第二話 【わたしオルタナティブ】(4)

   *


 その晩。仕事が終わったあとの自室で。

 わたしはひたすら『筆魂!』第十二話を繰り返しチェックし続けていた。

 まずは課題に出されたセリフ。

 そこで紫苑がどんなお芝居をしているのか把握しなくちゃいけない。


『──筆を信じろ、墨を信じろ、仲間を信じろ。全ては、この瞬間のためにあったんだ!』


 そのセリフを、何度もループして再生する。

 気付いたことを全てガリガリメモに書き出し、自分でも真似をしてみる。

 子音のかすれや喉の震え、その全てを覚えてしまうほどに延々と。

 けれど──、

「なんか足りないなあ……」

 録音した自分の芝居を聞きながら、わたしは首をひねった。

 どうしても、紫苑と同じにならない。

 表面だけ取り繕った、心のこもっていないセリフに聞こえてしまう。


『──筆を信じろ! 墨を信じろ! 仲間を信じろ! 全ては、この瞬間のためにあったんだ!』


「なんでだろ、何が違うんだろう……」

 腕を組み考える。薄っぺらい、ウソっぽい、迫力がない。

 これじゃ、紫苑の芝居とはあまりにもかけ離れている。

 わたしと紫苑の違いは、一体何だろう。

「──良菜ー!」

 リビングから、お母さんがわたしを呼ぶ声が聞こえた。

「お風呂空いたから、早めに入っちゃうのよー!」

「うん。あとでー」

「あんまり夜ふかししないようにねー」

「わかってるー」

 そんな風に返しながらも……頭の中はお芝居で一杯だ。

 与えられた期間は一週間。しかも、アフレコ後の夜しか自由な時間はない。

 一秒だって無駄にできないし、立ち止まっていてもしょうがない。

「こうなったら!」

 自室のパソコンの前、わたしは椅子に座り直す。

「やれること全部、やってみるまでだ!」

 そしてわたしは大きく息を吸い、できることを手当たり次第試し始めた──。


   *


「──ということで、一週間経ったわけですが」

 翌週、アフレコのあとに訪れたラジオ局。紫苑のレギュラー番組の控え室で。

 打ち合わせが終わり収録開始を待つ間に──紫苑がそう切り出した。

「良菜、テストしてみようか。例のセリフ、言ってみよう」

「う、うん……」

 挑むような表情の紫苑に、緊張気味にうなずき返した。

 今日までの七日間で、思い付くことは全部やってきた。

 今のわたしにやれることは、全てやりつくせたと思う。

 だからそれを、紫苑がOKしてくれるか。合格のラインを越えているかどうか……。

 おずおずと立ち上がり、一度大きく深呼吸する。

 慣れない場所でセリフを言うのは、どうにもやりづらい。

 それでも──今は贅沢なんて言っていられない。思いっきりやるしかない。

「……もう、言っていいの?」

「うん、いいよ」

「……合図とかはなし?」

「良菜の好きなタイミングでお願い」

「わかった。いきます……」

 前置きすると、わたしは息を短く吸い込む。

 そして、ぎゅっと拳を握り覚悟を決めて、


「──筆を信じろ、墨を信じろ、仲間を信じろ! 全ては……この瞬間のためにあったんだ!」


 言い切ると──声が短く反響した。

 その響きがあっという間に溶けて、会議室に静けさが降りる。

 息を止め、紫苑の顔色を窺った。

 どう……だっただろう。

 わたしのお芝居、紫苑そっくりにできていたかな……。

 そして、無限みたいな数秒のあと、

「……ん〜……」

 彼女が上げたのは──渋いうなり声だった。

「まあ〜悪くはない、悪くないんだけどねえ……」

 腕を組み、苦悶の表情を浮かべている紫苑。

 無理に言葉を選んでいるような、予想外の展開に苦しんでるような顔……。

 ……え、ちょ! ダメだった!?

 今のセリフ読み、あんまりだった!?

 紫苑がそんな顔するの、初めて見るんだけど! ど、どど、どうしよう!

「ちょ、ちょっと待って!」

 わたしは慌てて声を上げた。

「い、今のなし! ちょっと失敗した!」

「ん? そうなの?」

「うん! わたし、家では別の感じで練習してたから……そうだ、ここでもその流れでやりたいんだけど、いい!?」

「ああ、ならいいよ、やりやすい感じでやってもらって」

「ありがと。じゃあ、えっと……」

 咳払いして、喉の調子を整える。

 こうなったら、もうなりふりを構っていられない。

 紫苑の想定とは違う感じになるだろうけど、自分の思うようにやるしかない!

 わたしはもう一度息を吸い、自宅と同じ要領で──、


「──ついに、この日が来たね。第五回、書道パフォーマンス関東大会──」


「──ストップストップ!」

 秒で紫苑に止められた。

「いやいや良菜……どこからお芝居してるの!?」

「えっと、その……」

「今のは──十二話じゃなくて、十一話の冒頭でしょ?」

「う、うん……」

 紫苑の言う通り、今のセリフは十二話の一つ前。

 十一話最初のシーンで、主人公が大会会場を前につぶやくセリフだ。

「……なんで、そこから始めたの?」

 気付けば──存外真面目な顔で。

 真剣な表情で、紫苑はわたしを見ている。

「しかも、セリフ暗記までして」

「え、えっと、色々経緯があって……」

 それにやや気圧されながら、わたしは説明を始めた。

 これは多分、ちゃんと話した方が良い空気だ……。

「最初はね、言われたセリフの部分だけを練習してたんだけど……なんか上手くいかなくって。キャラの気持ちの流れがわからないし、紫苑が何をどう考えてあのお芝居をしたのかもわかんないし……」

 そのセリフに、沢山のニュアンスがこもっていることはわかった。

 それが意図的なものであるのもわかったし、複雑な感情を表現しているのもわかった。

 けれど──どうしてそんな風にしたのかがわからない。何を目指してそんなニュアンスを付けたのかが、セリフ一つではどうしても読み取り切れなかった。

「だから、ひとまず流れでお芝居しようと思って、十二話のセリフ全部の練習をしたんだ。けど、それでも足らなくて。十一話、十話、って一話ずつ遡って見て練習を繰り返してたら、気付いたら第一話までいってて……」

 結局、物語冒頭まで戻ってみる必要があった。

 主人公が、なぜ書道パフォーマンスを始めたのか。

 もともとはどんな子で、どんな風に毎日を生きてきたのか。

 そういうことを自分で演じて把握しなきゃ、紫苑のお芝居を理解できなかった。

「……全話のセリフを練習したの?」

「うん。ああでも、課題の部分に比べると全然ちゃんとはできてないよ! セリフ覚えるほど練習したのは、十二話と十一話だけで……」

「やった練習は、それで全部?」

「あとは……原作読んだり。紫苑が担当した似た系統のキャラもチェックしたかな。解釈の違いを知りたくて、四シリーズくらい見て、そっちの練習もして……」

「似た系統のキャラ。なるほど」

「だから今日も、覚えてる流れ全部お芝居すれば、紫苑もOKしてくれるかなと……」

「そっか、そういうことか」

 腕を組み、考える表情になる紫苑。

 けれど、彼女は壁にかけられた時計を見上げ、

「んーでも、ごめん。それじゃこのあとの収録に間に合わない。三十分後に始まるから」

「あ、そ、そうか! そうだよね!」

「だから──」

 と、紫苑は椅子から立ち上がり、

「──わたしが手伝うよ」

「……ん?」

 唐突な展開に、わたしは首をかしげた。

「課題のセリフの直前。確か、主人公のチームメンバーのモノローグがあったでしょ。『行け! 走れ! 今ここで、魂の全てをぶつけてこい!』だっけ?」

「……ああ、あったね、そういうセリフ」

 言われて、十二話の展開を思い出す。

 紫苑の言う通り、仲間のメガネ男子のモノローグがあったはず。

「あれをわたしが言うよ。本気のお芝居でそれをやるから、良菜はそれに続いて。気持ちの流れは、そこでなんとか作って」

「な、なるほど!」

 紫苑に続いて、芝居をする。

 この子が作った気持ちの流れに乗って、セリフを言う。

 確かにそれなら、さっきよりもお芝居に感情を乗せやすそうだ。

 それに、

「……わかった」

 唾を飲み込み、けれどわたしはこくりとうなずいた。

「やってみる」

 面白そうだと、思ってしまった。

 これまでひたすら一人で紫苑の芝居を聞き、一人でその真似をしてきた。

 気持ちの流れを作るのも、声のトーンを調整するのも一人。

 相手をしてくれるのは、画面の向こうの音声収録済みのキャラだけだった。

 けれど──誰かと一緒に芝居をする。それも、紫苑本人と。

 それはどうしようもなく楽しそうで、課題なんて忘れてわくわくしてしまって、

「お願いね、紫苑」

「うん、任せな」

 うなずくと、紫苑は小さくうつむく。

 そして、顔を上げ短く息を吸い、


「──行け! 走れ! 今ここで、魂の全てをぶつけてこい!」

「──筆を信じろ、墨を信じろ、仲間を信じろ。全ては、この瞬間のためにあったんだ!」


 ──できた。

 はっきりと、そんな感覚があった。

 理想を掴んだ手応え。イメージに近い芝居ができた。

 背筋にジンと快感が走る。紫苑が、わたしにそんな芝居をさせてくれた。

 けれど──、

「……あはははは!」

 ──笑い出した。

 紫苑がお腹を抱え、その目に涙まで浮かべて笑い始めた。

「え、ど、どうだったの!?」

 そんな彼女に、恐る恐るわたしは尋ねた。

「わたしの芝居……良かった?」

「いや微妙!」

「ええ!?」

「さっきとそこまで変わらなかったよ、一人のお芝居のときと! イントネーションとか発音とかキャラの解釈とか、色々粗かった」

「そ、そんな……」

 全身から力が抜けていく。

 ダメ……だったの? 課題、クリアならず?

「というわけで──」

 落ち込むわたしに、紫苑は椅子に腰掛けると、

「──合格ね!」

「……は?」

「テストは合格です、次の段階にいこう!」

「ど、どういうこと?」

 話の流れがわからなくて、思考がフリーズする。

「合格? なんで……?」

「えー、だってちゃんと、課題をクリアしてくれたんだもん!」

「で、でも。わたしの芝居、微妙だったって……」

「うん、微妙だった。まだ商品にならないし、基礎が全然できてないね」

 容赦ない口調で、はっきりと言い切る紫苑。

 それはそれで、わたしはまあまあダメージを受けてしまう。

「でも今回の課題は、芝居をできるようになることじゃないよ。目標はあくまで『わたしの音を覚える』こと。そういう癖をつけること。それでね」

 と、紫苑はうれしそうに頬杖をつき、

「本当は……そこまでやるなんて思ってなかったの。具体的に言えば、十二話だけじゃなくてシリーズ全部見てくれればいいかなって。セリフを聞き込んで、わたしが一シリーズ通してどんな音を出したのかを探ってくれれば、合格かなって思ってた」

「そ、そうだったの……!?」

「だよー。アフレコの立ち会いもあるし、期限もすぐだし。なのに……」

 と、紫苑はにーっと唇を持ち上げ、

「まさか、全話見て原作も読んで、そのうえセリフも覚えた? 他のアニメまで見たの? 四シリーズも? あはははははは!」

 もう一度、酷く楽しげに笑う。

「良菜、根性ありすぎでしょ!」

 思わず、椅子に崩れ落ち深く息を吐いた。

 よかった……そんな風に言ってもらえるなら、本当によかった……。

 今日までの頑張りをこれからも繰り返すなんて、さすがにもう無理だった……。

「ていうか、そこまでやったなら絶対ちゃんと寝れなかったよね?」

「うん、正直ね……」

「どれくらい?」

「平均四時間とか?」

「やば! でも、そんな無茶はもうしちゃダメだよ。睡眠不足は役者の敵!」

「わかった……」

 そうだよね、紫苑ちょっと前にそんなこと言ってたよね。

 うっかり流れで夜ふかししちゃったけど、今後は気を付けよう。

 正直今も、かなり眠いし……。

「ちなみに、音を覚えるのは今後も意識し続けてね。アニメ見るときとかこうして話すときに、ちょこちょこ考えてみるといいと思う。そのうえで──次のステップに移ろう!」

「……うん!」

 うなずくと、身体にわだかまっていた疲れがかすかに抜けていった気がする。

 眠気が晴れて、意識がはっきりする。

 この調子で、どんどん訓練を積んでいきたい。

 もっともっと、お芝居がしたい。上手くなりたいと思う。

「で、まずは養成所に入所させてもらおうかー」

「ああ、養成所」

 その名前は、もちろんわたしも知っていた。

「声優事務所とかがやってる、『声優専門の教室』みたいなのだよね?」

「そう、そこでお芝居の基礎から実技の練習まで、みっちり教え込んでもらうの」

「そっか、うん……やりたい。お芝居、教わりたい」

 セリフの練習をしてみて、芝居の基礎不足をはっきりと体感した。

 滑舌も発声も喉の使い方も、全くわからない。

 本でも読んで自主練しようかなと思っていたけど、誰かに教われるならその方がずっとありがたい。

「おけー。そっちは色々手配しておくね。それからもう一つ。とっても大事なミッションがあってね……」

 そう言うと、なぜか紫苑はこちらにグッと身を寄せる。

 そして、にまーと不敵な笑みを浮かべ、

「──デート、しよう」

 囁くように──そう言った。

 普段よりもずっと低い声。イケメンボイス……いわゆるイケボで。

「へっ……?」

 デ、デート……!? 急に何!?

 そんなこと言われたの初めてなんだけど!

 しかもそんな、かっこいい声で……!

 わたしの動揺に気付いたのか、紫苑はさらにわたしに密着。

 耳元で、さっきよりも妖艶さを増した声で、

「良菜……俺と、デートしてほしい」

「……ッ~~~~ッッッ~~~~ッッ!」

 至近距離のその声に。唐突に始まった紫苑ASMRに。

 わたしは思わず、声にならない叫びを上げてしまったのでした。

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