第二章『なんの変哲もないごく普通の「楽しい」一日』その1
「──おはようございます、伊織先輩っ! さあ、いっしょに学校へ行きましょう!」
最近、後輩という人種の中では朝からの不意打ちが流行っているのだろうか。
一夜明けて七月四日、木曜日。
天ヶ瀬まなつは、朝から当たり前のように僕の自宅を訪れて言った。
だからなんで場所を知っているのかと。本当そこ、問い詰めていきたいです。
「なぜ僕の家を知っている?」
よって訊いた。僕はそれを流さない。
とはいえ、天ヶ瀬が元から僕の知り合いなら、驚くことではないのかもしれないが。
「えー。彼女なんですから、家くらい知ってて当然だと思いませーん?」
と、天ヶ瀬ははぐらかすばかりで答えることをしなかった。
「お前なあ……」
僕は思わず額に手を当て、天を仰いだ。
天ヶ瀬のほうは、僕の態度が意に沿わなかったご様子で。
「な、なんですかその感じ! せっかく迎えにきてあげたのに!」
「…………」
「な、何よ……、なんですかっ。別に迷惑はかけてないと思うんですけど!」
おっと。無言で見つめていたところ、天ヶ瀬の被っている猫が一瞬、明らかに崩れた。
昨日あれだけ素を見せておいて、今日また隠す意味も謎だが……流してやろう。
「確かに迷惑はかかってないが……そういう問題か?」
「そういう問題です! かわいい彼女が朝から来て不満げとか、贅沢じゃないですか?」
よくもまあ自分で自分をかわいいと言えたものである。
似たようなことは灯火もやっていたが、あいつの場合はすぐ自爆する。そういう意味で言えば、灯火のほうが与しやすかった感じなのだが。
まさかあのぽんこつムーヴを懐かしく思う日が来るとは予想外だ。
……そういえば、灯火は迎えに来ないのだろうか。インターフォンが鳴らされたときはそれこそ、てっきりいつも通り、灯火が来たものと思ったが。
僕は息をつく。それから丁寧に、求められたのであろう突っ込みを入れた。
「だから、お前は彼女じゃないだろうっての。友達だろ、友達」
「──……、」
一瞬。そのとき天ヶ瀬が、大きく丸く目を見開いて。
「どうした?」
「……いえ別に。伊織先輩も、もったいないことするなー、って思っただけですー」
すぐさま、普段通りの様子に戻った。
……なんだ今の? 少し不思議に思ったが、天ヶ瀬はそのまま続けた。
「あとからやっぱり付き合いたいなんて言っても、もう遅いんですからねーっ、だ!」
──言わねえよ。
と、言うこともしなかった。胸焼けするほど甘ったるい、あざとい態度に目が回る。
「はあ……まあいいや、好きにしてくれ」
こいつが──天ヶ瀬まなつが僕の知り合いだったと仮定する。
しかし、僕のほうに記憶はない。星の涙がなんらかの理由で忘れさせているとするならお手上げだったが、今回その可能性は低いと僕は見ている。
理由としては、それでは時系列が合わないからだ。
僕が天ヶ瀬のことを恋人だと思い込んだのは七月三日、つまり昨日だ。とすれば、その前日の夜から翌朝にかけて──あの丘で灯火と出会い、朝に贈り物をするまでの間──のどこかで、天ヶ瀬は星の涙を発動させたのだと推測できる。
それ以前、二日午前の段階で僕は、灯火を探して天ヶ瀬に出会っている。
そのとき僕は、天ヶ瀬を恋人だとは思い込んでいなかった(つまり星の涙が発動してはいなかった)上に、やはり天ヶ瀬のことを初対面だと捉えていた。
だとするなら僕は星の涙の効果如何によらず、そもそも天ヶ瀬のことを知らない。
「どうかしましたか、先輩? 黙り込んじゃって。やっぱり惜しくなりました?」
考え込んだ僕に、天ヶ瀬が首を傾げる。僕は「なんでもない」と告げて、そのまま家を出た。──ひとまず考えるのをやめることにする。
なにせ星の涙のことだ。この論理ですら絶対ではない可能性もある。
「あれ。伊織先輩、もう出るんですか? 割と早く来たと思うんですけど、わたし」
「準備は済んでるからな」
もっと早くから突撃してきた奴もいる。
それに慣れてしまえば実際、この程度は余裕と言ったところだ。
僕はスマホを取り出し、灯火にメッセージを送っておく。
『今日は天ヶ瀬と出るから、家に来ても誰もいない。念のため』
既読は、珍しくすぐにはつかなかった。
となるとたぶん、まだ起きていないのだろう。少し迷ってから、追伸を送っておく。
『寝坊はしないようにな』
それからスマホをしまって、天ヶ瀬に向き直って言う。
「待たせた。じゃあ行こう」
「誰に連絡してたんですか?」
ふとそんなことを問う天ヶ瀬。僕は間髪容れずに、しれっと答える。
「女」
「ああ、なるほど。伊織先輩のお母さんのことですね。また見栄を張っちゃってー」
たぶん失礼なリアクションなのだろうが。
まあ、そういうことにしておこう。……狙ったし。
「先輩って友達少なそうですよねー」
「……昔はそうでもなかったぞ」
これは事実だ。まだ星の涙と関わっていなかった頃、僕には多くの友人がいた。流希の影響が大きいのだろう、これでも人と関わることに積極的だったのだ。
それこそ名前も覚えていない、一度会ったきりの相手だって少なくない。もしその中に天ヶ瀬がいるのなら、思い出すことは困難を極める。
「なるほどなるほどー。確かに、そうなのかもしれませんねー」
笑顔の天ヶ瀬。
その裏に、いったい何を思っているのか。僕にまだ窺い知れない。