第一話 【アナザーワールド・アナザーガール】(6)

   *


「──ただいまー」

 香家佐紫苑さんが事務所に帰ってきたのは、午後十時少し前。

 収録が終わり夜も更けた頃のことだった。

 斎藤さんに連れてきてもらった事務所の会議室。そこで彼女から再度の謝罪と報酬の話をされ、一息ついていたわたしは──突然の華やかな声に、ビクリと身を震わせた。

 振り返ると……眩い女の子がいる。

 好奇心旺盛そうな丸い瞳。唇の描くカーブと、そこに滲む色気と自信。

 色の入った髪には遊び心と余裕が感じられるし、身のこなしは猫のようにしなやかだ。

 ──別次元だった。

 わたしとは真逆の女の子──香家佐紫苑が、そこにいた。

 彼女はわたしを見つけると、

「あー! 良菜だ!」

 名前を呼び、こちらに駆け寄ってくる。

 そのままの勢いで──なんとわたしに抱きつき、

「今日はありがとー! ほんとにほんとに助かったよ!」

「え、ええっ、えええ!?」

「死ぬほど困ってたからさー! もうマジ大好き!」

 思わぬ展開に、頭が一発でオーバーヒートした。

 だ、抱きつかれてる! わたし、香家佐さんに! すごい美人さんに!

 あああなんか良い匂いするし! い、いいの!? こんなことしてもらっちゃって!

「わ、わたしはそんな、咳払いしただけで……」

 しどろもどろで、わたしはそう返す。

「しかも、そんなに上手くできなくて、すごく時間かかっちゃいましたし……」

 他のパートの収録がうまくいったこともあって、わたしの咳払いはそこだけ個別で切り出して収録することになった。

 音響監督はもちろんその場に残ってくれた声優さんも、何度も録り直すわたしに細かくアドバイスをくれた。

「──あー、もうちょっと声の成分多い方が良いかも」

「──タイミングは大丈夫、だからトーンの方を注意してみな」

「──要は、もうちょっと声高いかなー」

 恐縮だった。わたしみたいな者に、トッププロの皆さんが意見をくださるのがとんでもなく申し訳なかった。

 何十分もかけ、ようやく及第点を出し終えたあと、

「本当にご迷惑をおかけしました! お手間をかけてしまい、すいませんでした!」

 と平身低頭して謝ると、

「いやいや、いいのいいの〜」

「にしても、マジで紫苑に声そっくりだね」

「わたしもびっくりした。代役に選ばれるわけだね」

 なんて温かい言葉までいただいてしまった。

 泣きそうになった。というかちょっと泣いた。

 だから人助けをしたというよりも、完璧に助けてもらった感覚だ。

「でもわたしはうれしかったんだよ。ありがとね」

 言って、香家佐さんはわたしから身体を離す。

 そして、椅子に座ると斎藤さんの方を向き、

「どんな感じだったの? 他のみんなは、どんな反応だった?」

「好評だったよ」

 困ったような顔で、斎藤さんは笑う。

「芝居はもちろん苦戦したけど、浜野さんも『マジでそっくりだな』だって。波形までほとんど一緒みたい」

 ──浜野さん。今日、わたしに粘り強く指示をくれた音響監督だ。

 波形まで一緒……そんなこと、言ってたんだ。

「他の演者も、最初は驚いてたけど納得してくれてた。今日の脚本内容で、この子が代役っていうのは確かにありかもって」

「ふうん」

 腕を組み、うなずく香家佐さん。

「そっか、代役もありか」

 そして彼女はふいに──わたしの方を見る。

 さらに、そのまま……じっと……わたしを見続ける。

「……え?」

 ふいに熱烈な視線に晒されて、思わず頬に手を当てた。

「な、何ですか? 何か、ついてます……?」

 まっすぐ向けられた、香家佐さんの丸い両の目。

 しっかりとメイクがされているけれどそれがよく似合っていて、眼光には鋭い威力が宿っている。

 と、彼女はふいに傍ら、さっきまで転がしていたキャリーケースに手を伸ばす。

 蓋を開けると中身を掻き回し、何やら荷物を取り出すと──、

「良菜、これ着てみて」

 ──服を。

 衣装らしき、鮮やかなワンピースをこちらに差し出した。

「ええ……え?」

 わけのわからない展開に、わたしはぽかんとしてしまう。

「着る……ここで、着替えるんですか?」

「恥ずかしかったらトイレとか行ってきてもいいよ。あと、それが終わったらメイクするから」

「メイク!?」

「化粧してたら、トイレで落としてきてもらえる?」

「ああ、えと、はい……」

 ──何がなんだかわからなかった。

 着替え? メイク? なんで……?

 でも、不思議と反発心は覚えなくて。

 香家佐さんが言うなら、やるか……みたいな気分になって。

 わたしは衣装と彼女のメイク落としを借りると、斎藤さんの案内でお手洗いへ向かったのでした。


   *


「これが、わたし……?」

「思った通りだ!」

 香家佐紫苑が──二人いた。

 会議室の小さな姿見。そこに、極彩色の女の子が二人映っていた。

「通話したときから思ってたんだよ」

 香家佐さんが、もう一人の香家佐さんを見て言う。

「良菜の顔、マジでノーメイクのわたしとそっくりだなって。声だけじゃなくて、顔の作りもうり二つじゃね? って」

「ほ、本当に……?」

「本当だって! それでも、まさかここまでばっちりハマるなんてね! どうよ? 斎藤さん」

 言って、香家佐さんは斎藤さんの方を向き。

「これだったら、マジで区別つかない人もいるんじゃない?」

「……正直、驚いてる」

 成り行きを不安げに見守っていた斎藤さんは、ため息交じりにそう答えた。

「これは、すごいな。確かにそっくり……」

 そして……は。

 香家佐紫苑の格好をし、香家佐紫苑にしか見えなくなった山田良菜は、もう一度鏡を覗き込んだ。

 ──本当に、うり二つだった。

 自信に満ちた目元と楽しげな唇。頬に淡く浮かぶ赤みと、透き通る肌。

 髪の色こそ黒髪のままだけど、セットのおかげで遊び心が付与されている。

 そんな顔周りがお洒落な衣装によく似合っていて、その格好だとなぜだか背筋まで伸びてしまって──鏡の中。そこに立っているわたしは、自分で見ても『香家佐紫苑』にしか見えなかった。

「先天的な部分が、超似てるんだろうね」

 満足げな表情のまま、本物の香家佐さんが続ける。

「顔の作りとか声とか、生まれつきの部分がわたしたち激似なんだと思う。体型とか身長も、実はかなり近いし」

「そう……みたいですね」

 ウソみたいな話だけど、こうして現物を見ると納得せざるを得ない。

 地味なわたしと極彩色の香家佐さん。

 その素材は、ほぼ同じと言っていいほどに近いものだったらしい。

 違うのは──性格だとか育ってきた環境だとか経験だとか、ほとんどが後天的なものばかり。その事実には、わたし自身心底驚いてしまう。

「やー、ほんと予想以上だ!」

 香家佐さんは、わたしを眺めご満悦の表情だ。

「これ以上は存在しないだろうねー。良菜以上に、わたしに似てる子は」

 確かに、ここまで似ている子はそういないだろう。

 喜んでもらえると、わたしとしてもまんざらではない。

 ただ、わからないこともあった。

「……なんで、こんなことを?」

 隣の香家佐さんに、恐る恐る訪ねる。

「代役は、もう終わりましたよね? なのに、なんでこんな格好を……?」

 香家佐さんは無事に東京に帰ってこられたんだ。

 もうわたしに仕事を頼む必要なんてないし、仮にまたこういう機会があるとしても、見た目まで似せてしまう必要なんてない。

 なのに、なぜわざわざこんなことを……。

「あー、それなんだけど」

 そんなわたしに、香家佐さんはにまーと笑ってみせる。

 横で斎藤さんが「あーあ……」とでも言いたげに手で顔を覆った。

 そして、香家佐さんは困惑するわたしに、


「わたしと──入れ替わってくれない?」


 そんなことを、言い出したのだった。


「良菜。わたしの代わりに、『香家佐紫苑』になってくれない?」

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