第一章 Wild bunch(8)
8
「あら、起きたわね」
瞼を開けると、こちらを覗き込む紫水晶と目が合った。後頭部の感触からして、どうやら少女の膝に寝かされているらしい。そしてなぜか、痛みは引いていた。
「丁度良かったわ、ライナス。あなたの方は抜き終わったところよ……痛覚を一時的に封じてあるから痛みは無いでしょ? 次は私の、コレを抜くのを手伝ってくれない?」
困ったように微笑するクロニカの喉元は、赤黒い棘針が生々しく貫いていた。
「っ‼ クロニカ、お前、生きてっ……‼」
咄嗟に身を起こす。少女は見て分かるほどに悲惨な状態だった。喉元を貫く一本は間違いなく致命傷で、さらに右肩と胸、脇腹と左の腿まで。
どう考えても、生きて喋っていられるはずがない。にも関わらず、
「この棘、血を吸って成長するみたいなの。ああ、外見じゃなくて内側の話よ。吸えば吸うほど、獲物の骨肉の奥へ根を伸ばして、その痛みで行動不能にするわけね」
平然と、そう言ってのけるクロニカの表情は、しかし僅かに汗ばみ、青ざめていた。
「くそっ!」
とにかく、あらゆる懸念を後回しにして周囲を見回すと、こもった熱気と香ばしさが鼻を突いた。ここは、どうやら客車を抜けた先にある厨房車のようだった。
火にかかったままの鍋を無視し、辺りをひっくり返して使えそうな物をかき集めてから、力なく調理台に寄りかかったクロニカ、その体に刺さった棘針に手をかけた。
ぐいっと引き抜くと、ぶちぶちとした感触とともに、柔らかい皮と肉が根こそぎについてくる。そして果汁のように溢れ出した鮮血が、生温い現実感で俺の両手を濡らした。
やはりこれは、人間が耐え切れるような負傷じゃ断じてない、はずなのに。
「化物、ね……いいわ、素直な人は好きよ」
こちらの思考の先を読んだのか、クロニカは真っ赤な唇を歪めて自嘲した。
「因子を宿した貴族は、
漂う血臭。肉を抉られた華奢な身体は、今にも脆く崩れ落ちそうな気すらした。
「……あいつ、グラキエルは、追ってきてないのか」
「そうみたい。今のところは、だけどね。思考を覗いたから分かるのよ。彼、どうやら乗客全員皆殺しにする気みたい。私たちの事は後回し、どうせ針をいくらか刺せばロクに動けはしないと思っているようね」
「……そうか」
助けに行く、などという同情心は、どうやら逃げる最中に落としてしまったらしい。ここに至っては、自分と彼女以外を気にかける余裕などなかった。
酒で傷口を洗い、清潔そうな布で止血してやる。途中、一時的に邪魔な衣服を脱がせた時、少女は微かに顔を赤らめた。
「変態」
「純然たる医療行為だ。安心しろ。こんな痩せたヤギみたいな体に妙な気は起こさねえよ」
「……そういう余計なことこそ、心にしまっておきなさい」
数分かけて応急処置を終える。少女の服を着せ直しながら、俺の頭はこの場をどうやって脱するのかで一杯だった。
そんな俺の心境を読んだのか。クロニカは、しかし投げやりに首を横に振った。
「無理よ。人間の足じゃ、どうあがいても逃げられないわ……私を、見捨てない限りはね」
真っ赤に染まった棚板に寄りかかりながら、少女は問うてきた。
「幸い、奴はそう速くここに来るわけじゃない。手早く皆殺すよりも、最大限に苦しめる悪癖のおかげで、悩む時間は十分にあるわ。だから、答えを聞かせて? ライナス」
矛盾している。さっきは助けろと言っていたくせに、今度は見捨てても構わないと嘯く少女の口ぶりは、まるで近づいてきた足音を悟り、壁を掘る手を止めた死刑囚のようで。
「諦めたのか」
そう問い返すと、クロニカは穏やかに、力なく肯定した。
「……うん、そうね。奴に、私の眼は通じなかった。試したのは初めてだったけど、やっぱり貴族相手にはダメみたいね。本体の仕業か、それとも単に劣化してるせいかしら。どちらにせよ、もう構わないけれど」
自分だけの理屈を呟きながら、細い指先が、血が彩を添えた紅紫と白銀の髪を弄る。
怖くはないのかと重ねて問うと、こう返された。
「怖いわ。でも不思議ね。いざその時が来てみると、意外と、どうでもいい気分にもなるの。たぶん、もうずっと前から、私はとっくに……疲れてたのかも」
なぜか。少女の血まみれの諦観に感じたのは、痛々しさよりも苛立たしさだった。
「……お前が諦めるのは勝手だ。けど、俺の金はどうなる」
「さあ……もしかして、私が捕まって殺される前に記憶を戻して欲しいの? ごめんなさい、それはお断りよ。私、誰かさんと違って約束は守る主義なの」
この期に及んで、いや、だからこそなのか。少女はからかうように言った。
「それとも逃げる前に、私を拷問して取り戻してみる? 好きにしなさい。めちゃくちゃにするなり、このまま見捨てるなり、どちらでも。あなたのお気に召すまま」
糸の切れたような手足から投げ出された少女の言葉が、俺の靴先に転がった。
いま分かった。こいつはきっと、逃げ切れるなんて最初から思っていなかったのだ。
いつかこうなると知っていながら、それでも、歩いてきたのだ。
どうして、さっさと官憲なりに捕まってしまわないのか、どうして、いっそ自殺してしまわないのか。そして何より、そんな旅路に何を得られるというのか。
俺には、まったく理解できないながら、一つだけ、はっきりしている事があった。
「……ムカつくんだよ」
「え?」
この期に及んで金を返さない、のはまだいい、理解できる。俺がクロニカでも絶対そうするに違いない。自分が死ぬ横で得をする奴が現れるのは死ぬほど腹立たしいからだ。
だから、俺が心底気に食わないのはもう一つの方。
最後まで意味深な、人を食ったような微笑を浮かべながら、絶望を受け入れるこの少女に俺は一度負けた。詐欺師として、負けたのだ。そしてまだ、勝っていない。
ゆえに、このまま金を奪われたまま、俺が
不意に、煮えくり返った腹の底から、沈んでいた記憶がふきこぼれた。
――冷たくなった姉の顔、何も映さない瞳。
――窓の外で、降りしきる白い雨。
――右手に握ったナイフの感覚と、赤。
思い出す。そうだ、だから、俺がどうするかなんて、とっくに決まっていたのだ。
後ろを向いて、空の拳銃に弾を込め直すと、驚いたような気配が背中を叩いた。
「……え。ちょっと、あなた……本気?」
心が見える癖に、一体何を驚いているのか。俺は背を向けたまま肩をすくめてみせる。
俺にとって、確かな事は一つ、金は命よりも重い。そして積み上げてきた詐欺師としての誇りもまた、命を賭けるには十分過ぎることに矛盾はない。
「安心しろ。やると決めたからには死ぬつもりはねえよ」
深く息を吸って、吐く。めいっぱい取り込んだ酸素に乗せて、冷静さを全身に巡らせる。
二十年の詐欺師人生、犯した
狭いキッチンを見回しながら、自分の中身を掘り返す。今現在に至るこの十数分間と、これまでの人生の経験値を総動員して、微かに見えた道筋に目を凝らす。
「あの化け物を、ぶち殺す。そんで生き延びるぞ」
その言葉は誰でもなく、自分自身に言い聞かせるためだ。