第一章 Wild bunch(2)
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始発の汽笛が通り過ぎた、駅のホーム。
ペンキの剥げかけた待合ベンチに座りながら、俺は目を閉じていた。
遠くの梢から響く鳥のさえずりも、目前を過ぎるまばらな雑踏も耳から排除して、意識だけを己の内へと、深く、深く沈めていく。
顔とは、その人間の剥き出しの心と、外の空気との接点なのだと俺は思う。
だからこそ、人は図らずとも顔に出てしまうものだ。今考えていることや、それまで考えてきたことの全て、経験と感情の積み重ね、人生そのものが。
裏を返せば、そこに偽りの真実を張り付けることで、他人など容易に欺ける。
呼吸すらも切り離した集中下で、俺は意図的に夢を見続ける。それは俺ではない他者の生を創作しながら、同時に自分自身として、その旅路を歩む作業だ。
あの時あんなことがあった。その時こう思った。何かを忘れ、あるいは糧にして、「彼」は今まで生きてきた。架空の記憶に、感情という肉をつけていく。
そうして出来上がった
ほどなく、むせるような蒸気を空へ吐きつける、車輪のいななきがやってきた。
立ち上がって、ホーム前方に伸びた、品の良い乗車列に並ぶ。
「切符を拝見いたします」
順番が回る。改札鋏を持った厚着の車掌へ、「彼」は求められたものを差し出した。
良い旅を、という一礼に見送られながら、ステップを踏んで車内へ乗り込む。
背後から聞こえてくる、切符を落としたらしい旅客の狼狽を無視しながら。
「――というわけで、いかがでしょうか。ウィレムさん」
促した先の相手方、太っちょの紳士は葉巻の灰を落としつつ、悪くないとつぶやいた。
偶然、居合せた車内で持ちかけた商談。その予想通りの好感触に、「彼」――法律専門家、ジョン=ロウは腹の中で拳を握った。
彼の伊達眼鏡越しに流れていく車窓の景色が、田園風景から山岳地帯へ切り替わる。
この革命後の新時代を象徴する乗り物は、海の向こうの
車輪の振動に合わせて、
初老の秘書に次の葉巻を要求しつつ、太った中年紳士、ウィレムは口を開いた。
「確認するが、ジョン君。この話、本当に信じていいものかね」
「もちろんですとも、ウィレムさん。確かに危険な投資ですが、この『熱』は間違いなくしばらくもちます。ピークを見極めるのは、私のようなプロならば難しくはありません」
彼の口を動かしながら、俺は先週目にした新聞の見出しを思い出していた。
『自由貿易法、議決の見通し』
革命以前の
その病的なまでの封鎖は、あるものの流出を恐れたからであるが、今は置いておこう。
革命後、鎖国政策はもちろん廃止された。しかしながら全面的な自由貿易だけは、これまで幾度となく保守派が議会通過を阻んできた。しかし近年、徐々に勢力を増しつつある輸出向け
よって話はあの見出しに戻る。新聞に記載された例の一報は、二週間を経た今や、いずれ解禁される貿易業への
ざっと調べただけで数百社。流行に乗って増殖し続ける大量の貿易会社の大半は、間違いなく、一年と保たない
にもかかわらず多くの人間がそれらの株を買い求めたことで、かつてないほどに株取引の市場は膨らんでいる。では、この無謀な風船を膨らませ続けているのは誰か。
もちろん、それも新聞の仕業だ。かつては検閲されていた言論が自由化されてから早十二年、今や世間の連中は、日々書き換えられる流行に追い立てられている。
だからこそ、この「彼」、ジョンはそれを利用するよう勧めているのだ。
「ええ、ウィレムさん。確認のため、もう一度ご説明いたしましょうか」
頷くウィレムの瞳に手ごたえを感じつつ、彼は法廷仕込みの口舌を回す。
「もしこの私めを信用して出資していただけるならば、私はそれを元手に幾つかの泡沫株を購入します。そして得られた売却益に関わらず、五割増の返済をお約束いたます。無論、利益が出れば、そこからもまた五割」
ジョンの提案を一言でいえば、株の代理購入の持ちかけだ。
株取引は、面倒だ。事業主が発行した株の買い付けから、売却するなら買い取ってくれる人間を探すまで、一々相手を探して交渉しなければならない。そのため富裕層は普通、そうした諸々を、自分よりもうまくやってくれる代理人を雇おうとする。
「君は相当な自信家だな。もし思う通りに株が売れなければ、破産一直線だろうに」
「いやいや、私はむしろ小心者ですよ。……だからこそ、成功の核心を持っているのです」
落ち着き払った調子で、代理人候補、ジョンは続けた。
「今の高値は、すぐに下落します。しかし、人間というのはどこまでも自分に都合のいい生き物でして、こう考える連中が必ず一定数いるのです。今は一時的な値下がりに過ぎない、逆に買増しのチャンスだと。……ですから、売り逃げをかける相手には困りませんよ」
「実に面白い考えだね。愚か者を食い物にするわけか」
「お嫌いでしたか?」
「まさか」
まだわずかに、ウィレムの目には疑いの色があった。だが問題ない。それは裏を返せば信じたい証拠であり、どうせこの男の節穴に、俺の仮面は見抜けなどしないのだから。
「……正直に言えば、実際の取引に関しては、あまり心配していない。というより、素人の私が真に心配すべきは、君を本当に信じていいのかどうか、それに尽きると思うが」
「まったく、仰る通り、ご尤もです。が、どうぞご安心ください」
至極当たり前の話だ。もしジョンが出資金を持ち逃げしてしまえば、あるいは得られた利益を渡さなければ元も子もない。
ゆえにこれも当然、きちんと相手を安心させる材料を用意してある。
「そうした株取引の持ち逃げを想定した保険があるのです。少々こちらをご覧ください。ある一定額を超えた株式取引において有効な保証申請書です。売却利益から税金を納める代わりに、持ち逃げや紛失を保証する、いわば投資促進を目的とした期限付きの特例法ですが……ご存じありませんでしたか」
目を丸くして、初耳だと頷くウィレム。
「今回の場合は、ウィレムさん御自身が保証対象になっていただきます。そうなると仮に私が不正を働き損害を出した場合、裁判所へこれを持ち込めば保証が支払われます」
「なるほど……少し、考えさせてくれ」
ウィレムはしばし、契約書にある財務省の認印を眺めてから、重々しく煙を吐いた。
「……いいだろう。君の話に、乗ってあげよう」
「! ありがとうございます!」
心の中で、俺は両の拳を握り締めた。契約、もとい、詐欺成立だ。
「君、ペンと小切手を。それと葉巻を彼に」
差し出された葉巻を受け取って、ジョンは恭しく火をつけた。タバコの交換あるいは奢りは、契約の成立を意味している。古い時代からの風習だ。
「法律家だか商人だか分らんね君は? 仕事を始めて何年だ? 家族はいるのか?」
「もう十年になりますかね。早死にした父が借金を残したので、返済のために弁護人の投資代理を請け負ったのが切っ掛けです。家族は妻が一人だけ。子供はいません」
ちらりと、テーブルの上の、小切手の額面を盗み見た。
同時に、頭の中で見えないコインが音を立てる。
また一段、俺の金が積みあがる。言い知れぬ充実が、腹の底から人生を満たしていく。
その時ふと、背景と化していた車輪の音に紛れて貫通扉が閉まる音がした。切符を切りに来た車掌だろうか、そう思い、何気なく視線を向けた先。
「――っ」
思わず、張り付けた仮面の奥で、俺は息を飲んでしまった。
契約書にサインしているウィレムは気づいていない。彼の背後の貫通扉から姿を見せたのは、四角いトランクを片手に引き連れた一人の少女だった。
小さな肩を通り越して腰まで下りた髪は、妖精のような
しかし俺が、何よりも目を奪われたのは、それらの何れでもなく。
少女は片目を閉じていた。つぶらかな翠色の右目とは対照的に、左眼を閉ざす瞼はしかし無理をしている風もなく、ごく自然に下りたままになっていた。
その下に一体何があるのか。突発的な好奇心に応えるように、少女はこちらを向いてわずかに口角を上げた。微笑んでいるのだと、一瞬遅れて理解したその時。
ゆっくりと、その左眼が開かれた。
そこに在ったのは、紫苑に輝く水晶瞳。月下の湖面の清澄さと、深淵の幽冥さを混交した――まるで、少女の髪色が溶け合ったかのような
俺は束の間、その両眼が織りなす色彩に、思わず見惚れてしまった事を白状する。
「どうかしのたかね? ジョン君」
「――ああ、いえ何でもありませんよ。サインはお済ですか? そうですか。では失礼いたします。一応、私の方でも確認を……」
書類に目を通すふりをする間も、先ほどの少女が脳裏にちらついた。どこぞの良家の娘だろうか。にしては、擦り切れた鞄とくたびれた革靴というのは不自然だが。
それに何より、あの目は一体何だろうか。今まで出会ってきた誰の瞳にも見たことのない、まるで全てを見透かすようなあの輝きは――。
いや、やはり、どうでもいい。どうせ俺には関係ないと、散らかった疑念を振り払う。
「ええ、どうもお待たせいたしました。書類に不備はございません。それでは――」
気を取り直して、小切手を、とジョンが言おうとした瞬間。
「――っ!」
いつの間にか、見知らぬ少女は俺の座席の隣に立っていた。
紅雪の髪が揺れ、からかうような微笑がこちらを覗き込む。
「こんにちは」
「あ、ああ。ご機嫌よう、お嬢さん。何か用かな。悪いが後にしてくれると――」
絡みつくような、それでいて鈴のように澄んだ声音を、適当にあしらおうとした、直後。
「あなた、噓をついているでしょう」