第二章『なんの変哲もないごく普通の「楽しい」一日』その2
言うまでもないと思うが本来、学校へ行くまでの道に大した事件など起こり得ない。
それは確率や可能性の話ではなく、登下校とはつまり日常であるという話で。
要するに、何か起こるようだったらそんなものは日常ではないということ。僕は学校に行くという程度のことに、とりたてて面白さや物珍しさというものを求めていない。
一方、いっしょに歩いている天ヶ瀬は意見を異にしているらしく。
「んーっ、いい天気ですねえ。ねえ先輩っ!」
伸びをするように上体を反らし、天ヶ瀬は全身に陽を浴びる。
その言葉の通り、気温は少しずつ上がってきている。夏も間近というか、なんならもう夏というか。ちょっと気を抜くと、数日前とは比較にもならない暑さに襲われる。
「もうすぐ夏休みですねー。伊織先輩は何か、夏休みにやりたいこととかありますか?」
「ほう……」
天気の話題から別の話題へ展開できるとは興味深い。これがコミュニケーション能力のある人間というヤツか。なんて、割とどうでもいいところで感心してしまった。
なにせ愛嬌ってものが欠片もない僕だ。そのせいで無駄な苦労を買っている気もする。
「いや、これといった予定はないな」
「そんなバッサリいかれたら会話が続かないんですけどー」
現にこれだ。天ヶ瀬はつまらなそうに唇を尖らせた。無理もないと思う。
しかし、ないものはないのだから、それも仕方がないというか。
「夏休みだ、楽しもうっ! とか、伊織先輩もそういうテンション発揮できません?」
「……夏休みは少しバイトしようかな、とは思うが……それ以外は」
「へえ、バイトですか。ちょっと意外ですけど、労働は悪くないですね。でも接客以外でいったい何するんですか?」
「なんで接客の選択肢を初手で切り捨ててるんだよ」
「絶対ムリじゃないですか。それとも、本当に接客をやるんですか?」
……まあ、確かに違うけれども。
言い切られるのも、ちょっと釈然としなかった。
「知り合いに怪しいおっさんがいて、たまに仕事をくれるんだよ。ちょっとした手伝いだ」
「……や、なんかめっちゃ怪しいんですけど……」
確かに怪しい。自分で言っててなんだが。
とはいえ、僕だって何も法に触れることはやっていない。と信じている。
「そういう天ヶ瀬は、何かバイトとかやってるのか?」
「んー、バイトっていうか。実はわたし、これでもモデルとかやってるんですよ? 読モって言えばわかりますかね」
天ヶ瀬は少し自慢げに言った。
ふむ、なるほど。そうか。
「よくわからないが、それはすごいな」
「いや、よくわからないって言っちゃってますし……別にいいですけど。そんな有名ってわけでもないので。それこそ、感覚的にはバイトって感じです」
「ふぅん……でもモデルって言うくらいだし、写真に撮られて本に載ったりするんだろ」
「まあ、一応は」
それなら充分、誇れることなのだろう。得意げだった意味もわかる。
しばらくそのまま道を歩いた。だいたい二分くらい経った頃、天ヶ瀬が僕を睨んで。
「いや、てか話終わりなんですか?」
「僕に話の盛り上げを期待されても困るんだが……」
「……まあいいですけど。とにかく、てことは伊織先輩、夏は暇なんですね?」
「何を聞いてたの。バイトするって言ったよね?」
「それ業界用語では暇って意味ですから」
どこの業界なんだろう。どこの業界だとしても知ったことではないのだが。
だって、僕はその業界に所属してないからね……。基本どこにも帰属できないから。
ちょっと落ち込む僕を尻目に、天ヶ瀬は言う。
「バイトでお金も入って! 時間もめいっぱい使えて! つまり先輩とは夏休み中、遊び放題ってことじゃないですか。なんならその言質を取ったまでありますねー」
「……要するに、夏休みも付き合えって言ってる?」
「昨日、約束したじゃないですか。わたしが飽きるまで付き合ってもらいますよ?」
確かに約束はしたが、だからって無限に付き合ってはいられない。
これは、あくまで天ヶ瀬が星の涙を捨てるまでの約束である。
「先に期間を決めないか?」
そのために提案する僕だったが、天ヶ瀬は首を振って。
「嫌ですけど。契約を結んでから後出ししないでくださいよ。そんなの業界では通じないですから」
契約て。
「業界は知らんが……そう言われると弱るな。いや、だからっていつまでも約束を守らず振り回されるわけにもいかないからな」
「わかってますって。ちゃんと満足したら星の涙はお渡ししますよ。信用ないですねー」
「別に信用してないわけじゃ……うん、いやまあ……まあ信用は実際してないけど」
「ひどっ! 言い淀んでおいて結論してない!」
むくれる天ヶ瀬。いや、むしろ何を根拠に信用されると思ってたんだよ。
「単に、楽しく過ごしたいだけなんですよ、わたしは。悪いコトなんて企んでません」
天ヶ瀬は言う。似たようなことは、確かに昨日も言っていた。
単に楽しく過ごしたいだけ。自分が星の涙に望むのはその程度だと。
「言う割に、昨日は灯火に喧嘩吹っかけてた気がするが」
僕の指摘に、天ヶ瀬は目を見開いて、それから。
「って嫌だなあ。あんなの、女子的には喧嘩のうちにも入りませんよ、まったくもう! 大袈裟ってもんです」
「そういうもんか……?」
「そういうもんです。そんなことより!」
天ヶ瀬は強引に話を打ち切って。
ぴっ、と人差し指を、僕に向けてからこう言った。
「伊織先輩は私に協力をする。それが契約です。難しいことなんて何もないんですから、アタマ空っぽにしてきましょうよ。ほらほら、友達なんですから。ね?」
「…………」
天ヶ瀬がいったい、僕に何を求めているのかなんて、わからない。
だから彼女の言葉を信じるしかない。信じるしかないのに、信じられないでいる。
──小さな女の子の泣き声が聞こえてきたのは、ちょうどそんなときだった。
「ぐす……っ、ひ……っ!」
と、泣きじゃくるような、それを堪えるような嗚咽が響く。
ここが閑静な住宅街じゃなければ、危うく聞き逃してしまいそうだった。
「……伊織先輩」
天ヶ瀬は僕を見上げた。彼女も今の泣き声を聞き取ったのだろう。
顔を見合わせて、数秒後に僕は言った。
「そこの公園から聞こえるよな。行ってみよう」
「……、」
なぜか天ヶ瀬は、即答はしないで。
少しの間があってから、どこか冷たい視線を僕に突き刺した。
「……伊織先輩って、確か学校では、ナントカってあだ名がありましたよね?」
知ってたのか。いや、灯火でも知っていたことを、天ヶ瀬が知らないはずもない。
だが別段、これは自身の冷酷を否定しない。僕は肩を竦めて、
「確かに僕は冷たい人間だが」
「……はあ」
「別に、一度しか会わない人間にまで、わざわざ冷たく振る舞う必要、ないだろ」
これは極めて論理的な話だ。単に僕は、自分以外の何かに肩入れしたくないだけ。その心配がない相手にまで、氷点下を気取る必要はないのである。
とてもロジカルに告げた僕に、天ヶ瀬は数秒黙ってから、溜息と共に言った。
「どうでもいいですけど、今の言い訳、超ダサいですね」