第四話 【紫電】(4)
*
『──はーい、一旦ストップ!』
週に一度の、角筈ボイスカレッジでの授業。
基礎の練習を一通り終え、始まったアフレコの練習で。
映像を見ながら一話分演じ終えて、講師の先生がトークバックで言う。
『良くなってきたね。パクもみんな合うようになってきたし』
養成所──声優専門の教室に参加させてもらって、一ヶ月ちょっとが経っていた。
基礎の発声や発音の練習、役者になるための身体作りや、台本読みの基本など。
わたしはこれまでも、声優になるための一番の根本をここで教わってきた。
おかげで、じわじわではあるけれどお芝居の基礎力は上がってきたと思う。少なくとも『役者の卵』を自称できるくらいにはなったんじゃないかな。
ちなみに……紫苑も女優から声優に転向した頃、この角筈ボイスカレッジで授業を受けていたそうだ。その繋がりが今も続いていて、今回わたしは途中入学みたいな形で参加させてもらうことになったのだった。
『わたしからの指摘はあとで入れるとして……どう? お互いの芝居で気付くことはあった?』
その言葉に、ブースにいる七人ほどの仲間が顔を見合わせる。
『意見があったら、それぞれで話してみて!』
角筈ボイスカレッジの授業は、受講生の自主性を重んじているらしい。
声優になるのに、ただ与えられていることを漫然とこなすだけではいけない。
自ら課題を見つけ、練習を課し、成長していける役者にならなくてはならない。
そんな理念の元、こんな風に。
練習中、わたしたちはお互いに意見を言い合う機会を頻繁に設けられていた。
「──マイクワーク、後半ごちゃついたね」
「──ごめん、あれわたしが73でミスった!」
「──でも、立て直せればよかったよね。みんなテンパりすぎたかも」
もちろん、キツい意見をぶつけられることもある。
そのせいで、受講生同士がケンカしそうになることもある。
けれど、確かにこの方針のおかげでわたしは自分のお芝居だけじゃなく周囲のお芝居にも目が向くようになって、一層視野が広がった気がしているのだった。
「……山田さん、シーン52のセリフ、良かったんじゃない?」
話題が一度途切れたところで。
養成所の仲間、
「その前の俺のセリフに合わせてくれただろ? 俺がちょっと、後半トーン上げたから」
「ああうん、それ気付いたよ。あ、さっきと変えてきた! と思った」
「あーそれ、わたし反応できなかったんだよなあ」
メモを取っていた隣の女性、
「
「気付いてたけど、あんまり上手く乗れなかったかも。もうちょいトーン上げればよかったな……」
『山田の52、良かったねー』
トークバックで、先生もそんな風に続いた。
『上げすぎて、ちょっと次にこぼしちゃったけど、反応の良さは山田の武器だね』
「あ、ありがとうございます!」
『そこは意識的に鍛えていこう! 現場でも、絶対役に立つから!』
養成所に通い始めて気付いたけれど、どうもわたし、筋は悪くないみたいなのだ。
いきなりプロの中に放り込まれて、できないことだらけで焦っていたけれど、ここでは明らかに善戦できている。他の受講生に芝居経験者が多い中、講師の先生に褒めてもらえることも多かった。
しばしお互いに指摘を繰り返し、先生の指導ももらったところで休憩に入る。
『よーし、十分後に再開ねー』
トークバックからそう聞こえて、ブース内の空気が緩んだ。
『休憩明け、ちょっとやることあるから遅れないようにねー』
「はい!」と全員から声が上がって、リフレッシュタイムだ。
みんなお手洗いなり水分補給なりに向かおうと、アフレコブースの出口へ向かう。
わたしも外の空気でも吸おうかなと、自然とできた列の最後尾についた。
そのタイミングで、
「……わあ!」
列の先頭で、声が上がった。
何かに驚いた声。予想外の何かに直面したトーン。
さらに、
「──おお……」「マジか」「本人……?」
なんてざわめきが、後続からも上がり始める。
なんだなんだ? 誰かが来たんだろうか?
気になりながらも前に進み、ドアを抜けてロビーに出たわたしは──、
「……ッ!」
──そこにいた女性に、言葉を失う。
黒くつややかなロングヘアー。同じく黒の、少し紫がかったワンピース。
彫像めいて整った顔と切れ長の目、長い手足とゆったりとした動き。
──見たことがあった。
テレビやネットの動画やインタビュー記事で、何度も目にしてきたその女性──。
──三棟珠。
日本最強の、若手女性声優──。
彼女が──見慣れたスタジオのロビーに佇んでいた。
周囲に纏った、はっきりと目に映りそうなほどのオーラ。
その存在感に、心臓が一拍大きな音で跳ねる。
隣では青物くんや魚鳥さん、銭独楽くんもわたしと同じような表情で硬直していた。
「──あー、お疲れ! ありがとう珠!」
講師の先生が、コントロールルームから出てきた。
「忙しいとこ、わざわざごめんね!」
「お疲れ様です、大丈夫ですよ」
三棟さんが──気さくな声でそう返す。
「吹き替えの収録も、一段落したので」
何気ない発声、ごく普通のトーン。
なのにそこには、強烈な存在感があって──わたしは一瞬で耳を奪われる。
「あー、ディアナ・コープランドの映画ね。めちゃくちゃ時間かけるって聞くね」
「ええ。一週間、朝から晩までずっとでした」
表情を変えないまま、三棟さんはうなずいた。
「でももう終わりましたし、浜野さんに声をかけてもらったので」
「そっかそっか。とにかくありがと、よろしくね」
──浜野さんに、声をかけてもらった。
確かに浜野さん……この間のオーディションで、誰かを呼ぶと言っていたけど。
まさかそれが、三棟さんだったの?
わたしに何かを見せるために、この人を呼んじゃったってこと……!?
「ていうわけで、今日は特別講師にここの卒業生、三棟珠を呼んだから」
先生が、こちらを向きどこか自慢げに言う。
「このあと、色々本人から教えてもらうおう。みんな、心して参加するように!」
*
『──話すよりも、まずは実演だろうって』
休憩後。再度集合したわたしたちに、先生が言う。
『細かいお芝居の説明は難しいし、実際に見せてくれるってさ』
その言葉に──受講生全員が息を呑む。
説明の通り、三棟さんはブースの中にいた。
これから、わたしたちにお芝居を見せてくれるらしい。
台本を持ちマイクの前に立って、映像が流れるのを待っている。
さらに──わたしもその隣にいた。わたしと青物くんも、先生からの指名で『三棟さんの相手役』として、ブースに入っているのだった。
すでに気圧されていた。
わたしの右、一・五メートル。そこに立つ三棟さんは、ただいるだけではっきりとオーラを放っていて。匂い立つ濃厚な集中の気配に、わたしは呼吸を忘れそうになる。
……まさか、こんなことになるなんて。
いきなり、日本最強の声優と一緒にお芝居することになるなんて……。
『……良い機会だから、沢山吸収するんだよ』
それまでになく真面目な声で、トークバックの向こうの先生が言う。
『役者が一番伸びるのは本番だし、一番の教材になるのは他の役者だ。そういう意味で言えば、珠ほどのお手本は日本に他にいない』
うなずいて、わたしは台本を持つ手に力を入れた。
手の平に汗が滲んで、ページがわずかによれた。
『だからみんな──もしかしたら、これがこの養成所で最高のレッスンになるかもしれない。一ミリも聞き漏らさず、全身で珠の芝居を受け止めるように!』
『はい!』
返事をする皆の声も、普段よりもずいぶんと緊張気味な気がした。
『……ごめん、お待たせー珠』
こちらに向き直ると、先生がトークバックで三棟さんに言う。
『主人公の出てくる少し前、シーン79から映像流すから、
「わかりました」
──今回、わたしたちが演じるのは『大正東京怪奇少女』というショートアニメだ。
長さは十分ほどで、舞台はタイトル通り大正時代の東京。
嘘で日本全土を混乱に陥れる美女が主人公の、和風サスペンスだ。
さっきまでのアフレコ練習でも、この作品を題材にさせてもらっていた。
ちなみに本作。この
『……よし、じゃあいこう』
先生も、どこか緊張気味の顔でそう言う。
『珠、よろしくね。山田と青物も──』
その声から間を置いて──ブース内とコントロールルーム。
掲げられたディスプレイに、映像が流れ出した。
「──メモが残されていたんです。時間と場所が書かれた紙片がいくつも!」
「──時間と場所? ただの待ち合わせの記録かもしれないだろう」
シーンはわたしの演じる探偵と、青物くん演じる巡査の言い合いから始まる。
大正時代の浅草寺。
羽織袴姿の探偵が、胡乱げな表情の警官に必死の主張をする。
「──それが……これを見てください!」
切実に喉を震わせ、わたしは巡査に言いつのった。
「──我が社に怪女がかけてきた、電話内容の一覧です。その全てが……この紙片の時刻、場所と一致している!」
作中。すでに東京は怪女の嘘によって、大きな混乱に陥っている。
至るところで暴動が発生し、火災による死者もうなぎ登りに増えていた。
錯綜する情報。募るお互いへの不信感。動き出す軍部。
そんな危機的状況を食い止めるため──探偵も巡査も必死だ。
フルスロットルで、切迫した状況を演じる。
三棟さんにバトンを渡すという役目に煽られてか。青物くんのお芝居も普段以上に張り詰めていた。そのテンションに誘われて、わたしの額にも汗が浮かび出す。
「──だとしたら……彼女は、嘘を現実にするつもりなのか!? そうやって、東京中を自分の虚構の世界に──」
「──ああ、う、後ろ!」
そして──画面の中で探偵が血相を変える。
主人公、姫草千代の登場シーンが。
三棟さんの芝居が始まる──。
「──っ! き、君は!?」
振り返る探偵と巡査。
画面に映し出される──月光に浮かぶ、美女のシルエット。
──来る。
「──いいえ」
その一言で──時間が止まった。
──否。
ただその意味だけの、短い言葉。
い、い、え。三文字の、単純な響き──。
「──
落ち着いた声色。
妖艶さ、上質ささえ感じる滑らかな調べ。
楽器のように鳴る喉と、音を自在に操る舌、唇──。
「──ふふふ、なんて顔をなさっているの……」
その響きに──音楽的な軽やかさが混じる。
歌うような、煽るような、嘲るようなトーン。
「──そのように汗水垂らしていらしてはいけませんわ。妾を捕まえるのなら、探偵さん。もう少しモダンにお願いしたいの……」
──何が起きたのかわからなかった。
自分の気持ちに、何が芽生えたのかわからなかった。
ただ──そこに怪女と呼ばれた人がいた。
大正の東京に生きる、妖しげな一人の女性がいた──。
「──ねえ、つまらない。つまらないのよ」
そこで──声に力がこもる。
怪女の言葉に、怒りにも似た感情が交じる。
そして、恋でもしているような昂ぶりで。
情欲さえ感じさせる恍惚の声色で──彼女は探偵に吐き捨てた。
「──逃げも隠れもしませんわ。さあ早く妾を、嫉妬させてくださいな」