第一章 Wild bunch(3)

     3


 嘘をつくときのコツ。その二、

 常に冷静であれ。


 言うまでもないが、場の空気は完全に凍りついていた。

 予想外とは、忘れたころにやって来る。何も嘘がバレるのは今日が初めてじゃない。これまでも、その度に取り繕い、切り抜けてきた。今もまたその時が来ただけのこと。

 だから落ち着け、俺。

「あの、お嬢さん。……君は、何か思い違いをしているよ。初対面の相手に、一体何の根拠があってそんなことを言えるんだ」

 平静を装った裏で、冷たい汗が背筋を伝う。しかし一体なぜ見抜かれたのか。心当たりの一つも思い当たらないでいると、続けざまに、愛らしい唇が致命打をぶち込んできた。

「あら、それはあなたが一番分かっていることでしょう? 詐欺師さん」

 一瞬で、胃が悲鳴にも似た軋みを上げ、喉の奥が嫌になるほど締め付けられた。

 冷静になれ。この際、見破られたことは最早どうでもいい。動揺すれば自白したようなものだ。だが逆に落ち着いてさえいれば、単なる部外者の出まかせで片づけられる。

「……いいかい。見知らぬお嬢さん。私は今この方と大事なお話をしていたんだ。そこに横から割り込んで、私を詐欺師呼ばわりした。立派な名誉棄損だよ。保護者はどこだい?

 しかるべき訴えを行わせてもら――」

「あなたの目的は、初めからそこの小切手だけ」

 声は静かに、そして急所を狙うナイフのように鋭く切り込んできた。

 そして、あどけなさを残す微笑が、すらすらと俺の嘘を解体していく。

「投資の話はただの口実。保険もただの嘘っぱち。そんな法律はどこにも存在しないし、契約書だってお役所のサインと印章を上手に偽造したのでしょう」

 聞いていたはずのない会話への言及は、しかしはっきりとした口調で告げられた。

 一体、何が、起きている。大きすぎる驚愕は、もはや恐怖といっても差し支えない。

 ウィレムが、サインした契約書をもう一度確かめ始めた。

 彼も悟ったのだ。少女の声に宿る、まるで答案を読んでいるかのような明白さに。

「どんなお金持ちだって結局は同じ人間だ。自分は奪う側だと思い込んでいる連中ほど、騙しやすいものはない……ふふ、大した人でなしね、あなた」

 歌うような調子に、俺はまるで自分がしゃべっているかのような錯覚を覚えずにはいられなかった。在るはずのない良心が少女の姿をとり、内心の罪を垂れ流しているとでもいうのか。悪夢にしても出来すぎな状況は、しかしどうしようもなく現実で。

「…………ジョン君」

 低い声が、鼓膜を揺らした。

「誤解です。ウィレムさん。彼女の言葉こそ、何の証拠もないデタらめに過ぎません」

 ジョンの仮面が最後まで役を演じ切る裏で、俺は敗北を悟っていた。

 証拠の有る無しなど、何の意味もない。人間が従うのは真実であって、事実ではないのだから。疑いを覆せなくなった時点で、もう俺の打つ手は消えている。

 びりびりという音がした。破いた小切手をマッチで灰にして、ウィレム立ち上がる。

「確かに、証拠はない。だが、私の気が変わるには充分だ。……真実はどちらにせよ、なかなか楽しい時間だったよ。おかげで久しぶりに列車が退屈しなかった。では、失礼する」

「あ、ちょっと! お待ち下さ――」

 ジョンの声を黙殺し、去っていくウィレムの背が貫通扉の向こう側に消えていく。

 遠ざかっていく。聞こえていたコインの音が、俺を確かなものにする金色の声が。

 そこで、一気に力の抜けた体が、座席の上に尻から落ちた。奇妙に明滅する視界の中で、悔しさと怒りが渦を巻き始めるのを、俺はどこか白昼夢のように眺めやって――。

「お疲れ様。大丈夫?」

 ぽっかりと空いた対面の席に、いつの間にか、少女は入れ替わりに座っていた。

 ふと気が付くと、俺は華奢な胸ぐらを無理やりに掴み上げていた。伊達眼鏡と一緒に顔から剥がれ落ちた仮面ジョンにかわって、生の感情が喉を鳴らす。

「お前は一体、何だ」

「あら、強引ね……そういう趣味なの?」

「知ったことかよ。いいから答えろ、ガキ。どうして俺の邪魔を――」

 再び目が合ったその時、魂を吸い込まれそうな紫苑の左眼に映っていたのは、

「⁉ ――ッ‼」

 瞬間、俺は突き飛ばすように少女から手を放した。――そうか、そういう事か。

 もうダメだ、二度と、俺は断じてこの眼を見てはいけない。なぜならば、

「あら、気づいたのね」

 少女の左眼に映っていたのは、俺の内面そのものだった。見知った記憶が、思考や感情が、どうしてか判読できる形をとって小さな眼球の中を渦巻いている。

 心を、直接見ているのだ。そして、そんな真似が可能なモノは、この世に一つ。

「……貴血因子レガリアっ! まさか、お前は!」

 かつて、この国を支配していた貴族たちが、国外への流出を病的なまでに忌避したもの。

 それは自分たちの血統と、そこに宿る超常の力に他ならない。

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