第二章『なんの変哲もないごく普通の「楽しい」一日』その3
公園の入口に向かう。
住宅街の隙間にひっそりと存在するような、あまり広くはない公園だった。実際、通学路の途中にあるというのに、今までほとんど意識したこともない。
それでも近所の子どもたちにとっては、貴重な遊び場なのだろう。大した遊具はなく、砂場がひとつに、回転する謎の椅子くらいしかないが、置き忘れたらしきボールなんかが水道の近くに転がっていた。
そして公園の中には、赤いランドセルを背負った少女がひとり、泣き顔で佇んでいる。
小学校の、おそらくは二、三年生だろう。さきほどは大きな泣き声が聞こえたが、今は唇を引き結んで嗚咽を噛み殺している。視線が、何かを求めるように揺れていた。
「迷子とかですかね」
あまり興味もなさそうな調子の天ヶ瀬。さて、どうだろう。
確認するために、僕は少女へ声をかけようと公園の中に足を踏み入れ──、
「────────っ!?」
ようとした瞬間に強烈な悪寒が背筋を貫いていった。
歩みが止まる。体を動かせない、いや、動かしたくない──そんな強迫観念に襲われて身じろぎもできなくなった。自分自身の肉体を、自分の意志では動かせない。
違う、その意志そのものがさきほどとは正反対を志向しているのだ。
──この公園には入りたくない。
理由なんてない。恐ろしいのでも嫌悪があるのでも面倒なのでもない。
ただ、入りたくない。
今この公園に足を踏み入れるという行為だけは何があろうと絶対にやりたくない。
そんな抗いがたい抵抗感が僕の行動を縛っていた。
公園へ踏み入ろうとした瞬間に、いきなり硬直したせいで僕は前につんのめる。傍から見れば間抜けだろう姿を見て、天ヶ瀬は不審そうな表情でこちらを見上げた。
「先輩? ……いったい何してんですか」
「……わからない」
「はい?」
「わからないが、なんだか知らんがこの公園には入りたくない」
「……は?」
確かに、客観的に見れば今の僕は無茶苦茶だろう。
僕は天ヶ瀬の顔を見た。
「……え? 待って、それ……」
彼女も今、何が起きているのか察したらしい。少なくともそう見えた。
演技ではない、とは思うが彼女の演技を見抜けないのは証明済みの事実。仮にとぼけているのだとしても、僕はその事実を窺い知れないだろう。
だが、こんなにも急激な理不尽、出どころなんて限られている。
「……星の涙の効果だな」
少しだけ。言うか言うまいか迷ったが、僕は結局その推測──いや、断定を口にした。
「お前じゃないのか? じゃなきゃ、こんなことにはならないと思うんだが」
「そ、そんなこと言われたって……私はっ」
言い淀む天ヶ瀬。まあ確かに。
彼女の願いが《冬月伊織が公園に入りませんように》では、意味不明にも程がある。
だが、これが天ヶ瀬の星の涙によるものでなければ、ほかにいったい何がある? 僕が急に公園に入れないトラウマに目覚めたとでもいう気だろうか。それこそ納得できない。
そういうものではない。
この《公園に入りたくない》という意志が、自分のものだとは僕には思えない。
「……、」
「ちょ……先輩!?」
僕は無理やり、公園の中に自らの肉体を投げ出そうとしてみる。
ありったけの力を込めて、倒れ込んでもいいと全身を前に。
だが肉体は僕の言うことを聞かない。植えつけられたような《意志》に逆らおうとするせいか、徐々に吐き気すら込み上げてくる始末だ。僕は咄嗟に口許を押さえた。
──頭が、痛い──割れるようだ。
「な、何してんの、バカじゃないの……っ!?」
これには横合いにいる天ヶ瀬が、面食らったように叫んだ。
さすがに、公園の入口でうるさくしていたせいだろう、中の少女もこちらに気づいて、不思議そうに首を傾げ始めた。どうやら、僕らが喧しくて泣き止んだらしい。
……そりゃいい。そのままこっちに来てくれればさらに好都合だね。
「ねえ、顔真っ青だよ!? や、やめたほうがいいって……!」
「……嫌、だね……僕は、僕が決めたことは、やる。ほら、見ろよ。足震えてきた」
「無理するから……っ」
「いやいや。無理すれば足は震えるのがわかったんだ。もっと無理すれば、中に動かせるかもしれ……っ、う──、づ……っ」
再び口を押さえ込む。
危なかった。今ちょっと胃液が喉元辺りまでは来ていた。
「あぁ……うわ吐くかと思った。あー……よし、もう大丈夫だ。なんとか堪えた」
「む、無理しすぎだって! ねえ、下がったほうが──」
「知るか。あんなもんにこれ以上、僕の意志を捻じ曲げられて堪るかよ。入ろうとすると体調が悪くなるってんなら、逆を言えば体調と引き換えに入れるかもだろ」
「……なんで、そこまで……」
理解できないという表情で、天ヶ瀬は僕から一歩、身を引いた。
だが僕だって、別に目の前の少女を助けるために体を張っているわけではない。こんな予想外が起きた時点で、目的なんて変わっているのだから。
ただ、捻じ曲げられたくないというだけなのだ。
誰の願いだろうとなんの対価だろうと、僕の知ったことではない。その全てを踏み躙ることになったとしても、僕は、もう自分が星の涙に振り回されることだけは認めない。
「わかった! わかったから落ち着いて!」
と、そこで天ヶ瀬がそう叫んだ。
僕は彼女を見る。天ヶ瀬は酷く呆れたような表情で首を横に振って、
「私が、あの子を呼んでくる。入らなければいいんでしょ」
「……天ヶ瀬」
「ったく、信じらんない……! なんなの。絶対おかしいって……」
吐き捨てるように呟き、天ヶ瀬はそのまま公園に入っていく。その表情は、呆れ以上に怒りを孕んでいるようだった。
ともあれ、やはり公園に入れないのは僕だけで、天ヶ瀬は違うらしい。──と、
そこで僕は、つい今し方まで自分を苛んでいた抵抗感が、消えていることに気づいた。
「あれ……」
不思議に思いながらも一歩、公園に足を踏み入れる。
なんの抵抗感もない。僕はごく普通に、公園の敷地に入ることができていた。
消えている。
さきほどまでの、精神が軋むような抵抗感が全て、跡形もなく。
「……わけがわからん」
思わずそう呟いてしまったとしても、無理からぬことだとご了承頂きたい。
どういうことだ。いったい自分に何が起こっているのか、さっぱりわからない。
……まあ解決したのなら、ひとまずいいだろう。
いいか悪いかで言えば少なくともよくはないのだが、それでも一旦忘れることにして、僕は天ヶ瀬の後を追って少女のほうへ向かう。
目の前では、少女の正面にしゃがみ込んだ天ヶ瀬がひきつった声で、
「えー……っと。こ、こんにちはー……?」
なんか不器用に話しかけていた。
意外だ。こういうことは器用にこなしそうな奴だと思ったのだが。
僕もその横に並んで、少女に視線を向ける。
「先輩!? ちょ、なんで入って……」
「なんか急に治った」
「はあっ!?」
「いいだろ別に問題なくなったんだから。それより──」
視線を少女に戻す。特に見覚えのない女の子であることは、たぶん間違いない。
そもそも小学生の知り合いなどひとりもいないのだから当然なのだが。まあ僕の場合、実のところ自分の記憶がだいぶ信用できないため、確たることは言えなかったりする。
「あー……どうも。ええと、何か困ってることがあるなら──」
僕は、僕にできる最高の愛想とともに、少女へと声をかけた。
その瞬間、ランドセルの女の子は怯えたように肩を震わせ、その片手をランドセルの横側に素早く走らせる。
なんだ? と疑問に思うのも束の間、少女は体を引きながら僕に向かって。
「な、なんなのですか。こころはとてもかしこいので、悪い人には騙されないですよ!」
そう言った。
そう言いながらランドセルにつけていた《もの》を外して、こちらに突きつける。
見覚えはあった。
それはホルダーでランドセルにつけられている警報器、いわゆる防犯ブザーだ。下部についている紐を引っ張れば、警報が大音量で鳴り響いて周囲に窮地を報せるのだろう。
朝の住宅街である。
これが鳴れば、周りのご家庭から誰かしらは飛び出してくるだろう。
「おっと予想外に社会的窮地。どうする天ヶ瀬、ピンチだぞ」
「そんな怖い顔で、さっきまで呻いてた人が近づいてくれば当然でしょ……」
「ばかな」
僕は笑顔で声をかけたはずだ。
……違ったのかな。表情筋が動かなすぎて、失敗していたのかもしれない……。
「待て、落ち着いてくれ、小学生。僕は悪い人間じゃない」
「小学生て……」
天ヶ瀬は突っ込み、そして少女は答えた。
「悪い人は、みんなそう言うのです。悪い人ほど、天使の顔をしていると教わりました」
誰だよ。こんな小さな女の子に、そんな適当なことを吹き込んだ奴。
今すぐ出てこい。出てきて、できればついでに助けてくれ。
「……まずい、天ヶ瀬。めちゃくちゃ警戒されてる」
「なんでされないと思ったんですか?」
「いや、そこまで言うなら助けてくれよ……」
「先輩って、実はバカですよね」
後輩に呆れられてしまった。
困っているから助けようとしただけなのに、なんて生きづらい世の中だろう。
釈然としない。
なんとなく不満に思っていると、そこで天ヶ瀬が息をつき、少女に向き直って。
「大丈夫、気にしなくていいわよ小学生」
「小学生て」
僕の突っ込みは無視された。天ヶ瀬はあくまで、笑みのまま続ける。
「このお兄ちゃんは、別に悪い人じゃないから」
「信用にあたいしないお顔をしています」
酷くない……? いや、いいけどさ。
やはりなんとなく釈然としない僕を尻目に、天ヶ瀬は。
「ほら、そこよ、そこ。さっき自分で言ってたでしょ」
「……?」
「悪い人ほど天使の顔だって。この人が、天使の顔に見えるの?」
「……、はっ!」
少女ははっとして(というか言って)僕を見た。
そして。
「たしかに。なるほど、とてもなっとくさせられましたね。さくしですか?」
……納得されてしまった。僕も呆然とせざるを得ない。
そんなこちらに振り返った天ヶ瀬は、何やら非常に腹の立つ嫌らしい笑みで。
「だってさー。よかったねー、先輩。顔が悪魔で」
僕はこう答えた。
「そういう天ヶ瀬こそ、被ってる天使の皮が脱げてるが大丈夫なのか?」
「──なっ、」
意表を突かれたのだろう、天ヶ瀬は咄嗟に片腕で口許を隠す。
「別に、僕に対していい子ぶる理由もないだろうに。もうとっくに、昨日の段階で正体はバレてるんだから」
「……っ、う、うるっさいなあっ! 先輩、そゆとこホントに性格悪いっ!!」
「お前にゃ劣る」
「いーえ! だいたい伊織先輩に、私の正体がわかってるとか言われたくないからっ!」
そんなふうに叫んで、顔の赤さを誤魔化す天ヶ瀬は。
──不覚にも、なかなかにかわいらしかった。