02.夜想曲~nocturne~『例えばそれは、死神と魔女が出会う話』 2
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都会の街は、路地一本違えば別世界だと誰かが言っていたっけ。
長方形に刈られた植樹帯や、中年オヤジの頭のようになってしまった桜が並ぶ校門通りを抜ければ、周囲には見上げるだけで首を痛めてしまうビルディングが針山のように立ち連なり、先ほどまでとは比べ物にならない自動車音と声が全身を包み込む。
時刻は十二時を過ぎたところ。
まだ陽の高い時間帯ということもあり、右を見ればアクロバティックに踊るストリートダンサー、左を見ればポップなアニメソングを垂れ流す家電量販店、前方を見れば笑顔を振りまきながらチラシを配るメイドたち、と。
そこは見渡す限り陽気さに溢れ、「ドロボー!」と少女の声が響く『ナノハ第五地区』の街は今日も今日とて平和の二文字がよく似合う。
「────……って、ドロボー?」
いや、前言撤回。今しがた不穏な叫びが聞こえた気がする。
声を頼りに振り返ってみれば、二十メートル先の地べたに座り込む金髪の少女と、こちらに向かって全力疾走してくるマスクの男が視界に入った。
男の手には少女のものと思われるハンドバッグが握られており、状況からしてどう見ても引ったくり現場だ。
「うーわ、こんな往来でよくやるなぁ」
その無謀さはもはや感動を覚えるレベルであり、僕は思わず足を止め見入ってしまった。
周囲の者達も同じようなもので、突然のことに唖然と視線を向けはするものの、犯人を捕まえようなんて正義感溢れる勇者は現れない。
そうこうしている内に、逃げる男との距離は残り三メートル。
触らぬ神に祟りなしというし、ここは素直に道を譲るとし──
「どけぇえええ、ヒョロガキぃ──っ!」
ようと思ったんだけどなぁ……。
首を突っ込むつもりはなかったのに、突然の暴言につい脚の方が出てしまった。
するとすれ違いざまに足を絡めとる形になり、男はバッグを投げ出しながらアスファルトの上を転がっていく。
そりゃあもう、おろし金の上を滑る大根のように盛大に。
「あっははー、ごめんねー? ヒョロいんじゃなくて長いんだよねー」
「っ……て、テメェ、良くもやってくれたなぁ!」
男はよろよろと立ち上がると、条件反射のようにバレットナイフを取り出した。
ギラリと光るそれは鍔の無い安っぽい作りをしているが、真っすぐ構えた切っ先の向こう側には怒れる獣の如く血走った眼球が覗いている。
「わぁお、なにそれホンモノ〜?」
「ったりめだろクソガキ! 舐めやがって、殺すぞテメェッ!」
「……そっかぁ、殺しちゃうのかー」
嫌だなぁ。なんて気の抜けた返事をすると、どうもそれが逆鱗に触れたらしい。
ヘラヘラしやがって気色悪ぃんだよ、と。男は吠えるように声を荒げ、ナイフを順手に掴んで猪のように突っ込んで来る。
「ええ……? そんな初対面の人に酷いこと言うなぁ──あ、隙あり」
拙い突きを半身で躱し、今度は足首を思いっきり蹴り飛ばしてやる。
すると男はバランスを崩し再び転倒。路肩のゴミ箱に頭から突っ込んでいった。
「ナイスシュート……っと? んん?」
丸まった背中に追撃を掛けようとして、僕はふと群衆の中に異彩を放つ人物を発見した。
二十メートルほど離れていても目立つブルーの制服は、街を守りしポリスマン。
路地から出て来たばかりなのか、怪訝そうにこちらを見てはまだ状況が把握できていない様子。
ならばと、僕はその者に向かって大きく手を振った。
「おまわりさーん! ここにナイフ振り回している人がいますよ〜!」
瞬間──警察はホイッスルを鳴らしながら走り出す。
それは肥満ぎみな体型からは考えられないスピードであり、直ぐに確保となるかと思われたが、しかしマスクの男は笛の音に直ぐに状況を察したようだ。
「チッ……! テメェ、覚えてやがれ!」
「あっはは、僕に男の顔を覚える趣味はないよー。……っと、行っちゃったか」
逃げていく背中を見送って、僕は深く息を吐いた。
いやあ、まさかナイフまで出すとは……。完全なる銃刀法違反となれば、逮捕は免れないだろう。
戻ってきた警察に事情聴取とかされたら面倒だし、僕もさっさと立ち去るとするかな。
と、そんな風に踵を返した時だった。
「あの、お怪我はありませんか?」
「……え? ああ、別に大丈──」
心地よい音色に導かれるようにして顔を向ければ、そこには先程まで地べたに座り込んでいた金髪の少女がいて──瞬間、僕は眼を奪われた。
混じりっけのない雪原の肌。
雲を切り裂く晴天の瞳。
水面に映る月のような髪。
そこに居るだけで空気を支配する強い眼差し──と。
近くで顔を合わせてみれば、これがこの世のものとは思えないほどの美少女で。
年齢は僕とそう変わらないはずなのに、生まれながらの金髪碧眼と日本人離れした顔立ちからずっとずっと大人びて見えた。
そんな美人さんはふいに一歩こちらに近づくと、僕の顔を不安げに覗き込んできて、
「あのぉ、大丈夫ですかー?」
「っ──! す、すみません大丈夫です! このとーり、僕はちっとも問題なしでごぜぇますよー! えぇ!」
「……ほんとうですか? なら、良かったです」
客観的に見ても挙動不審な受け答えだった気がするが、美人さんは変に勘ぐることもなく心の底からそう思っているように胸を撫で下ろした。
そんな動作や流暢な日本語はこの国の者と遜色ないものの、赤のキャリーバッグ、小脇に抱えられたガイドブック、緩く束ねたハーフアップに刺さる簪(お土産かな?)、男が持っていたハンドバッグと、彼女の装いはどう見ても観光旅行者のソレだ。
せっかくの旅行でひったくりとは、彼女も運が無い……。
「あー……と、それよりお姉さんの方こそ痣とか残ってません? もしあれば、今から走ってアイツぶん殴ってきますよ〜?」
「ああ、それでしたら大丈夫ですよ」
ほら、と柔らかな笑みで答えると、美人さんはスカートの裾を小さく捲ってみせた。
そんな言葉の通り、露出した膝や脛はゆで卵ように白く滑らかで傷は見られない。
「うーん、確かに……。いやあ、怪我を理由にエスコートする予定だったのに残念だな〜」
「ふふっ、それは残念でしたね? ああでも、貴方がよろしければお昼食をご一緒しませんか? バッグを取り戻して頂いたお礼に、ぜひ奢らせてください」
「……おっと?」
これは予想外な反応だな。
お礼と言われても、そもそも僕は助けようなんて気概は持ち合わせてはいなかったのだ。
行動に起こしたのは善意ではなく、ちょっとした復讐心。
偶然彼女を助ける形になっただけであり、僕に対価を貰う資格などないだろう。
「そんな、別に気にしなくても大丈夫ですよー? ほら、結局はお巡りさんに手伝ってもらっちゃった訳ですし?」
「たとえそうだったとしても、初めに勇気を出し行動を起こしたのは貴方ですよ」
やんわりと断ったつもりだったのだが、しかし美人さんは引き下がらなかった。
「良いですか? 私は貴方の勇気を称賛し、その行動に感謝をしているんです!」
「あ、えと……どういたしましてで良いのかな? うん、その言葉だけで十分伝わったよ」
「いえいえ、こんなものが私の感謝だと思われたら困ります! お礼と言うのはその者に対する感謝の証であり、それを拒否されるのは感謝をしていないのと同義なんです。なのでどうか、私を感謝もできない恥知らずにしないでください……ね?」
逃がしません、と言いたげに僕の右手を取ると、美人さんは柔らかな両手で包み込む。
赤く染まった頬に、見上げる潤んだ瞳、そしてこのぐいぐいと来る感じ──と。
僕はその光景に、どこか既視感を覚えた。
確かあれは……そうだ、知人のエロゲマスターに押し付けられたADVゲーム。
主人公の勇者とヒロインの出会いのシーンにて、窮地を救われた金髪碧眼の巨乳ヒロインが、今の彼女と全く同じ表情をしていたはずだ。
即ちこれは、ひょんなことからラブロマンスの幕開けというやつなのだろう──!
僕は最大限の決め顔を作ると、美人さんの手を優しく握り返した。
「オーケー、負けたよ。女の子からデートに誘われて断るだなんて僕はバカだった……」
「? あの、ごめんなさい……。いったいなんの話でしょうか?」
「──あれっ」
突然なに言ってんのこの人。
と、そんな可哀想なものを見るような眼をされてしまった。
「え、あれ……。僕の行動に胸を打たれ、惚れちゃったって話じゃないの?」
「??? いいえ違いますけど?」
「え? え? じゃ、じゃあ、この手はなんなんスか……?」
「ただの握手ですよ? その……勘違いさせたのなら申し訳ありませんが、ちょっと助けられたくらいで好きになっちゃうような女の子は現実にはいませんよ?」
「で……ですよねー! あ、あははー……」
誤魔化すように下手な笑みで応えると、美人さんは手を離しさっと距離を取った。
恥ずかしい勘違いに僕は今すぐにでも逃げ出したい気分だったが、しかし美人さんの声色に軽蔑した感じはなく、その顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「そんな訳でお礼はデートではなくただの食事になるのですが。それでも構いませんか? えっと……お兄さん?」
「あーっと……そういえばまだ名乗っていませんでしたっけ? 僕の名前は緋野ユズリハ。お姫様のピンチに駆けつけたナイスガイですよー」
「ユズリハさん、ですか……? ふふっ、ナイスガイにしては可愛いらしいお名前ですね」
「うお……そんなことまで分かっちゃうんだ。いやもう、ほんと日本語うまいっすね……」
名前の元になっているのは、ユズリハ科ユズリハ属の常緑高木。
関西の方では苗字として使われているものだけど、音の響きとしては『柚』を連想し自分でも女の子っぽい名前だなぁとは思う。
「あっ、気分を悪くしたらなら申し訳ありません……! 言葉足らずでしたが、可愛らしくて良い名前だなと言いたかったんです!」
「いえいえ大丈夫ですよー。僕はこの名前が嫌いなわけじゃないし、慣れてますからね〜」
「そ、そうですか? えと……それでは行きましょうか、ユズリハさん?」
うっかり名乗るのを忘れている少女はそう言うと、僕に手の平を差し向けた。
ちょっと助けられたくらいで好きになっちゃうような女の子はいない……。そうは言ったけれど、再び手を繋ごうとするのは立派な好意の表れだ。
僕はこれから始まる楽しいひと時に胸躍らせて、
「……あら?」
「あ、ごめん」
たんたんたたん、と。
ポケットから鳴り響く
そのまま伸ばしかけた手で取り出し確認すれば、スマートフォンの画面には『仕事だ』と短いが文章が表示されていて……。
「ごめん、どうしても外せない用事が入っちゃったみたいだ」
僕の顔は、きっと落胆に歪んだことだろう。