第一章『かわいい彼女が生えてきた』その4
この流宮という街は、それなりに栄えた地方都市──といった風情の地域だ。
暮らす分には不便のない、いい土地だ。大抵のものは不足なく揃っている。
逆を言えばこれといった特色のない地域で、なんでもあるけれど、なんにもないような──ここにしかないものが何もない、と悪意的に言い換えることもできる街だろう。
ま、星の涙なんてものがある時点で大概なのだが。
訪れた場所は普段、小織が露店を出している大きな駅の近場にある施設。
大方は、近くに来た時点で察していたのだろう。学校を出て以降、文句も言わず素直について来た天ヶ瀬だったが、ここで初めて僕に訊ねた。
「……お見舞い?」
「そう表現するのがいちばん近いだろうが……どうかな。違うような気もする」
イメージとしては白が強い。無菌だが無機的な施設──病院。
それを見つめながら、僕は遠回しに問いへ答える。天ヶ瀬は特に何も言わなかった。
毎週水曜日、僕は必ずこの病院に来ている。欠かしたことは一度だってない。
「ここに、僕の友達だった奴が入院してる」
事実だけを述べるため、僕は慎重に言葉を探し、伝える。
どう受け取るかは天ヶ瀬の自由だ。彼女は、果たしてこう言った。
「……だった、って?」
「言葉通りだよ。今は違うってことだ。それだけの意味しかない」
「なのに見舞いはするの?」
「向こうに意識はない。ここ数年、ずっと寝たきりだよ」
「…………」
「行くぞ。あんまり長居するのも悪いからな。顔だけ見て、少し話しかけて、いつもすぐ帰ってるんだ。ああ、言うまでもないが病院だからな。騒ぐなよ」
「……騒ぐわけないでしょ」
「そりゃそうだ」
受付に向かって、面会の手続きを済ませる。
看護師さんとは顔馴染みだから、話が通るのも今では早い。
同行者を連れてくるのは初めてだったから、そこだけは驚かれたけど。それでも大した手間もなく、僕はいつも通り、かつての友人が眠っている三〇三号室に辿り着いた。
「ここが、僕の友達だった奴の個室だ」
「……今さらだけど。私、来てよかったわけ?」
「悪かったら連れてきてねえよ。それより、ちょっと見てみてくれ」
そう言って、部屋の前に書いてあるネームプレートを僕は示す。
怪訝そうに目を細める天ヶ瀬へ、僕は訊いた。
「名前が書いてあるだろ?」
「まあ、そりゃ」
「試しに読んでみてくれ」
「は?」
「いいから。頼む」
強引に頼んだ僕に、天ヶ瀬はやはり不審そうな表情をしていたが。
それでも、ここまで素直について来たのと同じように、ネームプレートを読み上げた。
「■■■■」
「……やっぱりか」
わかっていたことを再確認するだけの作業。
しても意味のない、どころかしないほうがいいはずのことを、なぜしてしまうのか。
やはりわからないという顔の天ヶ瀬に、僕は首を振って。
「僕には、ここに誰が入院しているのかがわからない」
「……あんた。何、言って──」
「だから言葉通りだよ。僕はネームプレートに書かれている名前が認識できないんだ」
どころか今みたいに読み上げてもらっても、その名前を聞き取れない。まるで地球とは異なる惑星の言語を聞いているみたいに、音も文字も認識の内側に入ってこられない。
「もっと言えば記憶もない。対面したって顔も姿も認識できない。わかるのは誰かが──中学生の頃は友達だったはずの誰かが意識もなく眠っているということだけだ」
「……それって」
「顔も。名前も。容姿も性別も年齢も。──僕には、僕だけは一切、認識できない」
わかるのは彼/彼女が、かつては僕の友人で。
僕は友達を助けることができず、そのまま失ってしまったということだけ。
陽星の逆、と言うのが近いのかもしれない。
彼女が冬月伊織を認識できないように、冬月伊織はこの誰かを認識できなかった。
「星の涙を使ったんだろう。この友達は」
もちろん、認識できないということを認識できるのも僕だけだ。
だから仮に僕が嘘をついていても、天ヶ瀬にはそれがわからないだろう。
「何を願ったのか、僕は知らない。ただ結果として、友達だった誰かは今こうして、眠り続ける以外のことをしていない。体は、実に健康体らしいけどな。願ったのか、それともその対価として奪われたのか。それはわからないが、星の涙を使ったからこうなった」
それでも覚えている。
僕にだって、覚えていることはあるのだ。
彼/彼女が友達だったということだけは──僕は決して忘れていない。
名前も、思い出も、全てが奪われてしまったのだとしても。
──ありがとう。
と。最後に、その意味さえわからない礼を言われたことだけは覚えているから。きっと僕には、助けることのできなかった友達がいるのだと。その想いだけは残っているから。
何もできない僕は、週に一度、せめて欠かさず顔を見にくることだけは続けていた。
その顔さえ、僕には見えないのだけれど。
「まあ、そういうことだ。星の涙を使えば最悪、天ヶ瀬だってこうして病院で寝たきりになるかもしれない。……ここに連れてきた理由は、わかっただろ」
「…………」
「経験者として老婆心で言ってみるが、人に忘れられるってのは愉快じゃないぞ」
そう言って、僕は返事を待たずにドアをノックした。
我ながら、相変わらず偉そうな態度ばかりだと失笑したくなる台詞だ。
返答はなかった。意識がないのだから当然だ。こうして面会を許されているだけでも、僕にとってはありがたい対応だ。
「僕は中に入るが、お前はどうする?」
一応、連れてきた天ヶ瀬に僕は訊ねた。
天ヶ瀬はこちらを見ていない。ただ静かに言った。
「外で待ってる」
「わかった。……無理に連れてきて悪かったな」
それだけ告げて、僕は病室に入った。
見慣れた真っ白な空間。その主は今日も音さえ立てず、ただひっそりと眠っている。
記憶はない。
僕は、この誰かが友人だったと知識で知っているだけに過ぎない。
実感はないのだ。
それでも、僕は声をかける。
だって、僕は、友達に会いにきたんだから。
「先週、灯火に……幼馴染みの妹に会ったって言ったよな。あれ、解決したよ」
ただなんの意味もなく、その週にあったことを言葉に換えて僕は語る。
この時間に、どんな救いがあるのかさえわからないままで。
聞く者も答える者もない、たったひとりの会話を続けた。