第三話 【透明少女】(4)

   *


「──ようこそ我が家へ!」

「お、お邪魔します……」

 カフェを出た一時間後。

 わたしはJR新宿駅から数駅ほどの街にある──紫苑の自宅にお邪魔していた。

「お、おおお……」

 玄関で靴を脱ぎながら、思わずキョロキョロしてしまう。

「ここが、紫苑の家……」

「何キョドってるの」

 そんなわたしを振り返り、紫苑が面白そうに笑った。

「別に普通でしょ、この辺は」

「全然普通じゃないよ!」

 そんな彼女に、わたしは手に汗握り言い返した。

「だって、高校生で一人暮らし……しかも、こんな立派な家に!」

 ──駅から歩くこと、十分ほど。

 紫苑が連れてきてくれたマンションは──見るからに立派だった。

 見た感じ七階建てくらい。

 築年数も浅そうな洒落た外見のマンション。

 佇まいにも設備にも高級感が溢れていて、「さすが有名人の家」と驚いてしまった。

「ていうか、紫苑は実家どこにあるの? 一人で住むってことは、地方とか?」

「ううん。千葉の流山。でも、移動時間がもったいないから一人でこっちに越してきた」

「引っ越し理由もストイック……」

 そんなことを言いながら、リビングに続く廊下を歩く。

 周囲をキョロキョロ見回しつつ、紫苑の部屋、きっとお洒落なんだろうなーと思う。

 こだわりの強い彼女のことだ、インテリアや家具なんかにもセンスを発揮しまくって、めちゃくちゃかわいい部屋に住んでいそう……。

「てことで、ここがリビングだよー」

「……お、おお!」

 考えるうちに、紫苑が扉を開けてくれる。

 そして、目の前に広がった光景に。

 ちょっと意外な雰囲気のそれに、わたしはもう一度声を上げた。

「これが、声優さんの部屋……」

 ──紙が多い。

 まず、そんな第一印象だった。

 本棚に詰まっている漫画や小説、出演したであろうアニメの台本たち。

 お洒落ではあるんだけど、むしろ仕事の匂いをはっきりと感じる部屋だった。

 キャビネットの上にも本立てが置かれ、資料や何かの紙束がどっさり並んでいる。

 家具の中だけでは足りなかったらしい。ついには床にまで段ボール箱が置かれ、そこからはみ出そうな枚数の台本が収められていた。

 ちらりと見えたタイトルは、わたしも聞いたことのあるスマホゲームのものだった。

 広いその空間には、他にもお仕事の関連グッズが目に入る。

 壁に貼られた色紙たちは、出演した作品の原作者さんが描いてくれたものらしい。

 いくつかにはご本人による紫苑の似顔絵が描かれていて、絵柄ごとに色んな表情をした紫苑がいて面白い。

 さらに、

「で、ここが我が家の録音ブースです」

「お、ほほーう!」

 言いながら、紫苑がクローゼットを開けた先。

 そこにあった空間に──子供みたいなわくわく感を覚えてしまった。

「すごい、ちょっとしたスタジオだ!」

 壁面に張られた、でこぼこの吸音材。

 スタンドに据え付けられた、丸くてちょっとかわいいマイク。

 そのコードはクローゼットから外に続き、デスクのパソコンに繋がれている。

 ──秘密基地。

 幼い頃段ボールで作った秘密基地を思わせる、ときめく空間がそこにあった。

「わたし、テープの音源も妥協したくなくてさー」

 パソコンを立ち上げながら、紫苑が言う。

「録音からノイズ取りまで、全部やっちゃって提出するようにしてるの。だから今日、良菜も録ってみよう」

 そして、彼女はこっちを向き、

「今日まで経験したこと、考えたことを、まずは一回芝居にしてみよう」

「……うん! わかった!」

 ──テープオーディション。

 思ったよりもずっと早くその機会が来たことに、ドキリとしながらうなずいた。

「はい、これがやってほしい台本で」

 わたしの緊張に気付いているのかいないのか。紫苑は傍らの紙数枚をこちらに渡す。

「で、こっちが原作漫画。『その女、転生者につき』ってタイトルなんだけど、極道の組長の娘が異世界に転生して、ギルドを育てていくって話だね」

「へえ、面白そう」

「今回演じる役は、主役のいちじよういんかん。これ、この子。黒髪ロングで和風美人で、気っぷの良い姐御肌。ただ、本気で成熟してるわけじゃないから初々しい感じ。広島出身で基本的には標準語でしゃべるんだけど、ゴブリンとか相手に啖呵を切るときは関西弁になる」

「なる、ほど……」

 ドキドキしたまま、しばし原作を読んでみる。

 一条院栞奈は関西では名の知られた極道、一条院組の組長の娘だ。

 十七歳、女子高生。素性を隠して神戸の学校に通いつつ、いつか父親のような義侠心溢れる極道になりたいと思っていた。

 そんなある日、彼女は抗争相手の鉄砲玉が運転するトラックに轢かれ、異世界転生。あちらの世界で自分のギルドを作って魔族に抗争をしかける、という話らしい。

 演じるのは第一巻の終盤。魔王軍幹部のアジトにカチコミをかけ、ゴブリンに啖呵を切るシーンだ。

 ──そこまで読んで。

 作品の概要とキャラを理解して──、

「……なんか、わかったかも」

 思わず、そうこぼした。

「このキャラ……紫苑ならどう演じるか、わかったかもしれない」

 ──頭の中で、紫苑が芝居をしていた。

 目の前にあるセリフ、キャラ、作品の概要。

 それを全て踏まえてみたときに──イメージができた。

 紫苑がどんな芝居をするか、どんな風に『一条院栞奈』を演じるか。

 そんなわたしに──紫苑はにーっと笑みを浮かべる。

 そして、手早くパソコンを操作し、音楽作成ソフトみたいなものを立ち上げると、

「じゃあ、さっそく録ってみよう」

 あくまで落ち着いた声で、わたしにそう言った。

「失敗してもいいから、録音して聞いてみようか」

「うん……わかった」

 うなずいて、わたしはクローゼットの中に入る。

 紫苑がマイクの高さを調節して、わたしの口元に合わせてくれる。

「気を付けることは一杯あるけど、まずは最初から通してね。いくらでも録り直せるし」

「おーけー」

「はい、いつでも始めていいよ」

 紫苑がマウスをクリックし、音楽制作ソフトが録音を始める。

 それを確認してからわたしは頭の中の紫苑、その芝居を思い浮かべ──演技を始める。

 まずは、栞奈がゴブリンに啖呵を切るセリフ。


「決着つけましょうや、ゴブリンはん。こうなったらタマ取り合うほかあらしまへん!」


 次に、ギルドの仲間が傷つき、そこに駆け寄るシーン。


「サブぅー! あんた……あんた、なんであたいをかばったりなんか……もう誰も、回復魔術は使えないんだよ!?」


 次に、幹部を倒し、朝焼けの中街に帰るシーン。


「全く……こっちの朝日も哀しい色だね。呉の港から見るのと、同じ赤だ──」


「──ふんふん、オッケー」

 そんな風にして一通りセリフを録り終え。

 ソフトの録音を止めると、紫苑がディスプレイから顔を上げる。

「えらいね、ちゃんと最後までやりきれた」

「……いや、でもダメだなあ」

 そう返しながら、わたしは悔しさに唇を噛む。

「頭の中の紫苑は、もっと上手にお芝居をしてたんだけど……全然わたしの舌が、追いついてくれなかった」

 滑舌も発声もニュアンスの表現も、全く思っていた通りにならなかった。

 養成所に通い始めてちょっと経つけれど、その程度の実力じゃ紫苑に到底追いつけなかった。芝居のイメージができている分、それを形にできないのがもどかしい。

「それに、単純に噛んだ部分もあったし、関西弁もイントネーション変だったと思う。お芝居の解釈も、もう少し考え直したいかも」

「おっけー。じゃあさっそく、確認していこうか」

 どこかうれしそうにうなずき、音声を再生する紫苑。

 流れ出す、拙いわたしのお芝居。反省点は無限に見つかって、


「──ここ、ちょっと吹いちゃってる。口とマイクの位置気を付けて」

「──わかった、意識する」


「──んー、滑舌甘いね。焦らなくていいよ」

「──イ段が続くと厳しいなー」


「──この部分、感情違うかも。哀しいって言ってるけど口調は多分違って」

「──ああ、ちょっと笑ってる感じみたいな?」


 やるべきことは無限に増えて、思考リソースを一気に持っていかれる。

 イ段、感情、と赤ペンで台本に書き込み、口の中でセリフを小さく転がす。

 このあとの録り直しも、なかなか大変になりそうだ……。

 そんなことを考えていると、

「……良菜の芝居、ちょっとみつむねさんに似てるね」

 ふいに紫苑が、音声を聞きながらそうこぼした。

「ん? 三棟さん?」

「知らないかな? 声優の三棟たまさん」

「あ、ああ! あの三棟さんか!」

 三棟珠さん。若手女性としては、間違いなく日本一の声優だ。

 年齢は二十代後半。超人気作や社会現象アニメに何度も主演で参加。

 人間国宝級アニメ監督にも信頼されている、超実力派。

 わたしでさえ以前から名前は知っていたし、出演作もいくつか見たことがあった。

「わたし、あの人の大ファンでさあ……」

 目を細め、紫苑は言う。

「昔同じ事務所だったからよくお世話になったけど。別世界の天才だよ、あの人は……」

「……そうなんだ」

 ──別世界の天才。この紫苑でさえ、そんな風に賞賛する人。

 当たり前みたいに出演アニメを見てきたけど、そこまですごい役者さんだったんだ。

「三棟さん、ときどきすごく透き通った芝居をするのね。素直で綺麗で、水みたいなお芝居」

「へえ、水みたい、か……」

 出演アニメを二、三思い浮かべて、そのお芝居を思い出す。

「変な癖がないっていうか、何でもできるみたいな?」

「だね。良菜の芝居も……それにちょっと似てるかも。無色透明、っていうか。単調ではないけど、余計な味付けがないところが」

「……『無色透明』」

 その言葉が、妙に頭に残った。

 色がない。透き通っている。けれど、確かにそこに存在するお芝居。

「逆にわたしの芝居って、色がめちゃくちゃ濃いから」

 困ったように笑って、紫苑は続ける。

「上の世代っぽいというか、良くも悪くも自分の芝居を貫いちゃうというか。だから……うらやましい。これは声優として武器になりそう」

 その言葉に──目が覚めたような感覚がある。

 確かに、わたしは透明な存在だったと思う。

 目立たないし目を惹かないし、相手の記憶にも残らない。地味で幽霊みたいな女の子。

 けれど──そんなわたしの特徴が、武器になるかもしれない。

 地味さが声優としての強みになるかもしれない──。

「……まあ」

 と、紫苑はこちらを向き表情を崩すと、

「良菜はこれからわたしの芝居をするわけで、あんまり透明さは使えないんだけどねー」

「えー、せっかく褒められたのに!」

「その代わり、徹底的にわたしの色に染めてあげる! 他の女に染まらないように!」

「……何それ」

 その言葉に。紫苑の変な物言いに、わたしも思わず笑い返したのでした。

「だからそれ、彼氏に言うヤツじゃん」


   *


 ──その日から、テープオーディションに繰り返し参加する日々が続いた。

 紫苑の家で音声を吹き込み、彼女の仕事に立ち会い、残りの時間でお芝居の練習を続ける毎日。

 養成所での、週一の稽古も続いている。

 新宿の地下にあるスタジオ。

 そこに二十人ほどの生徒が集まって、芝居の基礎から声優業をたたき込まれる時間。

 発声練習にセリフ読み。芝居に必要な身体作りやキャラ把握。

 少し慣れてきた最近は、アフレコの実習やマイクワークの練習も。

 優しくて厳しい講師の先生に、みっちり鍛えられていった──。

 そして──数週間後。

「──受かりましたよ」

 いつものように、現場に向かう車の中。

 斎藤さんが、ちょっとかしこまった様子で言う。

「山田さんが、この間テープを送ったアニメのオーディション。『スパチャしないで武威沼くん』。受かったので、次はスタジオオーディションに来てほしいと連絡がありました」

「……へ?」

「おーやったじゃーん、良菜」

 隣に座っていた紫苑が、軽い口調でそう言う。

「テープ初突破だね。これで、次のオーディション受かったら出演が決まるよ!」

「……え、スタジオ……? 出演……?」

 二人の言葉に、マヌケにそう返すわたし。

 けれど……短い間を置いて現実を理解して。

 テープオーディション突破という事実を前にして、

「……お。おおおおお〜」

 緊張とも喜びともつかない声を、わたしは上げてしまったのでした。

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