第二話 【わたしオルタナティブ】(3)
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「──で、仕事の流れがわかったとこで、お芝居の話をしていこうか」
「はい……お願いします!」
スタジオ見学の数日後。今日は十六時からの収録もなし。
わたしたち三人は、事務所の会議室に集まっていた。
なお、斎藤さんは何やら忙しそうにパソコンで仕事中。
お芝居については、香家佐さんにマンツーマンで教えてもらうことになりそうだ。
「ここからが本題だねー」
「ですね……」
ノートを前にペンをぎゅっと握り、わたしは唾を飲み込む。
声優のお芝居。わたしと香家佐さんの入れ替わりの、最重要ポイントにして最難関。
これまで以上に、気合いを入れて臨まないと……。
「良菜も知ってると思うけど、今は女性声優って色んな仕事を求められるのね」
センスの良いデスクが並び、内装もブラウンで統一されたお洒落な会議室で。
前方のホワイトボードの前に立ち、香家佐さんが話を始める。
「歌もそうだし、ラジオもそうだし、グラビアの仕事なんかも入ってくることがあるね。だから、全方位にスキルを伸ばさなきゃいけない」
ホワイトボードに『歌』『ラジオ』『グラビア』と書き込まれる。
わたしもノートに同じ単語を並べた。
「実際、わたしも毎クール何かしら歌は歌ってるし、ソロデビューの話も結構来てたりするよ。ラジオのレギュラーもある。グラビアも最近増えたかな。声優誌の表紙とかのね」
「ふむふむ……」
その辺はもちろん事前に予習済みだった。
入れ替わってほしいと言われたあの日から、わたしは毎日香家佐さんの仕事をチェックしている。今日だって前クールで放送されたアニメ、香家佐さんの歌ったOPを聞きながらここに来た。良い曲なんだこれが。
「全部楽しいお仕事だよ。どれも大好き。ただ──」
と、香家佐さんは胸を張り、
「わたしが一番好きなのは──やっぱりお芝居だよ」
ペンで『お芝居!』と書きながらわたしに言う。
「アニメ作品に、自分のスキルでキャラの声を提供する。タレントだとかアーティストだとか、色んな見方もされるけど……何よりアニメの音響関連の一スタッフでありたいなって、わたしは思ってる」
「スタッフ、ですか」
予想外の言葉に、ペンを止めオウム返ししてしまった。
「わたしはもっとこう……創作者とか、クリエイターに近い存在なのかと思ってました」
「あー……わたしはあんまりそうは思わないかな。色んな考えはあるだろうけど」
スタッフと香家佐さんは続けて書き込み、
「アニメって、色んな人の手によって作られてるでしょう? 原作者さんがいれば原作者、監督がいて、演出がいて、それから原画や動画。脚本家の人ももちろんいるし、他にもいっぱい。そういう人たちが作り出したものに、高品質な声素材を提供する……技術職というか、職人っていう感覚かな」
「……職人、ですか」
「うん。かっこいいでしょ?」
誇らしげに笑みを浮かべる香家佐さん。
「この時代に技術で戦うの、最高にかっこいいでしょ?」
一瞬、謙遜しているのかと思った。
クリエイターではなくてスタッフ、という言い方に、謙虚な姿勢を感じかけていた。
けれど──違う。その目を見てわたしは理解する。
むしろ、その逆なんだ。
香家佐さんは、声優という仕事そのものに誇りを持っている。
技術を駆使して素材を提供するというその本質に、こだわりとプライドを持っている。
「ええ、素敵です」
思わず笑い返しながら、わたしはうなずいた。
「早くお芝居をしてみたいなって思いました」
「ふふ、いい顔するねー。というわけで。今日から良菜には、その芝居の特訓をビシバシやってもらおうと思うんだけど」
と、彼女は手に持っていたペンを置き、こちらに歩いてくる。
「何より先に、注意事項があります」
そばの椅子に腰掛けると、キャスターを利用してこちらに移動。
わたしの隣に、ピタリと身体をくっつける。
「……えっ?」
唐突なゼロ距離。
鼻をくすぐる甘い匂いと、肌の綺麗さにドキリとする。
そして──、
「……『さん』付け禁止」
──まず、彼女はそう言った。
「それから──敬語も禁止」
こちらを覗き込む、その表情。
イタズラに細められた目と、酷く楽しげな口元──。
「な、なんでですか?」
ドギマギしながら、わたしは彼女に尋ね返した。
「それって、何かお芝居に関係があるんですか……?」
「関係あるよ。ていうかさっそく敬語になってる。それ、マジで止めて」
「わ、わかった……」
「それから、わたしのことは紫苑って呼んで」
「し、紫苑ちゃん、じゃダメ?」
「ダメ。絶対呼び捨て」
「え、ええ……」
抵抗があった。めちゃくちゃ抵抗があった。
こんなすごい子に、そんな感じで接しちゃっていいの……?
わたし、クラスメイトにも敬語だったりするけど……。
けれど、紫苑の顔はあくまで本気で、冗談を言っているようには見えなくて、
「……わかった、そうする」
「うん、よろしい」
満足そうにうなずくと、紫苑はようやくわたしから少し距離を取る。
緊張感から解放されて、思わず息を深く吐いた。
「人前でも、絶対にタメ語と呼び捨てを貫いてね。立場がバイトとか、そういうのは気にしなくていいから」
「わかった……」
そこまで言うなら、気を付けよう。
紫苑は多分、「無駄な努力」や「不要な苦労」をさせるタイプじゃない。
これもきっと意味のあることだ。
注意しなきゃ。紫苑にはタメ口、紫苑は呼び捨て……。
ノートにも、動揺でふらふらの文字でそう書き込んだ。
「でー次に」
ホワイトボード前に戻り、紫苑が話を再開する。
「具体的にどうやって良菜が『お芝居』できるようになっていくかだ」
「うん」
そう、それが今日の本題だ。どうやってわたしが練習をしていくか。
どうすれば、たった半年でプロの役者として戦えるようになるのか。
さらに言えば、わたしは「上手いお芝居」ができるだけじゃダメで、
「今回は、特別メニューが必要になるよね」
いれかわり、と紫苑がボードに書き込む。
「ただ声優になるだけじゃなくて、わたしと入れ替わらなきゃいけないんだから。完璧に、わたしと同じお芝居ができる必要がある」
「だよねえ……」
そのハードルが、とにかく高かった。
ただ演じられるようになるだけじゃなく『紫苑と同じ』じゃなきゃいけない。
『紫苑と同じお芝居』ができなくちゃいけない。
正直──かなりのスパルタになることを覚悟している。
紫苑は確か、中学生のときに受けた新人女優のオーディションをきっかけにして芝居の世界に足を踏み入れた。その後、声優に転向したり事務所を移籍したりと色々あったけれど、役者としてはもう六年近く。声優業だけで考えても三年はプロとしてやっている。
そんな彼女に追いつくなら、猛特訓が必要になるはず。
「何をすればいいのかな? 紫苑がしてきたのと、全く同じ練習とか?」
「それなんだけどね。今回、こちらで課題を用意してきました」
そう言って、紫苑は鞄から何かを取り出す。
「まずやるべきことは、とってもシンプルだよ」
見れば──ブルーレイディスクだ。
紫苑が主人公を担当した、文化系スポ根アニメ『
弱小書道部部員が、全国大会に出場するまでを描いた物語──。
「わたし、このアニメの十二話。書道パフォーマンスの関東大会で、こんなセリフを言ってるのね」
そう前置きして、紫苑は咳払いすると短く息を吸い──、
「──筆を信じろ、墨を信じろ、仲間を信じろ。全ては、この瞬間のためにあったんだ!」
──瞬間で、圧倒された。
声にこもった気迫、熱量。言葉全てがしっかり胸に届く、明瞭な存在感。
普段は軽やかなその表情まで──その一瞬はすさまじい迫力を放っていた。
「このセリフを、完璧に言えるようになって」
そして、紫苑はわたしにそう言う。
「発音もイントネーションも呼吸も、全く同じに言えるように」
「全く、同じに……」
「つまり、わたしの音を覚えてほしいんだ」
呆けたように繰り返すわたしに、紫苑はそう続ける。
「呼吸も、声も、ノイズも全部。音にはわたしの世界の全部が詰まってるから、まずはそれを知ってほしい。家族よりも、友達よりも深いところまで理解してほしいの」
「……何、その言い方」
ちょっと我に返って、わたしは小さく笑った。
「彼氏に言うヤツじゃん、それ」
「あははー、確かに! でも、入れ替わりなんて彼氏以上に知ってもらわなきゃできないでしょ! 香家佐紫苑本人として振る舞ってもらうんだから」
「……それは、そうかも」
確かに、紫苑の言う通りだ。
紫苑そのものになるなら、恋人くらいの距離感じゃ足りない。
家族以上に、双子みたいに彼女のことを理解しなきゃいけない。
そこでようやく、わたしは紫苑が『敬語』を禁止にした理由を理解する。
そっか……そんな風に、心の壁を作ってるような場合じゃないんだ、わたしたちは。
「だから、まずは一週間。それだけ時間あげるから、色々試してみて! ブルーレイとかDVDとか、必要があれば全部貸すよ!」
「わかった。音を覚える、か」
つぶやいて、紫苑の音に耳を澄ましてみる。
かすかに聞こえる呼吸音。時折混じる衣擦れの音。
「あはは、ガン見じゃーん」と笑う声のトーン。
その響きは確かに、わたしの声と似ているんだろうけれど、
「セリフを、わたしも……」
そうつぶやいてみて、改めて『違い』を実感する。
紫苑とわたしの声の聞こえ方は全く違う。その差を見つけて、埋めてみる作業。
それは確かに──やりがいがありそうだ。
「大丈夫そうだね」
満足げにそう言って、紫苑はうなずいた。
「ということで、まずは第一歩から始めよう。結果が見えてきたら次のステップにいくから、頑張って!」
「うん……わかった!」
──こうして。
まずは『音を覚える』ことから、わたしの奇妙なお芝居修業が始まったのでした。