第一幕 乙女の潜入①
がくん、と
いつのまにかうとうとしていたらしい。着物の上に
「わ……、すごい雪!」
帝都からわずか一時間走っただけとは思えないような山脈が続いている。
一面の銀世界──この風景を表すとしたら他に言葉がないというくらいに見事な雪景色だ。
人気のない
「そろそろ着くぞ」
明朗な声に、はたと隣の運転席を振り返ると、ハンドルを握った
「なんだ、昨夜眠れなかったか? そんなに楽しみにしてたのか」
英国から取り寄せたとかいう、焦げ茶に細い紺の
「違います。子どもじゃないのよ」
ふくれて言い返したものの、有紗はすぐに口をつぐむ。今日の〝別荘行き〟を気にして眠れなかったのは事実だ。
「ちょっと、夢を見ていたの」
「ふうん。どんな?」
「……それは覚えていないんだけど」
こめかみを押さえ、有紗は首をひねる。とても懐かしい夢を見た気がするのに、どんな内容だったか思い出せなかった。
「昨夜眠れなくて、夢も忘れるほど
言い分を信じなかったのか、からかうように馨は言ったが、ハンドルをとられて「おっと!」と
「あら。叔父さまこそ、冬休みで浮かれてるんじゃない?」
「何を言う。俺は仕事だ。まったく、もうすぐ正月だってのに、こき使ってくれるよな」
「でもすごいわ。大物政治家の年末総会の取材だなんて。他にも記者がたくさん押しかけるんでしょう? わたしも行ってみたいわ」
「将来記者になったら来るといいさ」
にやっと笑って流し目をくれる彼に、有紗は
「もちろん行きます。その時には叔父さまより先に大スクープを連発してみせますからね」
「そりゃすごい。油断しないで待ってるよ」
楽しげに馨は笑ったが、またハンドルをとられたのか「うおっ」と声をあげて立て直した。雪の
「だ、大丈夫だ、心配するな! 無事に友達のところまで送ってやるからな」
軽口をたたいている場合ではないと思ったのか、しっかとハンドルを握り直した彼の横顔に真剣みが増している。有紗は何か言おうとしたが、結局は目を伏せて前に向き直った。
時は大正五年。
ご一新を機に開国が果たされ、さまざまな西洋文化が入ってきた。自動車もその一つだが、
叔父が自動車の運転ができると知っていたからこそ、別荘まで連れていってほしいと有紗も頼んだのだが──。
「しかし、やっぱり俺もついていったほうがいいんじゃないか? 年末年始に
ぎくりとして有紗は顔をあげる。
「いいえ! 仲良しの集まりなんだからお
「そうか? まあ、おまえにも付き合いってものがあるんだろうけど……」
すんなりと引っ込んだ馨が、どこか
「いいよなあ。長期
「え、ええ! とっても優しいお友達なの。ウフフフ……」
笑ってごまかしながらも、
(うう……。
帝都から近い別荘地として近年人気の
ちらりと、馨が心配そうな視線をくれた。
「おまえ、いつもみたいに『事件の匂いを
「そ、そんなことしないわっ」
「ほんとかぁ? おまえは俺に似て
まったく疑っていない馨を正視できなくなり、罪悪感でうずく胸を押さえつつ有紗はさりげなく窓の外に目を向ける。
(叔父さまに話したら、きっと止められるわ。それじゃ困るんだもの。わたしがなんとかしないと……)
事の起こりは、女学校が冬期休暇に入る少し前のこと。
六条家に──母方の
『おまえにやってもらうことがある』
待ち受けていた三人の伯父たちは、相変わらず高圧的な態度で、顔を合わせるなりそう言ってきた。
『まあ、なんでしょうか? わたしにできることでしたらなんなりと』
どうせろくでもないことだろうと思いながら、有紗はいつものように
一応、立場というものはわきまえている。いけすかない人たちであっても非礼は許されない。
彼らのほうもそれは
『相変わらず
『まったく。
ねちねちと言われるのもいつものことだった。慣れているので、とびきりの笑顔でさりげなく皮肉を返す。
『お
こうすると、へこたれないことに
(わたしみたいな小娘を、よってたかっていびるなんて大人げないと思っていたけど……まあ仕方がないわね。一番文句を言いたい相手が近くにいないんだものね……)
有紗の母、
ところが年頃になった小夜子は、父兄の期待をよそに駆け落ち同然で結婚してしまった。
その相手、つまり有紗の父である
大事な令嬢をかっさらったとして、父は六条家の
それでもいまだに気が収まらないらしく、時々こうして呼び出されては、ちくちく言われるというわけである。昔は悲しくて泣いたこともあったが、今や有紗は
(お父さまはお仕事で
いつものことだ、少し
『
すぐ下の弟の玲弥は、姉の目から見ても
『担任の先生いわく、どこの高等学校へ行っても問題はないそうですわ。大学のお話までされているとか』
『それは結構なことだ。進学させてやらないのは
『ええ、もちろん……』
『だが今の一乗寺の家にそんな金はない。孝介が戻る気配もないようだしな』
痛いところを突かれ、有紗は声を吞み込む。
仕事柄、薬草の仕入れなどで家を空けることが多かった父だが、半年前に出かけたきり帰ってこないのだ。連絡すら
おかげで店の営業にも
『玲ちゃんはなんとしても高校へ行かせます。あの子は勉強が好きなんです。それに、きっと大成してお国の役にたつ人材になりますわ。わたしが保証します!』
『進学するにもただでは行けないぞ。わかっているだろうが』
またしても有紗は
自分自身、六条家の援助で名門女学院に通わせてもらっている。当主の親戚だから、その
けれどこんなふうに言われるのであれば、なんの
『じゃあ、わたし学校をやめて働きます。弟たち三人とも、わたしが養って学校も出します』
近年は女性の社会進出が進み、職業婦人と呼ばれて活躍している。有紗もいずれは馨のような新聞記者になるつもりだった。
だから働くことに
『
『わたしにとってはそれは
『我らにとっては恥なのだ!』
『いいえ、わたしにとっては──』
『待て』
白熱しかけた口論を止めたのは、一番上の伯父である
『玲弥の学費を援助してやってもいい。必要ならば個人教師もつけてやろう。その対価としておまえが私たちの期待に
これは取引ではなく命令だ。どんな難題を出されるのかと思わず身構える。
『何をしろと
『青ヶ台湿原の別荘地に
『烏丸侯爵……?』
『いろいろと変わった
思わぬ話に驚いていた有紗は、
『……重要なお役目のようですけど、どうしてわたしに?』
『小娘が相手なら向こうも油断するだろう』
それは一理あるかもしれない。烏丸侯爵もまさか
『でも……、人を
三人の弟たちにはいつも言って聞かせている。噓をついては立派な大人になれない。顔をあげて堂々と歩けるように生きていくのよ、と。だがこの
『おまえのつまらない
『……!』
つまらない、と言われてさすがに頭に来た。かっと
(伯父さまたちがどんなふうにして六条財閥を大きくしてこられたのか、その
名門女学校に通わせてもらい、折々には家計の援助もしてもらっている。それくらいの金を出すことは六条家にとっては痛くもかゆくもないことだ。玲弥の学費だって同じことだろう。
けれど、だからといってそれを要求するのは
父が
『……わかりました。お引き受けしますわ!』
弟たちの学費も、ごはんも、おやつも、すべて姉である自分が調達してみせる。
その使命と、そして意地とで有紗は燃えていた。
(正当な報酬をいただければ何も問題はないんだもの。伯父さま方、今こそ