗ったのは『ナツ』という偽名だった。
いや本名にばっちり含まれてるし、あんまり偽名ってわけでもなかったと思うけれど。それでも彼には、私は本名を明かしたくなかった。名前とか、顔とか、そんな感じの背景情報を、知られたくなかったのだと思う。
知られずにいられる、気楽な──そんな友達が欲しかったのだと、そう思う。
そのとき、私はお仕事を終えて、家に帰る途中だった。
ただ実際に家を目指していたかと訊かれると、なんというか、微妙なところだと思う。
特にあてどもなく、漫然と街を歩いていた……とでも言うのが正確か。
──なにせ中学生になった私にとって、世界はとても面白くないものだったから。
いや、別に年相応の反骨で言っているわけではない。まあ今になって思えば、そういう面も多分に含まれていたかもしれないけど、私は世の中にたくさんの楽しさが溢れていることを知っていた。信奉していた、と言ってもいいと思う。
この世界には楽しいことがたくさんあって、それを見つけて楽しく暮らしている人間がたくさんいるのだから。だったら私も、それを見つけて楽しんでみたいと思うだろう。
私の望みは単に、自分もその輪の一員に加えてほしいというだけ。
なんだってよかったのだ。それが今の生活にないものなら、たぶん、本当になんでも。
部活でもいいし趣味でもいい。どんなことにだって打ち込んでいる人はいて、それにはきっと、打ち込めるだけの理由があるはずで。私も、そういう何かを見つけたかった。
──それが見つけられなかったから、あの頃の私は腐っていたのだけれど。
私の世界はつまらない。
私の世界だけがつまらない。
モデル仲間とのゴシップめいた情報交換も、成績を確認してくる両親とのやり取りも、お互いに牽制しながら腹のうちを探り合う冷戦めいた学校でのひとときも──。
その全てが、恐ろしいほどにつまらなかった。
でもそれはきっと私が悪いのだ。だって、現にモデル仲間も、両親も、クラスメイトもみんな、それをとても大事な、大きなものとして扱っている。
心動かされない私が悪いのであって、それを楽しめない私が間違っているのである。
どうしてか、私の世界だけがいつまで経っても色を得ない。
だから、せめて何か心惹かれるものを探すために。きっと私にも、夢中になれるものがあるはずだと信じて──それこそ夢遊病にでも罹ったみたいに街をうろついていたのだ。
そうして私は出会ってしまった。
「なーんだ。天ヶ瀬さん、奇遇じゃーん。こんな休みに、ひとりで何やってるのー?」
できれば出会わずに済めばよかった──とさえ、このときの私には思えなくて。
声をかけてきたのはクラスメイトの女子だ。数人で連れ立って、おそらくはこの休日、遊びにでも出てきたのだろう。賑わう流宮の駅前だから、ままあり得る偶然だった。
「……別に、何も」
仕事帰りと言いかけて、その言葉を呑み込んだ。私がモデルをやっていることを、快く思わないクラスメイトがいることも、彼女たちがそれだということも、知っていたから。
それともあるいは、言って、怒らせてあげるほうが親切だったのだろうか。
「ふぅん……あはっ。休みなのにひとりで歩いてるって、どんだけ暇なワケ?」
「えー? ちょっともー、そんなコト言ったら可哀想だよー」
「あっはは。ごめんごめん、そうだよねー。冗談だから怒んないでよー?」
「そうそう! だって、天ヶ瀬さん忙しいもんねー。お仕事、大変なんでしょー?」
「…………」
あまり仲がいいわけではないコトは、さすがにわかってもらえると思う。
私だって、彼女たちの言葉が悪意──いや、敵意から来るものであることは知っていた。
でも。
だけど。
「ねえ、なんか言ったら?」「やめなよ可哀想」「そうだよ。天ケ瀬さん困ってるってー」
──そうして私を嗤う彼女たちは、とても楽しそうに見えたのだ。
それが私には羨ましかったし、眩しく見えてしまった。ああ、この人たちは今、自分の世界を楽しめているのだ──そう思うと、言葉にならない敗北感すら覚えてしまう。
別に、それで向けられる敵意から目を背けたわけではない。
私はもちろん彼女たちが嫌いだったし、ちょっと顔がいいからってお高く止まっているという指摘は、下らない敵意を安易に向けてくる彼女たちを見下しているという一点で、あながち間違ってもいなかっただろう。私が誰だかの告白を断ったからって、そのことを責められても共感できない。自分のほうが先に好きだったのに? はあ、そうですか。
少女漫画の読みすぎ──いや、逆か。もしかして、読んだことがないのだろうか。
そんな、典型的な漫画の悪役みたいな逆恨みを向けられたって、こっちが律儀に漫画のヒロインめいたことを言うとは思わないでもらいたかった。悪いが
それでも──それでも私は、
だって私は、そういうふうになりたかったのだから。
それが、私の願いだったのだから。
私には全てがつまらない。私は何も興味がない。
私は、その意味でずっと負けているのだ。
だから私は何も言わず、何も答えず、フードを目深に被って逃げるようにその場を立ち去った。背中を撫でるクラスメイトたちの笑い声は、勝者に許された権利なのだろう。
そのまま私が逃げ込んだのは、近場にあったゲームセンターだ。
普段は立ち寄らない場所。無意識に選んだのは、たぶん、それが理由だった。
雑多な場所だ。ギラギラ喧しい音と、それ以上の毒に思える光で立ち眩んでしまいそうになる。すぐに立ち去ってしまいたかったが、それで再び行き会っては馬鹿らしい。
かといって中に入ることもできず、結果的に入口で立ち竦んでしまった私の背を──、
「おっす、久し振り!」
ぽん、と軽く叩く手があった。
振り返った私の目が捉えたものは、実に緩んだ表情で笑う、ひとりの男の子。
「奇遇だなあ」
言いながら親しげに肩を組んでくる少年に、私は堪らず身を固める。
当然だろう。こんなところで、知らない男子に触られるなんて怖いにも程があった。
「最近は見なかったけど、いったい──」
「だ、──誰っ!?」
「──えっ」
まるで親しい友人に向けるみたいな悪意のない表情で。
笑いかけてきた少年は、振り返った私の声を聞いて目を見開き。
「っ……あー、えーと……、その」
「……?」
「ああ。うん……その、すまんかった。人違いっぽい……です、ね……?」
バツが悪そうに、少年は首筋を掻いて目を背ける。
どうやら私を友人だと勘違いしたらしい。気まずそうな表情を見るに、装ったナンパの類いでもなさそうである。
「い、いや……別にいいけど」
「……あー、どうも」
なんとも言えない空気が流れた。
どうしよう。アウェーと言ってもいい場所で、こんな状況。対処が手に余った。
迷って何もできない私に、そこでふと、少年はフードに覆われた私の顔を見つめて。
「……小学生?」
失礼なことを言った。
むっとする。確かに背の高いほうではないけれど、小学生扱いされる謂れはない。
「中学生だ!」
「っと、すまん。じゃあ同い年くらいだな。──一クレでいいか?」
「え──?」
その言葉が『一クレジット分でいいか?』──つまり、勘違いしたお詫びに、ゲームのワンプレイ分の料金を出すから手を打ってくれ、という意味であることが、当時の私にはまったくわからなくて。
そんなリアクションを見た少年は「やっぱり」と笑みを深めながら。
「え、っと……?」
「入口で棒立ちだったトコ見るに、ゲーセンあんま来ないんだろ? これも何かの縁だ。いっしょに遊ぼうぜ! 勘違いのお詫びに奢るからさ」
快活な笑みを向けてくる少年に面食らってしまう。
というか、ここまで来るともう普通にナンパなんじゃないかと思うのだけれど。
「さって、何やろっか? なんか目当てとかあって来たん?」
「いや、その……」
「まあそう警戒するな。俺も最近、友達が付き合ってくんなくてさー。玲夏とか、あいつ塾通い始めちゃって。仕方なくゲーセン来たんだけど。男友達、できたら欲しくてさ」
「────」
その言葉で、彼が自分のことを男子と勘違いしていることに気がついた。場所もあったし、フードを被っていたこともあるだろうし、何より彼は、
──彼は私のことを知らないのだ。
自分のことを知らない。私が何も楽しめない、つまらない人間であると彼は知らない。
そのことに、酷く魅力を感じてしまって。
「俺は、冬月伊織。お前は? なんてーの?」
「わ──お、おれは……ナツだ」
と。気づけば、そんなふうに答えてしまっていた。
それが、私と彼との、二度目の出会い。
そうだ──劇的なことなんて、そこには何も存在しなかった。
だって私は、彼とは同じ小学校で、話こそほとんどしなかったけれど、存在は認知していたし。彼だって、私が絡まれて困っているところを助けてくれたわけでもなく、自分で逃げ出してきたところに、たまたま勘違いで声をかけてきただけ。本当、面白くない話。
けれど結果として、このひと夏の──自分の正体を隠した、新しい友達との時間が。
私にとっては間違いなく、人生でいちばん楽しい時間で。
──彼は、少なくとも私にとって、退屈を壊してくれるヒーローだった。