「ねぇ、あなた名前は?」
御者台の上から馬に鞭を当て、アンは隣に座る妖精に訊いた。
妖精はもてあましぎみに長い足を組んで、腕組みし、御者台の背もたれにもたれかかっている。ふんぞり返っていると言っていい。あくせく馬を操るアンと妖精と、どちらが偉そうかと言えば、妖精のほうが百倍偉そうだった。
妖精はめんどくさそうに、ちらりとアンを見た。
「聞いてどうする」
「だってあなたのこと、どう呼べばいいかわからないじゃない」
「トムでもサムでも、人間流の好きな名前で呼べばいい」
妖精を使役する時は通常、使役者が妖精に名前をつけるものだ。しかしアンは、それがいやだった。自分の本当の名前を呼ばれないのは、屈辱的だと思うからだ。
「わたしだったら、自分の本当の名前で呼んでもらいたいわ。あなたも、そうじゃないの? 勝手に名前をつけて呼ぶなんて、したくないの。だから、あなたの名前を教えて」
「どう呼ばれようが、関係ない。くだらないことを訊くな。勝手に名前をつけて、勝手に呼べ」
妖精は、そっぽを向く。アンは彼の横顔をちろりと見て言った。
「じゃ、カラスって呼ぶけど?」
さすがに妖精も、ものすごくいやそうな顔をしてアンを見た。
「かかしの仕返しか?」
「そうよ。カラスさん」
妖精は眉をひそめた。そしてしばらくの沈黙の後に、ぽつりと言った。
「シャル・フェン・シャル」
「それが名前?」
訊くと、頷いた。アンは微笑んだ。
「綺麗な名前ね。カラスより、ずっと素敵。シャル・フェン・シャルって、どこが名前で、どこが名字なの?」
「全部が名だ。人間のような、姓と名の区別はない」
「そうなの? でもシャル・フェン・シャルって長すぎるから……、とりあえずシャルって呼ぶけど。それでいい?」
「好きなようにと、言ったはずだ。おまえは、俺の使役者だ」
「まあ……そうだよね」
あらためて妖精の口から言われると、気持ちのよいものではなかった。自分は奴隷を買って使役しようとしているのだという、罪悪感が強くなる。
アンが操る箱形馬車は、レジントンの町を抜けた。ブラディ街道へ向けて歩を進める。
収穫直前のたわわに実った小麦畑が姿を消して、まばらな林が、道の左右に姿を見せ始めた。
ブラディ街道に近づいたのを感じながら、アンは口を開いた。
「わたし、護衛をしてもらうために、シャルを買った。けど一つ、約束する。ブラディ街道を抜けて無事にルイストンに到着したら、シャルに羽を返す」
それを聞き、シャルは不審げにアンを見た。
「俺を解放すると言ってるのか?」
「そうよ」
するとシャルは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに喉の奥でくっくっと笑いだした。
「金貨で買った妖精を、逃がす? そんなおめでたい人間、いるのか?」
「おめでたいってのは、失礼ね。わたしはただ、人間は、妖精の友達になれると思ってるの。友達になれるかもしれない人を使役するなんて、いやなの。わたしは信頼できる護衛が今すぐ必要で、仕方ないからシャルを買った。でも必要がなければ、使役したくない。もちろん、他の人間に売ったりするのもいや。だから羽を返すの。こうやってわたしの旅につきあってもらう間も、できれば普通の友達みたいにしたいの」
「友達? なれるわけがない」
冷えた言葉に、アンはため息をついた。
「そうかもしれないけど……。これはただ、ママとわたしの理想。でも理想だ、夢だって誰も実行しなければ、いつまで経っても理想のままよ。だからわたしは、実行するわ」
「それほどのかかし頭なら、その馬鹿さ加減を、ルイストンに到着したら証明しろ」
「かかしって呼ぶなって言ったでしょう!?」
アンの平手が飛んだが、シャルはそれを軽くかわした。アンは悔しくて、下唇を嚙む。
「あなた、そこまで馬鹿にしてるわたしに、なんで自分を買えなんて言ったの。わたしなら、馬鹿にしている相手に使役されるなんて、まっぴらごめんよ」
「人間なんぞ、どれも同じだ。それなら間抜けに使役されたほうが、俺も楽だ。おまえはここ数年目にした中で、だんとつに間抜けそうだった」
「……なんだか……あなたと話してたら、とことん気分が滅入ってくるわね……」
シャルが売れ残っていたわけが、よくわかった。
護衛にこれほど悪態をつかれたのでは、守られている方もたまったものじゃない。
袖口のレースを揺らす風が、急に冷たくなった。
アンは前方に、石ころの多い、荒れた街道が延びているのを認めた。それがブラディ街道だった。馬車はゆっくりと街道に入った。
車輪が石ころを踏み、背の高い箱形の荷台は、振動で大きく左右に揺れる。
空の色は澄んでいたが、空気は冷えている。ブラディ街道の周辺は高い山脈に囲まれており、山脈から吹き下ろしてくる風は、高地の冷気を運んでくるのだ。
見渡す限り、乾き色づいた草葉が鳴る荒野だ。
まばらな林はあるが、土地が瘦せているのは一目瞭然だった。
ブラディ街道沿いには、村や町が存在しない。しかし街道が貫いている各州の州公たちが、自州を通過する部分をそれぞれ管理している。
管理といっても、盗賊の取り締まりや、野獣対策をしてくれるわけではない。州公がやることは、たった二つ。
一つは、年に一度、街道が植物に侵食されないように手を入れること。
二つめは、旅人が野営するための、宿砦と呼ばれる簡単な砦を造ること。
ブラディ街道は危険だが、それでも街道として機能しているのは、州公がこの二つのことを実行しているおかげだった。
アンは王国全土の詳細な地図を持っていた。旅には不可欠なもので、エマはことに地図を大事にした。新しい情報は地図に書き加え、地図の情報を常に更新していた。
王国西部微細地図を取り出して、近場の宿砦の位置を確かめた。そして陽が傾きはじめると、その宿砦を目指して急ぎ、なんとか日没までにはたどりつけた。
宿砦は、石を積んだ高い壁を、真四角に巡らしただけの砦だ。屋根はない。門の部分には鎖で操作する、上下式の鉄扉がある。草の生い茂る内部は広く、ゆうに馬車五台が入る。
要するに旅人は塀の中に逃げ込んで、盗賊や野獣から身を守るのだ。
林に囲まれて建つ宿砦に、アンは馬車を乗り入れた。そして鉄の扉を閉じた。
半年ぶりに馬車に揺られると、さすがに疲れた。早々に休むことに決めた。
御者台の下に押しこんである、なめし革の敷物と毛布を二人分取り出す。一つは自分用に、馬車の脇に敷いた。そしてもう一組は、シャルに渡した。
「あなたの寝る場所、自分で選んで。それを敷いて寝てね。それに夕食はこれよ。少なくて申し訳ないけど、旅で贅沢できないから」
さらに葡萄酒を満たした木のカップと林檎を一個、シャルに渡す。
夕食は旅の先々を考えて、倹約した。
アンは毛布にくるまると、林檎を齧り、あっという間に平らげた。芯を遠くへ放りながら、葡萄酒を一気にあおった。冷たい苦みが胃の中に落ちると、すぐに熱に変わる。少し耳が熱くなったのを感じながら、敷物の上に丸まった。
シャルはアンから少し離れた場所に敷物を敷き、膝に毛布を掛けて座っていた。手には葡萄酒のカップを持ち、月を見ている。
今夜は満月だった。月光が、シャルの顔を照らしていた。
月光で洗われた妖精は、さらに端麗さが磨かれていた。露に濡れる、宝石の艶やかさだ。
背にある羽も、透けた穏やかな薄緑色に光る。
シャルの背にある羽は、もぎ取られたものと違って、彼の気分によっても色や輝きが微妙に変化しているように見える。
妖精の背にある羽は、温かいのだろうか。冷たいのだろうか。
無性に触れてみたくなった。
「妖精の羽って、綺麗ね。触っていい?」
訊きながら、手を伸ばしかけた。するとシャルの羽が震えてビリビリっとわずかに鳴り、続けてばたばたっと二、三度草の上を叩いた。
はっと手を引くと、シャルの鋭い目がこちらを見ていた。
「触れるな。おまえの手にあるもの以外は、俺のものだ」
その冷たい怒りに、アンは自分が、彼の羽を握っていることを思い出す。そして羽は妖精にとって、命に等しい大切なものだということも思い出す。
「ごめん。わたし、軽率だったね」
素直に謝り、シャルの横顔を見ながら、胸の前に下げられている革袋の紐を握った。
妖精にとって、羽は命の源。人間にとっての、心臓と同じ。他人の心臓を握り、命令をきかなければ心臓を握りつぶすと脅す。
アンがやっていることは、そういうことだ。妖精から見れば、悪魔の所業だろう。
そっとため息をつく。
──こんなこと、やだな。
こんな真似をしないで、シャルにお願いを聞いてもらえないだろうか。
例えばもし、彼と友達になれれば? そうすれば、彼を使役する必要はない。彼にお願いして、納得してもらい、彼女の望みのために協力してもらえるだろう。
「ねぇ、シャル。提案なんだけど」
アンは少し頭を起こした。
「昼間も言ったけど、わたしたち、友達になってみない?」
「馬鹿か」
切って捨てるように答えると、シャルは顔を背けた。
アンはがっかりして、頭を毛布につける。
──すぐには、無理かもね。でも誠意を持って接してれば、いつかわかってくれるような気もするし。それにしても、何を考えて月なんか見てるんだろう? 綺麗な目をしてる……。
瞼が重くなり、アンはうとうと眠りはじめた。