第四話 【紫電】(1)

 オーディションの会場となる、都心のスタジオ。

 そのロビー、声優さんたちが自分の順番を待っている空間で。

「……」

 わたしは何度も、手元の台本を読み返していた。

 同じセリフを繰り返しチェックする。

 急に不安になって、お芝居の注意点を書き込む。

 手の平の汗を吸って、紙がちょっとずつよれてきてしまう……。

「まあまあ、落ち着いて」

 わたしの前に立つ斎藤さんが、優しくそう言ってくれる。

「気合いが入るのもわかるけど、いつも通りにいきましょう──紫苑」

 ──紫苑。

 そう、今日わたしは香家佐紫苑としてここにいる。

 初めてウィッグをかぶりフルメイクをし、彼女っぽい服を着て仕事に臨んでいる──。

 ──紫苑と出会って、そろそろ二ヶ月。

 タイムリミットの半年まで、あと四ヶ月。

 そんなタイミングでわたしはついに──初のスタジオオーディションを迎えたわけだ。

 だから、堂々としていないといけないんだけど。

 紫苑の振りを、こういう場でも貫かなきゃいけないんだけど……。

「うう……」

 心臓が、爆発寸前だった。

 バレてしまわないか、おかしいと思われないか、些細なことで、他人と入れ替わっていると見抜かれないか。不安で不安でしょうがない。

 一応スタジオ入りした際、斎藤さんの知り合いのスタッフさんたちと挨拶するタイミングはあった。他の声優さんたちにちらりとこちらを見られることもあった。

 それでも「あれ? なんか紫苑おかしくない?」みたいな雰囲気を出されることはなくて、一旦は胸をなで下ろした。

 少なくともぱっと見は、それほど違和感なく紫苑の振りをできているっぽい。

 ただ──、

「あー紫苑、久しぶりー」

 そんな風に、声をかけてきた先輩声優。

 いくつもの作品で共演し、ご飯に行ったこともあるといういつしきさんは、

「あーどうも、お久しぶりでーす」

「……お互い頑張ろうね」

 ──一瞬、返事に間があった。

 ちょっと不思議そうに揺れる目と、怪訝そうな表情。

 そして、

「……紫苑、今日調子悪い?」

「え、なんか変ですか?」

「ちょっと疲れてるっぽく見えるかも……」

「そ、そんなことないですよ!」

 慌ててそう言いながら、声のトーンを一段階上げた。

「いつも通り元気です! ちょっと寝不足ではあるんですけどね!」

 それ以上は追及されることはなかったけれど、やっぱり以前からの知り合いは引っかかる部分があるみたいだ。本当に、細心の注意を払って紫苑の振りをしないと……。

 そんなことを考えるうちにも、オーディションは進行していく。

わらさん」

「はい!」

「こちらへ、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」

 そう言って、隣に座っていた声優さんがブースへ消えてゆく。

 もう一度心臓が高鳴って、額に汗が浮かんだ。

 仮に──入れ替わりがバレないとしても。

 純粋に紫苑だと思われるんだとしても、これから自分はオーディションを受けるんだ。

 これまで養成所や紫苑の家だけで披露していたお芝居を、プロの現場でお見せすることになる。

「……大丈夫ですよ、ちょっとくらい失敗しても」

 わたしの緊張を察したのか、斎藤さんが小声で励ましてくれる。

「今日の音響監督、はまろうさんなんで。ほら、『ゆるけんどー』でお世話になった」

「あ、ああ。あのときの……」

 言われて、浜野さんのことを思い出す。

 ラフな格好の中年男性。仕事はサクサク進めるのに物腰は柔らかくて、なんならちょっと適当そうにも見えて……うん、確かに。あの人に見てもらうなら、緊張がほぐれそうな気がする。

「だからまあ、大船に乗った気でいきましょう。大丈夫です」

 と、そこで斎藤さんは声のトーンをグッと落とし、

「……紫苑本人も、死ぬほど失敗してきたんですから」

「そ、そうなんですか……?」

「ええ。何度あの子が大泣きするのを慰めたかわからないですよ」

「へえ……」

 紫苑の大泣き。ちょっとそれは、どんな感じか思い浮かばなかった。

 でも、紫苑でさえ泣いちゃうんだ、失敗すると……。

 なら、わたしはどうなるんだろう? 一撃で、再起不能になっちゃうんじゃ……?

「──香家佐紫苑さーん」

「はいっ!」

 そんなタイミングで──スタジオから名前を呼ばれた。

「こちらへお願いしまーす」

「はい! よろしくお願いします!」

 弾かれるように、その場に立ち上がる。

 椅子がゴゴゴ、っと音を立て、わたしは慌てる。

 しまった、動揺しすぎてる! もっと自信満々で、あの子らしくいかないと!

 大きく深呼吸すると、胸を張る。頭の上から一本の線でピンと引っ張られる感覚。

 顔には朗らかな笑みを浮かべ、一つ斎藤さんにうなずいたら……、

「じゃあ……いってきます!」

「ええ、頑張って」

 わたしは案内に続いてスタジオに向かった。

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