Chapter1 わずかな金で満足すること、これも一つの才能である(2)

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「……ふぅ」カフェから離れ、ストリートの大通りを一人で歩く──出がけに口に入れたラムネ菓子と春の匂いが混ざって、清涼感が肺から全身へ、緩慢に広がっていた。

 流石に……緊張した。ちょうじゃばら学園の在校生という時点で身構えてしまうくらいなのに、私が運良く巡り会えた相手は、学園をトップで走りきったたかつかさ先輩。本人は特別な意識なんてしていないだろうけど、どうしても、プレッシャーのようなものは感じてしまった。

 そういうのを事前に予想できていて、それでもなお、彼に声をかけたのは──。

 最終確認がしたかった。ここなら、お金を扱うことでしか得られない知見や資本を使いこなすための実力が培われて、最後には、それに相応しい人間になれるんだってことを。

『でも──大丈夫。今年の首席があの人なら、私の選択はやっぱり、間違ってない』

 口内のブドウ糖が溶け終わるのと同時に、決意が、自分の内だけで反響する。

 鷹司先輩へ口にした目標も、根ざす熱量にも、何一つとして偽物は混じっていない。

 だったら、後はそれらを実現するに値する、明確な結果を残し続けるだけ。

 その手始めに。私は明日からの入学セレクションを絶対、一番で通過してみせ──。


「……金払わなきゃいけねぇなんて、んなこと、オレは聞かされてねぇな」


 ──低く唸るような怒声は、穏やかな昼下がりにはおおよそ、そぐわないものだった。

「セレクション受ける奴は、施設を丸ごとタダで使えるって話だろうが。違ぇか?」

「そ、それは恐らく、ストリート以外のエリアでの話なんじゃないでしょうか……あの、このままだとその、無銭飲食という形になってしまうというか、なんというか……」

 声の方。二階建ての大衆イタリアンの入口付近で、二人の男女が向き合っている。

 片方は、深緑のエプロンを着用した女子店員。在校生か、外部からアルバイトとして働きに来ている学生なのかも──ただ、露骨な狼狽えようが、なんとなく後者を思わせる。

 もう片方は、体格の良い男子。少し距離が離れたところからでもわかるくらい身長が高くて、学園の在校生とは違う黒のブレザーを着崩している。そんな彼の目つきは獣のようにギラギラとしていて、第一声も相まって、どこか粗暴な印象を受けてしまった。

「……あいつ、絶対ヤバい奴よな」「ま、ウチらの身分的に普通は、大人しくするよね」

「あれ、セレクション組の人?」「へえ……今年のは、随分イキが良いんだな」

 通りすがる人たちは、一様にただ、見ているだけで。

 ……でも、責めるのはお門違い。誰だって他人の面倒事には関わりたくないだろうし、その場に居合わせただけの人に必要以上の主体性を要求するのは、酷だろうとも思う。

 だけど……うん。だいたいの状況は把握できたし、これからすべきことも理解できた。

 私の掲げるは──決して、目の前の状況を見逃さない。

「──施設利用のルールは、そちらの店員の方が仰っていた内容で合っているわ」

 男子学生と女子店員。二人の間に割って入りながら、私はすぐさま、言葉を紡いだ。

「ストリート内の商業店舗の多くは、学園と提携している企業が運営している。土地やテナントを間借りする形式になっているだけで、ある種、学園の管轄外。だから、利用代金も無償にはならない──オリエンテーションの際に、説明は受けているはずよね?」

「……あ? 誰だよ、テメェ」「君と同じ、入学セレクションを受けに来た学生よ」

 仮に目の前の男子が大人や在校生だったとしても、私の取る行動はなんら変わっていなくて──それでも。立場上の共通項があるなら、なおさら、彼を放置できなかった。

「いきなり来た分際で、ごちゃごちゃうるせぇな。オレは、んなこと知らねぇよ」

「知らぬ存ぜぬで通そうとしても、事務局員を呼ばれて困るのは間違いなく君の方よ」

「チクるってか? あーあー、だりぃなぁ……そもそも、テメェに関係ねぇだろうが」

「誰かがトラブルを起こすことで、他のセレクション受験生へ向けられる目が不当に厳しくなるかもしれない。そういった観点で言うなら、まったくの無関係じゃないわ」

「……面白ぇ。本格的に、ぶっ飛ばしたくなってきた」

 言って。彼がおもむろに身を前に出してきたことで、私と彼との間にある大きな身長差を実感させられた。その目的が威圧にあることも、容易に想像できてしまう。

「なぁ。オレも、金が無ぇわけじゃねえ、そういう事じゃあねぇんだよ。事前に聞かされてた話と違ぇ理屈を押し付けられんのが、気にくわねぇんだって……わかんだろ?」

「だ、代金については今、先輩の店員の人にも相談しますんで、いったん穏便に……」

 横で為されるがままだった女子店員は諫めようとしてくれていたけれど、彼女の提案はたぶん私にしか聞こえていない。頭に血が昇っている様子の彼は、見向きもしていなかった。

 圧で諦めるようなら……初めから、仲裁になんて入ってない。

「わかってもらえるまで、何度でも伝える。君にも善意の心があるなら、店員の方に謝罪したうえで代金を支払いなさい。今ならまだ、ちょっとした諍いで済ませられるはずよ」

「…………ああ、そうかよ。本当にご立派だなぁ、テメェは……」

 私の発言を聞いた男子は、如実にうんざりとした態度を作って──。

「──あ」刹那。風景が急に、スローモーションに映った。男子学生は平手を振り上げていて、殴打されるんだろうなと直感してしまって、ただ、それを避けようにも難しくて。

 私はただ、反射的に両の目を閉じるだけで、精一杯で……。

「……っ! ……………………?」

 ……ばすん、と。風圧を伴った軽い地鳴りが、私の目の前で、急に響いた。

「な、なんだ、テメェ……どっから湧いて出て……」

「──ご覧の通り、だよ。一ヶ月ぶりのチートデイ兼最後の散財だというのに、なかなかどうして、穏やかじゃあない様子が見えたんでな」

 同時に、ぱらぱらと一万円札が数枚、空中から揺れ落ちてきて……ううん、違う。

 あれらはたぶん外貨、100ドル札か何かだと思う。それに、イタリアンの二階の窓ガラスが一枚だけ開いているのも見えたから、たぶん、あそこを起点に風に流されてきたはず。

 ……状況を、どうにか思考できるだけの冷静さが戻ってきてくれて。

 そこでようやく、私の意識は紙幣と一緒に飛び降りてきた、へ及んだ。

「外傷は無いな? 身体を脅かされたことによるメンタルは──安心しろ。至高のオールマイティである俺なら、すぐにこの経験も、心地良い思い出に上書きしてやれる」

 言って。彼はくるりと振り返り、半身で私を一瞥してくる──彼もまた、かなりの長身だった。それに、ストレートに伸びた髪は暗色のところどころにブロンドが混ざっている。

 ミックスルーツ、なんだろうか? シャープな輪郭や端整な顔立ちからも海外の面影が感じられて、そして、そんな彼が浮かべている表情は、不遜さと爽やかさが均等に混ざり合ったようなものだった。総じて独特の雰囲気を、眼前の彼は醸し出している。


「さて──Do or Die. やるかやられるか、なら──俺は当然、前者を選ぼうか」


 ネイティブな英語の発音と共に、彼は確かにそう、口走って。

 その時の私には──その言葉の意味も彼のことも、何一つわからないままだった。

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