プロローグ『エピローグのすぐあとに』その1
「うぇっへへへへー」
人はこれほどまでに浮かれることがあるのだろうかというくらいに、それはもう上機嫌だった。うかれぽんちと言ってもいいだろう。嬉しそうにも程があるべきなのだと、僕も生まれて初めて知った気分だ。もはや灯火の表情筋は、軟体動物のそれである。
タコめ、と言って差し上げるのが優しさなのかもしれない。
そんなことを少しだけ考えたが、残念ながら氷点下野郎たる僕に、優しさなんてご期待いただくわけにもいかない。イカがしたものやら、なんてふうに僕も思ってみたりして。
……なんだそれ。僕の思考回路まで、灯火の影響を受けてしまった気がする。
「よくない兆候だよなあ……」
「んっふふー。……あれ、何か言いました、
ぽそっと呟いた僕に、灯火が見上げるような視線を寄越した。
改めて見ても楽しそうな灯火だ。僕らは単に学校へ登校しているに過ぎないのに。
彼女のリアクションに、だから僕も首を振って応じる。
「いや、別になんでもないよ。僕はいつも通りだ。いつも通りに戻る」
「なんですか、それ?」
「うん。ちょっと灯火が移ったみたいだから、今のうちに矯正しておこうかと」
「そうですか……あれ。いや、それわたしにとってなんでもなくないで、なくな、ん?」
なくなくなー? と首を傾げている灯火はアホ丸出しだった。
いっそ僕が泣きたくなってきたなー。なんだか灯火のアホの子指数が上がっている。
この子、ここまでアホじゃなかったと思うのだが。というかむしろ意外に頭の回る奴だと評価していたまであるのだが……うん、やっぱり様子がおかしいよな。
「おい灯火。さっきも言ったが、そのチョーカー外しておけよ。変だと思われんぞ」
「その変なものを渡してきたのは、伊織くんせんぱいじゃないですか」
「いや……いや、まあ、それはそうなんだけど。そういうことじゃなくてだな?」
チョーカーそれ自体というよりも、それをつけてからの灯火が変だって話なのだが。
「嫌ですよ。せっかくせんぱいに贈ってもらったんです。絶対に外しませんよっ!」
灯火は頑として譲らなかった。
首筋にそっと手をやると、僕が贈ったチョーカーにそっと手を這わせ。
「……えへへへ」
やっぱり緩んだ表情で微笑んでいる。
そりゃ僕としても、ここまで喜んでもらえるなら贈った甲斐もあるけれど。
勘違いで買ってきたプレゼントなのだ。気に入ってくれたことはありがたいが、いくら僕だってチョーカーだとわかっていたら買っていない。後輩に首輪をつける趣味はない。あって堪るかという話だ。その辺、灯火はまったく気にしていない様子じゃあるけれど。
それもそれでどうだろう、という気がしてしまう。
「……まあ、いいか。それはそれで」
彼女に願いを捨てさせ、姉よりも自分を選ばせたのはほかでもない、この僕だ。それでお終いさようなら、と投げ出すのはいくらなんでも無責任というものだろう。この世には取れる責任と取れない責任があるけれど、可能な限りは果たしていきたいと思っている。
僕が隣にいることを、彼女が許してくれている間は──少なくとも。
「にしても灯火、今後もその感じで行く気か?」
「その感じ……ってどういうことです? また、らしくもなく漠然とした質問ですけど」
ちょっと気になって訊ねた僕に、質問の意味がわからないと灯火は首を傾げた。
「いやほら、何。その、小悪魔ぶった後輩キャラっていうの?」
「いえ別にキャラではなくわたしはどこに出しても恥ずかしくないウザかわ系後輩ですが」
胸元で腕を×字に組む灯火。どことなく口まで×に見える。
とりあえず、それは絶対に自分から主張する肩書きではないと思う。
「そろそろ恥ずかしくならんの、それ? 人に言われたら嫌なタイプの称号じゃない?」
「いや、それはだから、伊織くんせんぱいが変わってるんですって。普通なら大ウケすること間違いなしの属性なんですからね? わたし、せんぱいの好みが気になりますよ」
「そうなのか……ウケを狙いに来ていたとは気づかなかった」
「いや、そういう意味じゃぬぇー!」
うがー! と両腕を上げる灯火だった。大仰なリアクションも相変わらずだ。
結局、その辺りまで含めて、灯火は灯火だったということなのだろう。
僕はそんな結論を出す。元より、下手くそな演技には素が滲みまくっていたのだ。僕に対して演じてみせる理由はなくなったけれど、それで大きく変化することもないらしい。
「でもそう考えると、あれだな」小さく、僕は言う。「いろいろあった結果、学校で浮くぼっちがふたりになっただけって感じがするよな。大山鳴動してぼっち二匹というか」
「あれほど感動的なシーンをそんな台なしな表現で片づけますか、普通? ぼっちだとか気にするタマじゃないじゃないですか、伊織くんせんぱいは。自分からやってるし!」
そういう灯火も大概だろうが、それは言葉にしなかった。
なんのかんの言っても、僕の評判がほぼ最悪に等しいことは事実なのだ。
温度に上限がないのだとしても、下限は存在する。これ以上は悪くなり得ないレベルで印象値最低の僕だから、あまりいっしょにいるところを見られないほうがいいのだが。
灯火は結局、最後までその辺りを気には留めないようだった。
「あの、伊織くんせんぱい。今度、どこかに遊びに行きませんか? いっしょに!」
現に灯火は、そんなふうに僕を誘った。
僕は表情を歪めざるを得ない。嫌なわけではなく、いろいろと考えさせられるからだ。
「また露骨に嫌そうな顔しましたね」
じとっとした目を灯火に向けられる。そう思われたのなら申し訳ない。
「ああ、すまん。いや、別に嫌ってわけじゃないんだけどな?」
「わかってますよ」灯火は表情を緩めた。「本当に嫌がってることだったら、せんぱいは逆に表情に出しませんからね。すーぐ感情隠しますもん、伊織くんせんぱいは」
「…………」
「そのノーリアクションは、驚いてるってことでいいんですよね? ふふ、わたしの伊織くんせんぱい読解力も、そろそろ免許皆伝を頂いていい頃かもしれません!」
確かに、僕は結構驚いていた。
うーむ……一本取られたみたいな気分。
「ほら。わたしとせんぱい、まだちゃんと、なんのしがらみもなく普通に遊んだことないじゃないですか。今度こそちゃんとしたデートしましょうよ。今度こそ、普通に!」
氷点下の男は敵意に強い一方、まっすぐな好意は非常に不得手だ。
というか考えてみれば、僕は灯火からの頼みをほぼ断れていない気がする。一応どれも理由あってのことなのだが、なんだろう。僕、もしかして灯火に甘いのだろうか。
「あの、いえ……本当にお嫌なら無理にとは言いませんけど。で、でも、わたしはほら、伊織くんせんぱいのために石を捨てたんですから! その責任は……えと、取ってほしいと言いますか! その……ダメ、ですか?」
それを言われると弱い。確かに免許は皆伝でいいだろう。
しかも不安そうに言ってくるのだから、もう卑怯ですらあった。
「……お前、クラスに友達とかいないわけ? ここんとこずっと僕といるだろ」
だから最終的に、僕は負け惜しみじみた台詞で話題を逸らすほかなく。
灯火も、そんなことはわかっているのだろう。苦笑しながら、自慢げにこう答えた。
「失礼ですね。せんぱいレベルの嫌われ者といっしょにしないでくださいよ。わたしにも友達くらい、それなりにはいるんですから」
「その発言は僕に対して失礼……でもないか。事実だし」
「いや、納得されるのもなんか悲しい気分ですけど。──あ、ほら。噂をすればです」
灯火が道の正面に視線を向ける。
気づけばもう、学校のすぐ近くにまでやって来ていた。ちらほらと同じ制服姿が周囲に見えており、灯火はそのうちのひとつに向かって大きく声をかけていた。
「おーい!
「…………んん?」
その名前に、僕は強く引っかかりを覚える。
だが状況は待ってくれない。名前を呼ばれたことで、少し先にいた少女がこちらに振り返った。並び立つ僕らの姿を認めると、向こうに立つ少女は明るい笑顔を見せる。
「むふん」
灯火は僕に振り返ると、仰ぎ見るようにしながら得意げに鼻を鳴らした。
──ほら、わたしにだってちゃんと友達がいるんですよ?
そんな思惑が完璧に伝わってくる、割とイラっとする表情だった。確かにあの灯火が、天下の往来で大きな声を出せることには驚いた僕だったが、──それよりも。
「どもー。おはようございますっ!」
と、こちらへ駆け寄ってきた少女のほうに、僕は気を取られていた。
僕らの目の前で立ち止まると、わずかに前屈みになって片手を額の傍に当てる。敬礼に似たポーズのまま、彼女はまっすぐに、その視線を僕へ向けていた。灯火では、なく。
「……、あれ?」
きょとんとした様子で、灯火も僕に視線を寄越した。
僕は硬直している。
そんな全ては、しかし等しく認識の外側であるとばかりに──少女は、口を開いた。
「もうっ! 遅いですよ、先輩! わたし、結構待ったんですから!」
───────────────────────────────────────────────────────────────────────────僕、は。
「ああ……そうか、すまん。待たせて悪かった」
僕は言った。