「──ここじゃないか?」
馨の声と車が止まる振動で、はっと我に返った。
道路から林の中へ脇道が延びている。木の板に墨で【黒鳥館】と書かれた案内板がひっそりと立っているのを見て、緊張がこみあげた。
「ちょっと待ってろ。屋敷の前まで送ってやる」
「あっ、いいの! すぐそこみたいだから歩いていくわ」
車をバックさせようとする馨を有紗は慌てて止めた。
もし何かの拍子に烏丸邸の人に挨拶でもされたら一発で噓がばれてしまう。それはまずい。この優しい叔父は、己の兄たちの企みを知らないのだ。
「そうか? 遠慮しなくていいのになぁ」
名残惜しげに馨は見つめてきたが、気を取り直したのか「じゃあ荷物おろすぞ」とドアを開けて外へ出た。
有紗も続いてドアを開ける。刺すような冷気が身体を包んだ。思わず襟巻きの中に首をすぼめる。
「わあ、寒い」
「うん。冷えるな。はしゃぎすぎて風邪引くなよ」
「わかってます。子どもじゃないんだから」
「子どもだよ、俺にとっては。──ほら」
小さな旅行鞄を渡され、有紗は礼を言って受け取った。これからはこの鞄だけが自分の味方だ。そんなふうに考えて、ぎゅっと胸に抱きしめる。
「あとな、これも持っていけ」
「えっ? なあに?」
ごそごそと馨が引っ張り出したのは大きな化粧箱だった。得意げに彼が開けた蓋の中身を見て、有紗は驚きのあまり頰を染めた。
淡い緑の、光沢のある布地。襟元にリボンがあしらってある。夜会用のドレスだ。
「綺麗……!」
「お嬢様方が集まるなら、夜は晩餐会とかあるだろうからな。おまえに似合うのを探すの大変だったんだぞー?」
驚きように満足したのか、悪戯っぽく頭をなでられる。
思いがけない贈り物に感激して有紗は馨に抱きついた。
「素敵! お嫁さんになってあげる!」
「ハッハッハ! それは無理だ! 俺は叔父でおまえは姪だから!」
「ええ、わかってる!」
抱き上げてくるくると勢いのまま何度か回ると、馨はようやく有紗を地面に下ろした。
「楽しんでこいよ」
笑顔で見つめてきた叔父の優しいまなざしに、一瞬胸が詰まる。つい何もかも打ち明けたくなったが、なんとか堪え、こちらも笑みを返した。
「ありがとう。叔父さま」
こうして見守ってくれる人がいるから頑張れる。きっと大丈夫だ。そう自分に言い聞かせた。
馨に別れを告げると、有紗は別荘に続く道を歩き出した。
背後でしばらく自動車のエンジンの音がしていたが、やがて遠ざかっていった。叔父に秘密がばれなかったことにほっとして、黙々と歩く。編み上げ靴の裏が雪を踏んできしきし鳴った。
林に囲まれているせいか、雪が解けずに残っている。いくつも轍が走っているのを見ると、宴の客を乗せた自動車が何台も通ったのだろう。
(……烏丸侯爵って、本当に怖い方なのかしら)
冬期休暇に入る前に、烏丸侯爵については自分なりに調べた。その結果、耳に入ってきたのはおどろおどろしい話ばかりだった。
『烏丸家といえば、京都の陰陽道の流れをくむ家柄なのですって。今でも式神がお屋敷中にいるそうよ』
『式神を使って婦女子を攫っているって聞いたことがありますわ。すごく色好みの方みたい』
『そうそう。烏丸邸に入ったはずの少女がいつになっても出てこなくて……そのまま行方知れずになったとか』
『西洋のお伽噺にあるでしょう。あれになぞらえて、〝青髭〟と呼ばれているそうですわ。怖いですわよねえ』
口々に噂話を教えてくれた級友たちを思い出し、思わずぶるっと震える。
(そんな怖い方の弱みなんて、どうやって探ったらいいの……!?)
林が途切れ、視界が開けた。
目の前に、どっしりとした煉瓦造りの門がある。【黒鳥館】と彫られたその向こうに、黒々とした影がそびえていた。
黒く塗られた壁と灰色の石で巧みに築かれた館。均等に造られた窓は菱形をしており、美しくも奇妙な印象を感じさせる。三階建てのようだが、いやに大きく見えた。
鉛色の空の下、どことなく陰気な雰囲気がただよう館を、有紗はごくりと喉を鳴らして見上げた。
(お屋敷からして早くも怖い……っ!)
屋根に留まった烏たちがガアガアと鳴くのも不気味で、つい回れ右しそうになる。
『姉さん、本当に友達の別荘に行くの? 何かあったんじゃないの?』
ふと、出かけ際に心配そうに訊ねてきた弟の玲弥の顔が脳裏に浮かんだ。
いつもと様子が違うのを敏感に察したのかもしれなかった。家族にも同じように噓をついて出てきたのだ。
ここで逃げ帰ったら、噓をついてまで来た意味がなくなってしまう。
(玲ちゃん、ごめんね。お正月を一緒に過ごせなくて、わたしも寂しいわ。でも待っててね。お姉ちゃまが必ず玲ちゃんを学校に行かせてあげるから!)
心の中で弟に誓うと、えいっと気合いを入れて有紗は黒鳥館へと足を踏み入れた。
◆◆◆
使用人のお仕着せは洋装だった。ここでは女中ではなくメイドと呼ばれるらしい。
襟と袖口だけが白い丈長の黒のワンピースと、仕事中はその上に白い前掛けをつけるのが決まりだ。
すんなりと潜入に成功した有紗は、メイドとして雑務に勤しんでいた。
この黒鳥館には今、年末年始を過ごすため訪れた烏丸家の当主と、招かれた客人たちが滞在している。彼らの世話をするのが仕事だ。同じように雇われた同世代の娘たちもいて、その点では心細い思いをすることはなかった。
(問題は、どうやって烏丸侯爵の秘密に迫るかということだけど……)
メイドという立場上、当主の傍近くに寄る機会はほぼないといってよかった。潜入して三日目、そろそろ動き出したいところなのだが、いまだに当主の顔すらわからない状況だ。
洗濯物の処理が終わったついでに、なんとなく当主の部屋があるらしき二階のほうをうかがっていると、にぎやかな声が飛んできた。
「あっ、ねえ、手空いてる? 雪かきしてるんだけど手伝ってくれない?」
外套を着込んだ若い娘が玄関からホールに入ってくる。
メイド仲間のミツだ。一足先に屋敷に雇われたという彼女は、有紗よりもいくつか年上の、話し好きな人だった。
「えっと。あんた、名前なんて言ったっけね。ごめんね、あたし忘れっぽくって」
けらけらと笑う彼女に、有紗も笑顔で応じた。
「新入りの市川有紗子です」
「あさこ? ああ、思い出した! 吉原様のご縁で雇われたとか言ってたね。可愛い名前だよねえ」
けたたましく手をたたくミツに、有紗は笑顔のまま、うんうんとうなずく。
潜入する手筈は伯父たちが整えてくれていたが、もちろん六条家の名は出せないし、本名も名乗るわけにはいかない。堂々と偽名を使って別人になりきっていた。
「そういえば、今なに見てたの? 面白いものでもあった?」
不思議そうに言われ、どきりとする。二階をうかがっていたのを見られていたらしい。
「いえ……、当主さまは全然お部屋から出ていらっしゃらないみたいですけど、閉じこもって何をなさってるのかしらと思って」
下手にごまかすと却ってあやしまれそうだと判断し、世間話のように答えると、ミツは納得したように大きくうなずいた。
「ほんと、変わった御方だよね。こんな田舎でわざわざ正月を過ごそうっていうんだから何か目的があるのかと思えば、引きこもって気配すらないんだから。まあ、お客様がまだそろってないからかもしれないけど」
「雪で到着が遅れていらっしゃるみたいですね」
「そりゃこうなるってもんだよねえ。招待するんなら帝都のお屋敷に招けばいいのに。お客様たちもいい迷惑だろうね。早くに着いたお客様たちも暇を持て余してらっしゃるしさ」
「そうですねえ」
笑って相づちを打ちながら、有紗はふと違和感を覚えた。
(確かにそうだわ。わざわざ帝都から離れたところにお客人を集めるのは、何か特別な理由があるんじゃないかしら)
一帯には多くの別荘があり、こんな雪の季節にも訪れている政財界人はいるらしい。馨の取材先もそうだ。しかし烏丸侯爵は変わり者で知られた人物だったはずである。帝都ならともかく、こんな鄙びた場所に呼ばれて律儀にやってくるような付き合いの客がそんなにいるのだろうか?
「ミツさんは、もう当主さまにお会いになったんですか?」
さりげなく探りをいれると、彼女は顔をしかめて首を振った。
「ううん。だって部屋から出てこないんだもん」
「どんな御方なんでしょうね。わたし、怖い噂を聞いたことがあるんですけど……」
「あ、あたしも聞いた! あやしの術を使うとか、財産を食いつぶす勢いで宝石を買い集めてるとかいうやつでしょ? なんでもその術のために宝石が必要とかで、すごい執念らしいじゃない。綺麗な指輪や耳飾りをしてた令嬢が攫われて殺されたって話だよ」
ひっ、と有紗は固まった。
(ま、ますます怖いんですけど……っ!)
当主の人となりを探るつもりが、余計に恐ろしい人物だというのがわかっただけだった。そんな人の弱みなんて、本当に握ることができるのだろうか。
「──ああ、そこのメイドさん」
ふいに男の声が降ってきて、震えていた有紗は我に返ってそちらを見た。
玄関ホールから二階へ延びる階段の踊り場に、若い男が立っている。
濃いグレイの三揃いに包んだ長身の体軀、すっきりと撫でつけた髪、彫りの深い整った顔立ち。どことなく外国の俳優を思わせる雰囲気があった。
彼は階段を下りてくると、気さくな様子で話しかけてきた。
「部屋まで珈琲を持ってきてくれますか。じゃあ──君にお願いしましょう」
二人のメイドを交互に見て、有紗ににっこりと笑いかける。外套を着たままのミツは屋外で仕事中だと判断したらしい。
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
さっとメイドの顔に戻り、有紗はうやうやしく答える。ミツも丁寧に一礼し、こちらに目配せしてから出ていった。雪かきは後でいいよ、ということらしい。
「新しく雇われたメイドさんかな。四年前にはいませんでしたね」
呼び止められ、厨房へ行こうとしていた有紗は振り向いた。
「はい。三日前からお勤めしています」
「三日前か。だったら当然何も知らないでしょうね」
楽しげに笑った彼を怪訝な思いで見つめる。一人でうろうろしている彼のことはこれまでに何度か見かけたことがあった。この館へ来た時に、当然だが客人たちの名前などは教え込まれている。
(この方は確か、伏見さま……だったわね。銀行の御曹司だそうだけど……)
烏丸家とどんな関係の人なのだろう。思わせぶりな言葉も気になってつい見つめてしまうと、なぜか彼のほうもじっと見つめ返してきた。
「ちなみに──君はどういった経緯でこちらにお勤めを?」
まさか客人である彼から突っ込んだことを訊かれるとは予想外で、有紗はどぎまぎしながら言葉を探す。
「え……と、吉原男爵さまのご紹介でまいりました。お正月の宴のためにメイドを募集しているとのことでしたので」
「ふむ、吉原男爵のね」
「……あの、何か……?」
もしかして素姓をあやしまれているのかと緊張したが、見つめていた伏見はそこで我に返ったように笑顔になった。
「ああ、失礼しました。四年前の使用人が集められているようなので、新入りさんが珍しくてね。ちょっと興味があったもので」
照れ笑いもさまになっている。有紗は不思議に思って彼を見上げた。先ほどから何度かその単語が出てくるが、なんなのだろう?
「四年前と仰いますと……?」
「四年前にも同じ時期に宴が開かれたんですよ。この館で」
メイドの出過ぎた態度を不快にとった様子もなく、彼はあっさりと教えてくれた。
「毎年恒例の行事のようなものでしょうか」
「いや……、あの時以来ですね。同じ面々が集まるのは」
「ご友人様方のお集まりなのですか?」
「ふふ。そんな楽しい会合ではないですよ。言うなれば……」
気障ともいえる仕草で肩をすくめた伏見が、内緒話をするように顔を寄せてくる。ふわりと、香水のいい匂いがした。
「秘密の共有者たちの反省会──というところです」
(……秘密?)
急に接近されて面食らいながらも、有紗は驚いて見つめ返した。
〝共有者〟の中には烏丸侯爵も当然含まれるのだろう。その秘密というのが何かの鍵になるかもしれない。
驚きに気づいたのか、彼は意外そうな顔になった。
「その様子じゃ本当に知らないんですね。あの話、誰にも聞いていませんか?」
「……? あの、何かあったのでしょうか? わたし、このあたりに来たのは初めてで」
伏見は傍の大きく開いた窓へと目を向けた。玄関前のポーチとそれに続く庭が見えている。
「四年前──ちょうどこんなふうに雪の積もった日でした。招待客の令嬢が忽然と消えて、行方が知れなくなったという事件があったんですよ」
「消えた……?」
そう、と伏見が深刻な顔でうなずく。
「吹雪の夜で、とても自分から出ていったとは考えられなかった。神隠しのような、不可思議な事件でね。身分違いの恋人との交際を反対されての覚悟の家出だの、この屋敷のどこかで心中をはかって発見されずにいるだの、招待客の誰かに殺されただの様々な憶測が飛びましたが──真相はわからないままです」
有紗は息を吞んだ。
不気味な館に、不気味な噂のまとわりついた当主。怖い怖いとは思っていたけれど、まさか現実にそんな事件が起きていたなんて。
「じゃあ、その方は今でも……?」
「ええ、見つかっていません。四年経ってもね」
そこで伏見は、ふっと表情をゆるめた。
「おや、怖がらせてしまったかな。退屈だったもので、つい口が滑ってしまいました。申し訳ない」
「あ──いいえ!」
「そうですか? それならよかった。では、珈琲をお願いしますね」
また話し相手になってください、とにこやかに笑って、彼は階段を上っていった。
彼が階上に消えるまで頭を下げて見送ると、有紗は急いで厨房に向かった。
(間違いないわ。その失踪事件こそ、烏丸家の秘密なんだわ!)
屋敷に入ったはずの少女が出てこなかったという、級友から聞いた噂話とも符合する。それにミツの話では、当主はあやしの術を使うらしいと言っていた。もしそれが本当なら、令嬢を神隠しのように消してしまうこともできるかもしれない。
(ひょっとして、その令嬢も烏丸侯爵の秘密を知ってしまったのかも。それで口封じされてしまった……? ううん、もしかしたら──)
有紗は足を止め、ごくりと喉を鳴らして振り返った。
消えた令嬢は、まだこの館のどこかに閉じこめられているのかもしれない──。