#1-2_otogiri_tobi/ 境界線上の幻覚(1)
本のタイトルは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』。アメリカかどこかのSF小説を翻訳したものらしい。
施設のレクリエーションルームには三台のスチールラックが設置されていて、退所者が寄贈した本が並べられている。入所者は自由に読んでいい。小中学生が好むような本は取り合いになるので、飛はもっぱら人気のない本を暇潰しに使っていた。
一応、本を読んでいるつもりだ。知らない単語があると辞書を引いたりもする。おかげで漢字はだいぶ覚えたが、どうしてか内容があまり頭に入ってこない。読み終えて少し
飛は腕時計を見た。午後九時五十六分。施設の消灯時間は中学生だと午後十時だから、あと四分だ。
勉強したいとか適当な理由をつければ、消灯時間は延ばしてもらえる。かなりの入所者が常用している手だが、飛は使わない。
「そろそろおねむか、飛?」
床に置いているバクが、ヘヘッ、と笑う。
「何だよ、おねむって。ガキじゃないんだから」
飛は文庫本を枕元に置いた。この部屋は本来、二人部屋なので、ベッドが二台ある。でも実質、飛の一人部屋だ。
一人にして欲しいと飛が頼んだことはない。二人部屋だったこともある。そのうち相手が嫌がって、職員に訴える。
「オレから言わせりゃあ、中二なんざ、ガキ中のガキだぜ?」
飛はベッドから足を出して、バクを軽く踏んづけた。
「痛っ。やめろ飛おまえこらっ」
「バクなんか僕より年下だろ。てことは、もっとガキじゃないか」
「オレは例外なんだよ。特別っていうかな。格別なんだよ。むしろ、別格だな。おいっ。よせって飛、そんなに踏むな、形が崩れちまうだろ。どうしてくれる。こらっ……」
ひとしきり足蹴にしたら気がすんだので、飛はバクを踏むのをやめた。部屋の電気を消し、ふたたびベッドで横になる。
高校生の消灯時間は午後十一時だし、宿題や自習を名目に深夜まで寝つかない入所者もいる。壁やドアも決して厚くはない。施設の夜は静寂とは無縁だ。
飛はタオルケットを体に巻きつけて横向きになった。
「あの女のこと考えてんのか、
「まったく考えてない」
飛は舌打ちをしたくなった。
「バクが今言うまで、頭に浮かんでもいなかったよ」
「ホントかァ? あやしいな」
「まじです」
なにげなく口をついて出た言葉だった。彼女のことを考えていたせいで出てきたわけでは決してない。
「……ほんとだって」
飛が言い直すと、バクは、クククッ、と笑った。
「妙な女だよな」
「女とか言うなよ」
「だって、女じゃねえか」
「そうだけどさ……」
「考えてたんだろ、アイツのこと。だいたい、あんなことがあったんだ。気になって当然だろうが」
「僕はべつに、全然気にならない」
「素直になれよ。それに、おまえが気にしなくたって、相手のほうが──」
「もう寝る。静かにしてくれない?」
「わかったよ、飛。眠れない夜にならなきゃいいな」
飛は目をつぶって、いびきをかく
「──折り入って、
あのあと、
「お友だちとして、わたしとお付き合いしてくれませんか」
「……は?」
飛はまず、問いかけの意味を理解しようとした。そもそも問いかけなのか。質問ではないような気がする。とにかく、白玉は飛に回答を求めていた。それだけは間違いない。
でも、何を答えればいいのだろう。
どうしてもわからなくて、飛は「えー」とか「あー」とか「んんー」といった声をむやみと繰り返した。
「あっ」
「突然のことで、困らせてしまっていたら、ごめんなさい。返事はすぐじゃなくてもかまわないので」
「あぁ……そう、なんだ」
「もちろん、すぐでも」
「や、それは──どうだろ……」
「のちほどのほうが?」
「……かな?」
「わかりました」
白玉は目をつぶって、ふぅっ、と息をついた。
「言えてよかった。すごく、どきどきしてしまいました」
「じゃあ、
言うことを言ったらすっきりしたのか、白玉は別れを告げてお辞儀をすると、立つ鳥跡を濁さずとばかりに行ってしまった。
何なんだ、あの人。
飛がそう思ったのと同時に、バクが
「いったい何なんだ、アレ……」
結局、その夜はあまりよく眠れなかった。
もちろん、白玉
いきなり話しかけてきて、何事かと思ったら、おかしなことを言ってきた。
『お友だちとして、わたしとお付き合いしてくれませんか』
不意討ちを食らって、飛は当惑していた。さもなければ、あの場で何らかの答えを出していたのではないか。そんなふうにも考えた。たとえば、見知らぬ人に突然、一緒に踊りませんか、と誘われたら、答えはNOだ。
断ればよかった。
いやです、と。
飛が即座に断らなかったのは、戸惑っていたからだ。
それに加えて、白玉の表現方法がちょっと微妙だった、というのもある。
『お友だちとして』
ここまではいい。その先だ。
『わたしとお付き合いしてくれませんか』
何かおかしくないだろうか。おかしいと思う
ようするに白玉は、ただ単に、友だちになろう、と言ってきた。
同級生相手なのに敬語が混じっていて、白玉の言葉遣いはやや特徴的だ。そこに惑わされないほうがいい。白玉はただ飛と友だちになりたいらしい。問題はそこだ。
なんでまた?
それから、もっと大きな、かなり重大と言えそうな問題がある。
白玉
寝不足のまま登校すると、校門前で黒縁
「おはようございます、先生」
「……お、おう。おはよう」
黒縁眼鏡の教員は明らかに鼻白んでいた。一年生の時から毎朝のように絡まれてきたのに、飛から挨拶をしただけで何も起こらない。ただ、おはよう、と言う。これが正解だったのか。
「どういう風の吹き回しだ?」
靴箱で靴を履き替えていたら、バクが
「さあ。どんな風も吹いてないと思うけど」
「心境の変化ってやつか。そのきっかけが何なのか、だよな」
「
上履きがちょっときつい。足が大きくなったのだろうか。体が成長すると服も合わなくなる。買い換えるのは痛い出費だ。
少し憂鬱な気分で教室に向かおうとしたら、靴箱の陰から髪の長い女子生徒がにゅっと顔を出した。飛は思わずあとずさりしてしまった。
「……し、白玉さん」
「おはよう、弟切くん」
またあの
「……な、何?」
「何か用? 朝っぱらから……」
「実は、ここで待ち伏せを」
「え……な、なんで?」
「昨日、わたし、言いませんでしたか?」
「……あぁ」
「返事が聞きたくて」
「そ──」
「そ?」
「れ……」
唐突に、目を白黒させる、という言葉が飛の頭に浮かんだ。いつだったか辞書で引いた。あれは実際に目が白くなったり黒くなったりするのではなくて、目玉が激しく動くさまを指している。飛の眼球は今、やけに忙しく運動していた。目が回りそうだ。
同じクラスの生徒が何人か靴箱にやってきて、靴を履き替えながら何か
「おっ」
さらに、通りすがりの用務員が声をかけてきたものだから、状況が余計に複雑化して、いよいよ
「
「
白玉は振り向いて用務員の姿を確認すると、丁寧にお辞儀をした。
「おはようございます。朝早くから、お仕事お疲れ様です」
「ありがとう」
灰崎は照れくさそうに笑った。ダンボールを抱えている。中身は何なのか。
何だっていい。飛は興味がない。
白玉は違うようだ。
「重そう。手伝いましょうか?」
「いやいや、とんでもない!」
灰崎は何回も首を横に振った。切れ長の目が真ん丸くなっている。
「いいよ、そんな。これが私の仕事だもの。私は勤務中で、白玉さんは学業のために学校に来ているわけだから」
「わたし、けっこう力持ちなんですよ」
白玉
その可能性は、昨夜もちらちらと飛の脳裏をよぎった。
だいたい、まともな中学生は、
他人に親近感を抱かれるようなタイプの人間じゃないことは、飛も自覚している。飛は明るくない。やさしくもない。面白くもない。説明しづらい過去がある。バクという、自分としか話せない相手がいたりもする。
それに、どうやら人には見えないものが、飛には見えるらしい。
自分以外にこういう者がいたら、飛はどう思うだろう。
やばい人だ、と見なすのではないか。
きっと弟切飛は、
そんなやばい人と友だちになりたがる時点で、白玉龍子もかなりやばい。
逃げたくなってきた。猛烈に逃げだしたい。白玉は灰崎と話している。チャンスなのではないか。そうだ。今のうちに逃げよう。
飛はその場から離れようとした。足音を忍ばせたのに、気づかれてしまった。
「はっ」
白玉が飛の右腕を
「だめ。行かないで、弟切くん。せめて返事を」
「……あれ?」
灰崎が決まりが悪そうに顔面を引きつらせた。
「もしかして私、邪魔しちゃったのかな。ごめんね。失礼しました。いやはや、馬に蹴られて何とやらだよね……」
なぜここで馬が出てくるのか。何かの本で読んだ。たしかこんな言葉がある。
人の恋路を邪魔するやつは、犬に
犬に、以下の部分が、馬に蹴られて死んじまえ、だったりもする。
どうも灰崎は何か勘違いしているらしい。訂正したほうがいいだろうか。どうでもいいか。それどころじゃない。白玉はまだ飛の腕を掴んでいる。
放してくれない?
飛は目で訴えてみた。
どうやら通じていないようだ。
仕方ない。
「……ええと。その話は、何だろ、まあ、歩きながら、とか……」
飛がおずおず提案すると、白玉はうなずいた。全力疾走で
「返事を聞かせて欲しいです」
「……もう? 早くない?」
「まだ考え中だった?」
「うーん……考え中っていうか、まあ、んん……」
「はっきりしねえやつだな」
バクがため息まじりに言った。
「はっきりしない人なの?」
白玉が
「ていうか、自分の考えとか気持ちなんかをちゃんと言語化する習慣がねえんだよな。もともと。人とほぼ話さねえし」
「あなたとは?」
「オレは別だけどよ。とはいえ、このオレに対しても、わかれ、察しろ、みたいなとこがあるぜ」
「
「そんな感じかねえ」
「……あのさ」
飛は額を拳でこつこつ
「普通にしゃべらないでくれる? 他の人にしてみたら、白玉さんがぶつぶつ独り言を言ってるようにしか聞こえないはずだし……」
「ごめんなさい、つい」
白玉はちょっと頭を下げてみせた。
「でも、わたしと
「それはそれで奇妙だよ……」
「だったら、わたしとお話ししてください。それで万事解決」
「……話してるじゃないか」
「ところで、例の件への返事は?」
「だから、早いってば……」
「そもそもさ……」
というか、確実に注目されている。
「なんで?」
飛が
「なぜ、というと?」
「……僕と友だちになりたい、とか。その理由っていうか。動機?」
「それは、
「は? どういうこと……?」
「説明が必要でしょうか」
「できればね。僕にもわかるように、教えてもらえると……」
「わかるように」
白玉はうなずいてみせると、眉根を寄せて少し考えこんでから立ち止まった。
階段の途中だった。
飛は白玉に遅れて、一段多く上がったところで足を止めた。
白玉は飛を見上げている。しっかりと捉えて放そうとしない、例の
「時間をいただけますか。よければ、今日のお昼休みにでも。この件については、人が寄りつかない場所でないと話せないの」
飛はこの目つきが苦手だ。無視できなくて困る。目を
「……いいけど。べつに」
そう答えるしかなかった。他にどうしろというのか。