#1/水平に落下するペイ

#1-1_otogiri_tobi/ 花はどうして咲くの(3)

 浅川の河川敷にはテント村がある。テント村と呼んでいるだけで、キャンプで使うようなテントは少ない。実際はビニールシートや廃材で作られた掘っ立て小屋だらけだ。浅川デン、という異名もある。デンは巣穴、根城、そうくつを意味する言葉らしい。

 浅川のテント村には近づかないように。

 地域の子供たちはそう教えられる。小学校でも中学校でも施設でも、大人たちはみんなそう言う。あそこは危ないから、と言い含められることもある。飛もテント村、浅川デンに入りこんだことはない。時折こうして土手から眺めるくらいだ。

 べつに怖そうな場所でもない。

 あさかわデンの住人たちは、おそらく裕福ではないのだろう。身なりがよくない人もいる。でも、ちゃんとした人だっている。

 以前、門限を破って夜にこのあたりを歩いていたら、浅川デンの住人たちがドラム缶のを囲んでいた。彼らの暮らしぶりは知らない。でも、笑い声が聞こえた。彼らは何か料理をしていて、食べたり飲んだりしながら、楽しげに語らっていた。

 楽しそうにしている人たちが、とびは少し苦手だ。

 遠くから見ているぶんにはいい。ただ、あまり近づきたくはない。

「飛、おまえのコミュ障な。治したほうがいいぞ」

「そんなのじゃないし」

「本気で言ってんのか、それ?」

「人といると、なんか疲れるってだけ」

「疲れようが何だろうが、人間は社会的動物ってやつなんだからよ。一人で生きてくわけにはいかねえだろ。ちっとは辛抱することを覚えなきゃな」

「バクがまともっぽいこと言ってる……」

「オレは、その気になりゃあまっとうな話もできる、すげえバックパックなんだよ」

「バクのくせに……」

 浅川は北から南へと流れている。飛は沈みかけの西日に背を向け、浅川に架かっている橋を渡りはじめた。

 車道は混みつつあるものの、歩道はさっぱりだ。飛はひょいと橋の欄干に上がった。

「まァーたおまえはそういう……」

 バクがあきれたように言った。飛はかまわず欄干の上を歩いた。

 歩道より風を感じる。たまに飛の体があおられて揺れると、バクがおおに「うおっ」と声を出した。

「落ちないって」

「どうだかな。油断大敵って言葉を知らねえのか?」

「それくらい知ってる。だけど、油断なんかしてないし」

「慣れてるから平気だって、高をくくってんだろ。あのな、怖えんだぞ、慣れってのは。自分は大丈夫だと思ってるやつに限って、事故るんだ」

「なんでそんなに慎重なんだよ。バクなのに……」

「慎重っていうかな。オレは生まれつき思慮深いんだよ」

「生まれつきなんだ……」

「悪いか?」

「べつに悪くはないけど。バクって、どうやって生まれたのかなって」

「あぁ? そいつはおまえ──……」

 バクは、んんん、とうなって考えこんだ。

 とびはあの男のことを覚えている。背の高い、シルクハットをかぶった一つ目の男。あの男が飛の前にバックパックを置いていった。でも、バクはしゃべりだす前のことはよくわからないようだ。

 飛は立ち止まって川のほうに向きなおった。欄干に腰を下ろすと、踏みしめる場所を失った両足の靴が脱げてしまいそうな感覚に襲われた。

「おい、飛。ここでそんなことしてたら、今から飛び降りようとしてるヤツみたいに思われるぞ」

「飛び降りないし。落ちたって、下、川だし。泳げるし」

「でも、浅いからな。あさかわだけに」

「大丈夫だよ」

「気をつけろよ?」

「うん」

 飛はうなずきながら体を前後に揺すった。バクが騒いだ。

「おーい! こら飛ッ、気をつけろって言ってるそばからおまえ……!」

「これくらいで落ちたりしないって」

「わかんねえだろ!? そういうのがまさしく油断なんだよ!」

「油断じゃないよ。わざとだし」

「そうか。わざとか。わざとかよ。わざとやるんじゃねえ。やるなよ。絶対、やるな」

「やるなって言われるとな……」

じゃねえぞ。もういい。くだらねえことしてねえで、さっさと帰ろうぜ」

「えぇ……」

「どうせ、そろそろ門限じゃねえか」

「まあ、そうだけど」

「帰りたくねえのか?」

 飛は聞こえなかったふりをしてバクの問いに答えなかった。

 バクが、ケケッ、と笑う。

「好きになれねえんだろ、あの施設が」

「べつに……好きとか嫌いとか」

「他のは、何だかんだ言って、一応、施設をって呼んでるが、おまえは違うよな。施設を自分の家だとは思ってねえ。どうしても思えねえんだろ」

 飛は両脚をぶらぶらさせた。いつの間にか、かなり背中を丸めて下を向いていた。背筋をのばそうという気にはなれない。前も、上も、向きたくない。

「……施設がどうとかじゃなくて、ただ──」

「ただ?」

「合わないだけだよ」

「へえ。何と?」

「人」

「ようするに、人間嫌いってやつか」

「嫌いなわけじゃない。合わないだけ。そう言ってるだろ」

「めんどくせえ野郎だな」

「うるさいって……」

「ところで、とび

「ん?」

「気づいてっか?」

「何に?」

「いるぞ」

「は? 何が?」

「そこだよ」

「どこ?」

 飛は顔を上げた。

 右を見て、左を見た。

 飛から一メートルほどしか離れていないところに──もちろん欄干の上ではなくて、欄干の下、あさかわ橋の歩道に、女子生徒が立っていた。

 その女子生徒は飛が通う中学校の制服を着ている。やけにくっきりした顔だ。長い髪を団子状に結んでいる。

「……え──」

 おかしなこともあるものだ。

 以前、似たような出来事があった。以前というか少し前、ついさっきだ。

 しらたまりゆうこが飛を凝視している。目を見開いているわけじゃないが、対象をしっかりと捉え、縛りつけようとしているかのようなまなしだ。その対象というのが飛だった。

 昔、飛がもっと幼かった頃、施設の先生に、ちゃんと目を見て話しなさい、と注意されたことがある。飛は言われたとおり先生の目を見た。するとなぜか、先生のほうが飛の目を見ていなかった。先生は飛の鼻や口のあたりを見ていた。

 相手の目をまっすぐ見るのは、なんだか気が引ける。

 施設にあった何かの本に、猫は人間と目を合わせるのを嫌がる、と書かれていた。たいていの場合、無遠慮な視線は敵意の表れだ。

 でも、しらたまりゆうこは、ただとびを観察しているようだ。よっぽど飛という生き物がものめずらしいのか。飛がどういう形をしていて、どんな生態なのか、詳しく調べようとしている。そういう目つきだ。

 何、この人。

 さっきもいた。

 また、いる。

 単なる偶然なのか。ありえないとは言いきれないが、不思議ではある。奇妙な話だ。

 というか、むしろ怖い。

 飛は逃げたかった。欄干の上に座っていなければ、脇目も振らずに駆けだしたかもしれない。そうだ。逃げよう。立ち上がって、欄干を走ってもいいし、下りたっていい。逃げたければ今すぐにでも逃げられる。どうして飛はそうしないのだろう。飛自身、わからない。校門の時も同じだった。こうして白玉に見つめられていると、なぜだか目をらすことができない。

「あの」と飛が言ったのと同時に、白玉は「おとぎりくん」と飛の名を呼んだ。

「うん」

 飛は思わずうなずいた。

「……え? 何?」

「わたしのこと、知っていますか?」

 白玉はやはり飛を見つめたまま尋ねた。ずっとまばたきをしていない。目が乾いて痛くなったりしないのだろうか。無性にそんなことが気になった。

「知っ──てる……けど。白玉さんでしょ。同じクラスの。白玉、龍子」

「認識してたんだ。わたしのこと」

 白玉はようやく二度、三度とまばたきをした。

 それから顎をちょっと上げて両目を細め、唇の両端をかすかに持ち上げた。

「よかった。他人には興味がないのかと」

「……興味は基本、ないけど」

「ないの?」

 今度は目を丸くして口をすぼめる。表情が変わると、白玉は別の白玉になった。それでいて、彼女は彼女だった。

「じゃ、なんでわたしのことを知っているの?」

「それは……名前がちょっと変わってるし?」

「白玉と龍子の組み合わせなので、よく言われます。ただ、弟切くんもわたしと同じくらいか、もっとめずらしい」

「そう……かな。まあ──」

とびィ」

 バクが、ヒッ、ヒッ、と笑う。

「めずらしいって言やあ、おまえが学校のお友だちと口きいてるってのも、そうとうめずらしいことだよな?」

 お友だちとかじゃないし。飛はとっさに言い返しそうになった。でも、バクはわざとそんな言い方をして飛をからかっているのだろう。それに、しらたまの前でバックパックに黙れと怒鳴るわけにもいかない。

「たしかに僕の名前も、よくあるってほどじゃ──」

 飛はふと、おかしなことに気づいた。

 白玉が飛を見ていない。飛のほうに目を向けてはいるものの、その視線は飛に注がれてはいない。白玉は何を見ているのか。

 飛が左肩にストラップを掛けて背負っているバックパックだ。白玉はバクを見ている。

「……どうした、飛?」

 バクがげんそうな声を出した。

 飛は答えずにバクを背負い直して体に引き寄せ、密着させた。

「よく、ある……名前じゃ……ていうか……え? 何……? どうか──した……?」

 白玉は返事をしない。じっとバクを見つめている。

「なッ──」

 バクもうろたえはじめた。

「な、何だ、こ、この女? ま、まさか、オレのこと……」

「わたしね」

 しらたまが口を開いた。まだバクから目を離そうとしない。

おとぎりくんと話したくて。それで、待ち伏せを」

「……まちぶせ」

 とびは一瞬、何のことかわからなかった。あらためて思い返すと理解できた。

「あぁ……さっき、校門のとこで?」

「はい」

 白玉は飛を見ずに首肯した。

「でも、はいざきさんに怒られて走っていっちゃったので、追いかけてきたんです」

「……灰崎さん?」

「わたしたちの学校の用務員さん」

「あの人、そんな名前なんだ。灰崎……」

「灰崎さんは、誰に対しても挨拶を欠かさないし、気軽に雑談に応じてくれたりもして。とても親しみやすい人で」

「へぇ……」

 飛としては、どうでもいい。用務員の名前とか、人柄とか。まるで関心がない。

 そんなことよりも、どうして白玉は飛を待ち伏せしたりしたのか。なぜわざわざ追いかけてきたのだろう。話したいこととは何なのか。それから、白玉は依然としてバクを見つめている。そのことのほうが飛は気になって仕方ない。

「──で……白玉さん、僕に、何か……用事でも?」

「用事もなく、待ち伏せしたり、ここまで追いかけてきたりしません」

 白玉はやっとバクではなく飛を見て、微笑ほほえんだ。

 飛は顔を伏せた。つい、うつむいてしまった。何もうつむくことはない。飛は上目遣いで盗み見るように白玉の様子をうかがった。

「その」

 白玉は右手を持ち上げて指さした。

「バックについて」

「……えっ──バク……?」

「ばく」

 白玉はそう言って小首をかしげた。

「バック? バク? かばんだから、ビーエージー。正しくは、バッグ?」

「あぁ……や、僕、英語は、そんなに……」

 とびがバクをバクと呼ぶようになったのは、バクがバックパックだと名乗ったからだ。

 ずいぶん前のことだし、細かいやりとりは覚えていない。でも、たしか飛が『何なんだおまえ』といて、バクが『オレはバックパックだ』と答えた。あるいは、『バックパック様だ』だったかもしれない。とにかく、バックパックは長くて少々言いづらいから、縮めてバクと呼ぶようになった。

「……僕のバク、いや──バックパック……バッグか。えっと、だから、僕のバック……じゃなくて、バク……ぅっ。ぼ、僕のかばんが、どうかした……?」

おとぎりくんは、よくその鞄としゃべっているでしょう」

「鞄と──」

 飛は危うく欄干から落っこちそうになった。

「か、か、鞄と? 僕が? しゃ、しゃべってるって、えっ? な、なんで? そんな、しゃべって──ない、けど……?」

「弟切くんは腹話術が得意ですか?」

 しらたまは淡々と妙な質問をぶつけてきた。

「ふくわっ……」

 飛は腹話術を試してみようとした。

 待て。無理だ。というか、おかしい。いきなりやったこともない腹話術にチャレンジするなんて。どうせできないっこない。この場で試みる必要もない。

「……ないけど。腹話術の、経験とかは」

「それじゃ、弟切くんと会話している、弟切くん以外の声は誰のもの?」

「僕……以外の──」

「おい、飛ィ……」

 バクが声をひそめてささやく。

「どうも聞こえちまってるみたいだぞ、オレの声。……そいつに、バレてやがる」

「その声」

 白玉はこくっとうなずいた。

「正解。わたしにはバレてる」

 マジか。飛はそう思っただけじゃない。

「……マジか」

 口に出してつぶやいてしまった。

 白玉は胸を張って、えらく整っている顔中を色とりどりの花で飾り立てるように、満開の笑みでいっぱいにした。

「まじです」

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