第二話 【わたしオルタナティブ】(1)
授業が全て終わり、放課後。
わたしは一人、こっそりと学校を出る。
小走りで正門から続く大通りを駆け抜け、人気の少なくなったところで狭い路地に曲がる。そこには約束の通り、ホワイトパールのワンボックスカーが停められていて、
「──良菜、お疲れ」
ドアが開き、香家佐さんが顔を出した。
「お、お疲れ様です!」
「人来そうだし、早く乗っちゃって」
「は、はい!」
言われた通り、そそくさとその車に乗り込んだ。
彼女の隣に座りベルトを締め、ふうと息を吐く。
運転席では、マネージャーである斎藤円さんがハンドルを握っていて、
「じゃあ、スタジオに向かいます」
その言葉と同時に、車は走り出した。
うなりを上げるエンジン。車窓の向こうで流れ出す景色。
座席の振動に揺られながら、
「さーて、入れ替わり準備の初日!」
香家佐さんは歌うような声で、どこか楽しげにこう言ったのでした。
「皆さん、張り切っていきましょー!」
*
「──わたしと、入れ替わってくれない?」
「──良菜。わたしの代わりに、『香家佐紫苑』になってくれない?」
先日。香家佐さんにされたそんなお願い。
そのあまりにむちゃくちゃな提案に、
「……どういうことですか?」
まずはぽかんとしてしまった。
「入れ替わる……? ちょっと、よくわからないんですけど」
「簡単だよー」
歌うような口調で、香家佐さんは続ける。
「今後わたしの代わりに、香家佐紫苑として活動してほしいの。収録とかイベントとかラジオとか全部、誰にも気付かれないように良菜にやってもらいたいなって。つまり、二代目香家佐紫苑だね」
「無理に決まってるでしょう!」
当然、そう叫び返した。
「無茶ですって、わたし……ただの素人なのに!」
言いながら、具体的に想像して足がガクガク震えてしまった。
短い時間だけど経験したアフレコブースの空気。
あの中で他の声優さんに交じって「咳払い」以上のお芝居をする。
しかもそれが、香家佐さんの代わりになんて。そのうえ、イベントやラジオまでなんて……どう考えたって不可能だ。
「……ていうか、冗談ですよね?」
縋るような気持ちで、わたしは尋ねた。
「本気で入れ替われるなんて、思ってないですよね?」
「いや、本気だけど。本気でやってほしいと思ってるけど」
「ええ……」
「もちろん急にとは言わないよ。一年くらいかけて、じっくり準備しながらかなーって」
「た、たったの一年……そもそも!」
テンパりながら、しどろもどろで食い下がる。
「なんで入れ替わりなんて? 香家佐さん、大人気ですし今後も期待されてますよね? なのに、どうしてそんなことを……」
きっと、声優になりたい若者なんて山ほどいるだろう。
その夢を掴めるのは選ばれた少数だけ。香家佐さんはその「少数」の筆頭格なわけで。それをこんな風にして手放そうとしている理由がわからない。
「あーそれね」
椅子の背もたれに体重を預け、香家佐さんは笑う。
「実はわたしさー、起業してみたくなって!」
「き、起業ですか……?」
「うん。アプリ開発とかの、ソフトウェア関連の会社」
「は、はあ……」
「デビューから三年声優の仕事をやってきて、結構色んなことが見えてきたのね」
傍らのキャリーケースに目をやりながら、香家佐さんは言う。
蓋が開けられたままのそこには、北海道で出演しただろうイベントの資料や、わたしが代わりにアフレコした『ゆるけんどー』第十話の台本が覗いている。
「業界のことも、市場のことも、お芝居のことも、なんとなくわかってきた。全部奥が深くて面白いし、極めるなんてまだまだ先の話だけど……勝手がわかったっていうか。戦い方がわかった感じがあるの」
「なる、ほど……」
「そうなると、新しいことやってみたくなるんだよねー」
香家佐さんは、どこか退屈そうに口を尖らせた。
「今まで勉強したのとは、全く違う何かをね。それで起業してみたいなって。ほら、役者と全然違う世界が広がってそうでしょ? 実は、お芝居始める前には社長になりたいって思ってたし、それが一番わくわくする気がして」
「そう、ですか……」
恥ずかしげもなく胸を張る香家佐さん。
そのあまりのパワフルさに、なんだか毒気を抜かれてしまった。
どれだけタフなんだろう。ここまでの成功を掴んでおいて、さらに新たな挑戦をしようとするなんて。なんとなくで毎日を過ごしているわたしには、想像もつかないバイタリティだった。
「だから、引退したいって話をちょっと前からしてるんだけど、斎藤さんがOKしてくれなくて」
「当たり前でしょう」
話を向けられ、斎藤さんは呆れたような声で言う。
「もちろん、わたしだって紫苑のやりたいことなら協力したいと思います。デビューから三年一緒にいて、仕事仲間以上の関係だと思ってますから。場合によっては、引退だって受け入れます」
そこで、斎藤さんはふっと息を吐き、
「でも……それはあくまで、声優をきちんと突き詰めてからです。紫苑には、まだまだやれることややってほしいことがある。今のままでは中途半端すぎます」
その意見に大賛成だった。
すでに大人気とは言え、香家佐さんはまだまだ若手なんだ。
伸びしろはいくらでも残されているんだろうし、期待もされているはず。
「それから……正直に言えば、事務所の側の都合もあります」
続ける斎藤さんの口調が、ちょっと申し訳なげになる。
「プロダクションモモンガは、新興の小さな芸能系事務所です。所属声優の数は多くないですし、紫苑が屋台骨なのが事実。抜けられてしまうと、会社は倒産の可能性があります……」
「そうそう。それはわたしも嫌でさー」
香家佐さんが、口をへの字にした。
「やり残したこととかそういうのは、まあいいんだけど。わたしもモモンガにはすごくお世話になったし、迷惑かけたくないの。潰れちゃったりしたらマジで悲しい。てことで」
と、彼女はこちらに身を乗り出して、
「二代目の香家佐紫苑を用意できれば、万事解決ってわけ!」
「いやいや、解決じゃないでしょう」
「だから良菜ー、お願い! 楽しいし、まあまあ稼げるよ!」
「そんなに軽く言うことじゃないでしょ! ほら、山田さんも困ってるじゃない」
言い合っている、香家佐さんと斎藤さん。
……確かに困っていた、完全に困り果てていた。
声や顔は似ていたかもしれないけれど、あんまりにも中身が違いすぎるんだ。
たった一年で完全に香家佐さんと交代なんて。どう考えても無謀だ。
けれど、
「……」
胸に手を当てて、わたしは自覚する。
この手の向こうに、小さく息づく気持ちがある。
とんでもない展開にドキドキするわたしの中に、それでも確かにある期待。
「ああ、さっきと同じだなあ……」
思わず、そうこぼしてしまう。
「さっきと同じ?」
「ええ。アフレコの、代役を頼まれたときと同じ気持ちなんです」
尋ねる香家佐さんに、わたしは恥ずかしながらうなずいた。
「やれるとは思えないし、自信だって全然ないのに……」
うん、それは本当にその通りだ。
自分が香家佐さんの代わりになれるなんて、到底思えない。
けれど、短く口をつぐんでから──、
「……やってみたいと、ちょっと思っちゃってます」
──せっかく、こんな偶然に巡り会えたのだから。
わたしの声を、必要としてもらえたのだから。
挑戦してみたいと──わたしは思ってしまっている。
「ほらー!!」
香家佐さんが、満面の笑みで斎藤さんを向いた。
「良菜だってこう言ってるじゃん! だからやってみようよ! いきなり確定とかじゃなくていいし、まずはお試しから!」
「……んー」
「これでダメだったら、わたしも一旦引退は撤回するから! ね、お願い!」
「……はぁ」
斎藤さんは、深くため息をつく。
「全くもう。出会った頃は、ここまでめちゃくちゃ言う子だとは思ってなかった」
「でも、めちゃくちゃ言えるからここまで来れたと思ってるよ、わたしは」
「それもそうか……」
「あと、それを斎藤さんが支えてくれたから」
「ほんと、感謝してよね」
頭を短くかく斎藤さん。
そして彼女は、もう一度息を吐き出すと、
「……半年」
試験中の先生みたいな声色で、わたしたちに言った。
「半年で、わたしに『いける』と思わせてください。入れ替わり完了までは、一年でもいいです。それとは別に、半年入れ替わりの準備をして……本当に山田さんが、二代目香家佐紫苑になれるんだとわたしに思わせてください。それができれば、入れ替わりは続行。できなければ、その場で即終了。そういう条件を受け入れてもらえるなら」
斎藤さんは、諦めたように小さく笑い、
「ひとまず……しばらく一緒に頑張ってみましょうか」
「やったー!」
叫ぶように言って、香家佐さんが椅子から立ち上がった。
彼女はわたしの手を取りブンブン振ると、
「じゃあ……よろしくね、良菜! まずは半年間! わたしと入れ替われるように。プロの声優になれるように!」
「……はい!」
そして、彼女は満面の笑みを浮かべ──わたしにこう言ったのでした。
「声優の世界へようこそ!」