序 夜の夢



 月が浮かんだ濃藍こいあいの空。周りは木々がしげやぶ

 そして有紗ありさは、誰かの背中におぶわれて揺られている。


「だぁれ……?」

 背負ったまま山道を駆けていた誰かが、足を止めて振り返った。

「──起きたのか」

 寝ぼけまなこをこすっていた有紗は、ぱっと目を輝かせた。

「おにいちゃん?」

 暗くて顔がよく見えない。けれど、「そうだ」といつもの声が返ってきたので、すぐに安心した。

「お父さまとお母さまは?」

 彼の肩にしがみつき、顔をのぞきこもうと身を乗り出す。彼はまた歩き出していたが、足取りは先ほどまでよりも緩やかだった。

「ここにはいない」

「おうちにいるの?」

「ああ。今から帰るんだよ」

 その言葉にほっとして、それから、ここはどこだろうとあたりを見回す。

 黒々とした影が四方を取り囲んでいた。自分が深い森の中にいるのだとはわからなかったけれど、〝おにいちゃん〟と二人で散歩しているようで、少し嬉しくなった。

「ありさも歩くわ」

「だめだ」

「どうして?」

「子どもの足じゃ追いつかれる」

 真剣な声だった。手をつないで歩きたかったから、駄目だめだと言われてがっかりしたが、有紗は大人しく従った。それほど有無を言わさぬ響きだったのだ。

 それきり無言になった〝おにいちゃん〟の背中で揺られていたが、寂しくなってきて、おずおずと呼びかける。

「おにいちゃん」

「うん?」

「おなかがすいたわ」

 今度は〝おにいちゃん〟は駄目だと言わなかった。すぐに足を止め、背中から有紗をゆっくりと下ろしてくれた。

 眠る前に着ていたのと同じ、赤地に黄色の花柄が散った着物。その上に彼の外套がいとうがかけられていたことに初めて気がつく。暖かい毛糸の感触に包まれて幸せな気分になった。

 彼が取り出した小さな巾着きんちゃくを見て、有紗はほおを上気させた。

「あ! こんぺいとうね?」

「飲み込んじゃだめだぞ」

 こくんとうなずくと、彼が金平糖を一粒つまんで口元にもってきてくれる。ころん、と転がって入ってきたそれを有紗はにこにこしながら味わった。

「うまいか?」

「おいしい。……でも、へんなにおいがする」

「変な匂い?」

「あっちから……」

 彼は怪訝けげんそうに黙り込み、はっとしたように駆け出した。有紗も足袋たびのまま追いかける。

「おにいちゃん、まって!」

 少し先で木々が途切れ、夜の闇が口をのぞかせている。山道のとうげのようだ。

 開けた視界の一角が、赤く色づいていた。二人がやってきた方角だ。

 夜を照らすそれは、激しく燃えさかる炎の色だった。

「わあ。あれはなに? きれいねー!」

 無邪気むじゃきに喜ぶ有紗の隣で、〝おにいちゃん〟はしばらく何も言わなかった。

 やがて目の前にひざをついてしゃがんだ彼を見て、有紗はぱちぱちとまばたく。

「おにいちゃん、けがしてるの?」

 彼の頰に黒いすすがついていた。それまでは暗くて気づかなかったのだ。

「有紗、よく聞くんだ」

 彼は有紗の肩をつかみ、少し悲しそうな顔でのぞきこんできた。

「目が覚めたら、すべて忘れろ。今夜起きたことも──俺のことも、全部」

 そう言って、彼は有紗の目元を手でおおう。

「きっと守ってやるから。どこに行ってもおまえを見てる。だから安心して眠れ。いいな?」

 その優しい声を聞いたら、不思議と眠くなってきて──。


 そこでいつも、夜の夢は途絶とだえる。


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