第一章『かわいい彼女が生えてきた』その1
教室に入ろうとしたところで、自分の席に座って肘をつく
声をかけるべきかどうか、少しだけ迷う。昨日のことについて、改めて礼を言っておくべきだろうが、与那城にも立場があろう。僕のような嫌われ者が、教室で声をかけるのは避けたほうがいい気もした。一応、片がついたことはLINEで報告してあるけど。
「……、ええぇ……?」
迷う僕に、教室の与那城は妙な視線を向けてくる。
以前のように怒っているとか、睨んでいるわけではなくて、なんだか怪訝そうな表情だ。
普段と違うことといえば、僕の後ろに天ヶ瀬が立っていることくらいだが──ふむ。
「……そういや、教室に行かなくていいのか?」
振り返って訊ねると、天ヶ瀬は楽しそうな微笑みを浮かべて。
「もちろん、ちゃんと教室には戻りますよー」
「そらそうか……悪かったな、なんだか教室まで見送らせちゃったみたいで」
「いえ、わたしが勝手について来ただけなので! せっかく会えたんですから、ちょっとでもいっしょにいたかったんですけど……ダメでしたか、先輩?」
上目遣いの健気な視線が僕に刺さった。
かわいい彼女がいるというのは、なんとも恵まれたことではないか。癒されるね。
「別にダメってことはないよ。ありがとう」
「じゃ、見送ってあげた彼女にお礼をくださいよ。お・れ・い♪」
悪戯っぽい笑みが僕を見上げてくる。毎度、至近距離から上目遣いで覗き込まれると、僕も少しどぎまぎしてしまうものだ。
なんというか、やっぱり灯火は小悪魔でもなんでもなかったな、と少し思う。
なるほど、これが本物か……。ちょっと感心してしまった。
「ま、いいけど。お礼って?」
「伊織先輩の連絡先! 教えてくださいっ」
「ああ。そのくらいなら、もちろん」
かわいらしいお願いじゃないか。もちろん恋人には、それなりの融通を利かせる。
僕らはスマホに、お互いの連絡先を登録した。
「えっへへ。ありがとうございます、伊織先輩っ」
「どういたしまして。じゃあ、またあとでな」
「はいっ。では、またのちほどでーす! 連絡するので、無視しないでくださいねー?」
ひらひら控えめに手を振って、天ヶ瀬は廊下を戻っていく。
与那城が教室を出てきたのはそのときだった。ちょうど天ヶ瀬と入れ違う形で、彼女はこちらにやって来るなり、『話があるからこちらに来い』というふうに顎をしゃくる。
僕としても都合のいい申し出だった。
素直に従い、そのままふたりで目立たないように教室から少し離れる。
向かった先は、廊下の奥にある階段の踊り場だ。昇降口とは教室を挟んで逆側だから、こちら側に生徒がやって来る可能性は低い。内緒話にはうってつけだろう。
僕を連れ出した与那城は、しかしすぐには口火を切ってこなかった。
考え込むように腕を組んでいる。視線は僕を向いていたが、なんだか怪訝そうに、妙なものを見るみたいに、眉根に皺を寄せている。
「あー、与那城。昨日は助かったよ」
話しにくそうな様子を察し、僕は自分から声をかけることにした。どの道、感謝は直接伝えるべきだろう。あるいは何か、形にして礼を示すべきかもしれない。
「お陰様で、こうして消えずにいられてる。灯火の件も……星の涙の件もたぶん、これで解決できたと思う。お前のお陰だ、ありがとう」
そう言って深く頭を下げる。
しばらくあってから、思いのほか小さな声で与那城の返事が聞こえた。
「……ん。まあ、無事に終わったなら、よかったよ。別に、あたしは何もしてないけど」
「いや、実のところ結構助けられたと思うよ」
本心だった。世界中の誰からも認識されないという事実は、やはり僕にも応える。
見つけてくれる人間がいただけでも、僕は救われていた。まして彼女は、その上で僕にヒントまでくれたのだから。
今にして思えば、むしろよく与那城も僕が認識できたものだった。
「見たよ、昨日」
ふと、そんなふうに与那城は言った。
首を傾げる僕に対し、彼女は続けて。
「流れ星。丘から空に昇ってくのが遠くから見えた。……あれ、あんたたちなんでしょ」
「ああ、あれやっぱ外からも見えてたのか……いやまあ、そりゃそうだよな」
僕らしくもなく熱を放射してしまった結果の、逆さまの流れ星だ。話すのも恥ずかしいことなのだが、この分だと少なくない数の人間に見られていたのかもしれない。
正直なことを言えば、まさかあんなふうに空に昇っていくとは思っていなかったのだ。
勢い任せでやってしまったというか。そりゃ僕は空に返すつもりで投げているが、かといって本当に光りながら宇宙まで飛んでいくなんて予想できるはずもない。
冷静になったあと、慌てて灯火を連れて逃げ帰っていた。
「まあ、今回の礼はまたいずれ。さすがにしばらくは平和になるだろうし──」
「そんなことより」
そんなことより──と与那城は言った。
そんなこと……。
「さっきのアレ、いったいなんなの?」
「……すまん、なんの話だ?」
問われた言葉の意味がわからず、僕は首を傾げる。
与那城は一瞬だけ不満そうに目を細めたが、僕がはぐらかしているわけじゃないことはわかったのだろう。再び怪訝そうな表情を見せつつも、こう続けた。
「さっき、その……一年といっしょにいたでしょ。なんか、やけに親しげだったけど」
「ん、ああ、天ヶ瀬の話か。そうだな、かなり親しいと言っていいと思うが」
「かなり……? あの子と?」
ものすごく胡散臭いものを見る目が向けられている。僕はそれを察した。
実際、この学校に《僕と仲のいい者がいる》という事実は論理的な誤謬を孕んでいる。
……いや、やっぱりいくらなんでもそこまでじゃないと思うけど。とにかく。
与那城の不信感を拭い去るべく、僕は言った。
「彼女なんだよ」
「…………、ごめん。もう一回言ってもらっていい?」
「いや。だから、彼女。恋人って意味。僕と天ヶ瀬が付き合ってるっていうこと」
「………………………………………………………………………頭、だいじょぶ?」
「そのリアクションはだいじょばない……」
拭い去るどころか、より強い怪しさで塗り潰してしまった模様ですので。
本当に心配そうなイントネーションで言われてしまった。それいちばんつらいな……。
いや。いやまあ確かに、与那城のリアクションに反論できた道理もない。流宮の氷点下男に恋人がいるだなんて聞いて、納得する人間のほうがこの学校では珍しいだろう。
でも事実は事実なのだから、仕方ないとしか言いようがなくて。
「え、ごめん、意味わかんない……。ていうか普通に信じられないんだけど」
「そう言われても。僕からもこれ以上、説明のしようがない」
「や。だってあんた……あっちと付き合ってるんじゃなかったの?」
ここで言う《あっち》が誰のことなのかは、さすがに僕も察した。
「灯火のことを言ってるなら違うぞ。確かにここんとこ、そういうふうに見えるよう振る舞ってたけどな、あいつ。それは単に目論見があったってだけだ。《星の涙》の使い方を僕から聞き出そうとしてたんだとさ」
こう答えれば与那城には伝わるだろう。詳しい話こそ教えていないが、灯火が星の涙で願いを叶えようとしていたことは、与那城も知っているのだから。
「それはわかるけど。いやでも、あの子、だって、誰が見たって……」
「誰が見たって、何?」
「……なんでもないけど」
与那城は言葉を濁したが、含みがあるのは明らかだった。
まあいい。いずれにせよ僕が付き合っている相手は灯火ではなく、天ヶ瀬だ。
こちらが冗談を言っていないことは察したのだろう。少しあってから与那城は言った。
「いつから付き合ってんの? 少なくとも、あたしはまったく聞いてないんだけど」
どうしても信用してくれないらしい。聞いてないって、そりゃ僕から進んでは言わないだろう。うーん……どう話したものやら。
「いつからって訊かれても……、ん? いつから……?」
──いつから、だっけ?
あれ、なぜだろう。それが、思い出せない──。
「あ、れ……いつから、だ……? いつ、から……僕は」
「……冬月? ねえ、冬月? どうしたの。具合いがすごく、悪そうだけど……」
わからない。わからなかった。
頭が軋むように痛い。
いつから。いったいいつから僕と天ヶ瀬は付き合っている? いや、そもそもそれは、考えなければならないことなのか。いつからだって別に構わないのではないか?
考えなくてもいい。考えなくてもいい。
そんなことは考えるまでもない当然だ。
天ヶ瀬が僕の彼女であることは当然の事実であり疑う必要などないのだから──。
「冬月! ねえ、──伊織っ! しっかりしろ!!」
肩が、そのとき強く揺さぶられた。
はっとする。自分が頭を押さえてぼうっとしていたことを、ここで初めて自覚した。
「あたしのことわかる? 落ち着いて。息、整えて。ほら、ゆっくり」
「……玲、夏? っ、僕は──」
「いいから。まずしっかり立って。伊織、あんた顔色すごく青いよ。大丈夫なの?」
心配そうな少女の表情が、すぐ目の前にある。
それで、どうにか落ち着いた。頭痛は綺麗さっぱり消えていた。
「大丈夫だ。大丈夫……悪かった、与那城。もう平気だ」
僕を支えようとする与那城の手から、やんわりと逃れる。
「……ならいいけど」
小さく与那城は呟いたが、その双眸は言葉ほどには柔らかくない。ほとんど僕を睨んでいるみたいだったが、それが怒りの表情ではないことは付き合いの長さでわかる。
純粋に、僕を心配してくれているだけだ。
だから僕は、これ以上は心配ないと伝えるために、少しだけ力を抜いて。
「ええと。なんの話してたっけ?」
確か天ヶ瀬の話だったと思うが……そういえば、頭痛に襲われる前の話題はなんだっただろう。訊いてみてから気づいたが、本当に思い出せなかった。
まだ寝惚けているのだろうか。どうにも、脳が上手く働いていない気がする。
「……なんでもないよ」
与那城は言った。彼女がそう言うのなら、大した話はしていなかったのだろう。
「それより、そろそろ教室に戻るから。冬月はあとから来て」
「いいけど……なんで?」
別に、いっしょに戻ればいいだろうに。そう思う僕に対し、与那城は細い目を向けて。
「同じタイミングで戻って下手に勘繰られたりしたら、癪だからだけど」
「……なるほど。論理的だ」
癪だと告げられては返す言葉もない。唯々諾々と従っておこう。
与那城の平穏を崩すのは申し訳なかったし、何より今の僕には彼女がいる。まだ一年の天ヶ瀬を、僕の不評に巻き込むことは避けたかった。灯火は手遅れだから諦めてほしい。
先に戻っていく与那城を見送る。
と、彼女は階段を下りる途中でふと、こちらを振り返って。
「ねえ冬月。あんたさ」
「……なんだよ」
「実は呪われてんじゃないの?」
「…………」
その表現は、かなり冗談になっていないと思う。