第一章 Wild bunch(7)
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これは一種の現実逃避か。音を上げた意識が逃げ込んだのは、過去の時代の夢だった。
即ち、何も知らなかった、知らないでいられた、ガキの頃の俺だ。
とある有力貴族の庇護の下、王都の一等地で父が経営する劇場の裏庭。打ち捨てられた古い舞台装置の影に隠れて、俺は部屋から持ち出したチョコレートを齧っていた。
もう、馬鹿のように叫びながら走り回っていれば幸せなほど幼くはない。かと言って、沸き上がる幼稚な反発心を御せるほど熟してもいない。そんな年頃だった。
つまりは、親から行けと命じられた学校をサボったはいいが、しかし不貞腐れる以外にやることもない、そんなある日の出来事だった。
『あ、やっぱここにいたのね、ライナス』
『……姉さん』
ペンキの剥げた立て板の上から、覗き込むように、見知った姉の顔が現れた。
長い亜麻色の髪。身内贔屓を抜きにしても美人な早熟の少女は、劇場付き一座の主演女優を務めるのに不足なく。寡婦をやれと言われれば秒で泣き出す巧みな演者は、しかしその時は、身内にだけ見せる人懐っこい素の笑顔を浮かべていた。
物心ついたときには、一緒に擦り傷まみれで裏庭を駆け回っていたはずなのに。いつの間にか大人の仮面を幾つも身に着けるようになった彼女へ、俺は嫉妬のような憧れと母替わりへの寂しさを持て余しながら、言った。
『こんなとこ来てていいのかよ。もう昼の部が始まるだろ』
『あなたこそ。もう学校の始業から大分経つわよ』
そう言うと、長いスカートに覆われた膝が隣に座り込んだ。
『予定が変わったの。なんでも、前々から狙ってたサーカスの団長を父さんがついに口説き落としたらしくて、今日だけウチで演ってもらうんだって。だから暇なアタシは久しぶりに可愛い弟と遊ぼっかなーって』
『じゃ、俺が学校行ってたらどうするつもりだったのさ』
『行ってるわけないでしょ。それぐらいお見通しよ』
即答に、反論しようとして、しかしすぐに諦めた。やはり彼女には敵わない。
『ねえねえ、そんなに学校ってつまんないの?』
姉の純粋な好奇心に、しかし気の利いた返答が出来るほど、俺はまだ大人ではなかった。
『つまらない……ことは無いけど、それ以上に、嫌だ』
そっか、と言ったきり姉はそれ以上踏み込まなかった。言葉にすれば脆くなる部分をそのままにしておいてくれる、なんだかんだで、俺は彼女のこういうところが好きだった。
『それに、父さんの言いつけ通り学校行って勉強しても、どうせここの経営なんて俺には無理さ。金稼ぎになんて興味ないし』
そのまま自分を誤魔化すように繋げた言葉は、しかし今度はあっけなく撃ち返された。
『でもどうせ、他にやりたいこともないんでしょ』
『そりゃ、そうだけど……』
姉はしばし、考えるように空を見上げ、それから唐突に、乾いた手をパチンと叩く。
『じゃあさ、ライナス! 私と一緒に舞台に立ってみない?』
『はあ?』
『そうと決まれば……早速練習よ! まずは声の出し方からね。さ、立ちなさい』
『ちょ、ちょっと待てよ、姉さん』
すぐさま講師の声色に切り替わる姉へ、俺は慌てて反対した。
『演技なんて、俺には無理だよ。あんな大げさに動くなんて、その、恥ずかしいし……』
『だーいじょうぶ、大丈夫。すぐに慣れるわよ。だからお姉ちゃんに任せて』
付け加えるように、身をかがめた彼女が耳元で囁く。
『きっと才能あるわよ、ライナス』
それから目を合わせて真っ直ぐに、こう言い聞かせられた。
『あなたは、人並みには他人の心が分かる子よ。でも演技には、それ以上に自分の心を理解して、上手に使うことが大切なの。その点、あなたはきっと人並み外れてるわ』
それに、と言いながら姉の白い手がズボンのポケットに突っ込まれる。不意を突かれて驚く間もなく、隠していたチョコレートの包み紙が取り出された。
『けっこー大胆不敵で器用だし……これ、アタシが引き出しに入れといたチョコよね。最近減ってると思ったから、鍵までかけといたのに』
『……あ、いや、それは』
『罰として、今日はぶっ倒れるまで声を振り絞ること。それじゃ一発目行くわよ!』
再び、一段と強く背中を叩く姉に、しかし勘弁してくれと叫ぶ間もなく。
そこで俺の意識は、現実へと引き上げられた。