「妖の頭領と言っても、俺と同じように守護領域を管理している者は他にもいてね。この場所は斎龍国の南側に位置しているけれど、他にも東には大湖を管理している大蛇族がいたり、都よりも北の山々は天狗が頭領として治めていたりするんだ」
玖遠に屋敷を端から端まで案内されながら、沙夜は妖の世界について教えてもらっていた。妖は本来、人間が去った古い屋敷や寺跡、祠や洞窟など、気に入った場所に勝手に棲むらしい。沙夜が知っている妖はそれまで「玄」だけだったので、あまり群れず、根無し草のように生きているものだと思っていた。
実際に妖の本質は自由気まま、妖力の強さが全ての基準とのことだが、一部の特殊な地域に棲んでいる妖は違うようだ。特に力の強い妖が「頭領」を務め、人間を通さない結界を展開して「守護領域」を管理し、配下の妖達を統率しているという。
玖遠の守護領域は四十町程の広さがあり、結界で山を二つ囲っている。その範囲の中で暮らす庇護下の妖もいる一方で、守護領域外に棲んでいる者達もいると教えてくれた。彼らは守ってもらっているお礼として、時折、野菜や肉などを届けてくれるとのことだ。
「他の土地にも妖は棲んでいるけれど、彼らは俺の庇護下じゃないからね。さっきも言ったように中には人間を喰う奴もいるから、もし見かけても近付かないようにしてね」
「は、はい……」
「それと守護領域内だとしても、屋敷の外に出る時は白雪を連れて行くんだよ」
「お供なら、お任せ下さい!」
胸を張りながら明るく返事をしたのは、厨から戻ってきた後、そのまま一緒に案内をしてくれている白雪だ。身長が沙夜よりも頭一つ分小さいので、つい、白くてふわふわしている耳を撫でてしまいそうになる。
だが、沙夜が何よりも気になっているのは、先程から視界の端に映る、様子を見に来ている妖達の存在だった。玖遠や白雪のように妖狐と呼ばれる種の妖だけでなく、二足歩行している獣だったり、毛むくじゃらで顔がない者だったりと、様々な妖がいるようだ。
彼らから向けられる視線は、決して心地よいものではなかった。壁に隠れるようにしながらこそこそと話しているつもりなのだろうが、しっかりと聞こえている。
「……頭領が人間を娶ったって、本当だったんだ……。うーん、おいら、人間は喰わないけれど、肉付きが美味しくなさそう……」
「俺達はまだ夢の中にいるんじゃないか? だって、お役目一筋の女嫌いで有名な、あの頭領だぜ?」
「今、朝。夢、違う。でも、確かに、あの人間、貧相……かも?」
「……銀竹、朝尾、紫吹。全部、聞こえているぞ。壁の陰から出てきたらどうだ?」
覗き見しながらお喋りしていた妖達に向けて、玖遠が腕を組みつつ、呆れたような口調で促した。彼らは気まずそうな表情を浮かべながら、沙夜達の前へと出てきた。
灰色の毛並みを持つ妖狐が銀竹で、尾が付け根から二つに分かれている二足歩行の猫の妖が朝尾、そして紫色の尻尾を持つ、鼠に似ている妖が紫吹というらしい。
「全く、覗き見とは良い趣味だな」
「よ、様子見ですよ、様子見! 頭領のお相手はどんな人間かなぁと思って!」
銀竹が苦笑しながら頬を掻いているが、目が泳いでいた。
「……まぁ、良い。屋敷を案内した後、お前達に沙夜を紹介しようと思っていたし」
玖遠が沙夜の背中に手を当てた時だ。
「──あら、紹介なんてしなくて宜しいですわ。人間の小娘如きが頭領様の妻になるなど、私は賛成しておりませんもの」
荒波を立てるような声色がその場に響き、沙夜達は視線を声の主へと向けた。
簀子の曲がり角に隠れていたのか、そこから現れたのは、顔は鼬だが人間のように衣を纏い、二足で立っている妖だった。焦げ茶色で丸い鼻からは髭が伸びており、全体的に茶褐色の毛並みをしている。その妖の瞳が沙夜の姿を捉えるとすっと細められた。
「人間なんて、ずる賢い上に卑怯なことばかりして、我ら妖に害を振りまくだけの存在でしょう? それをわざわざ娶ろうなど、騙されているのではありませんか」
その妖は沙夜に冷めた瞳を向けてくる。そこには敵意のようなものが宿っており、沙夜は小さく肩を揺らした。
……人間が妖を忌み嫌っているように、妖も人間のことを嫌悪しているのね……。
人間が妖を恐れている理由は知っているが、妖達が人間を嫌悪する理由は分からず、注がれる冷たい視線を受け止めるしかなかった。だが、突如、沙夜の視界が遮られた。玖遠がその妖の視線から守るように背中で庇ったからだ。
「……風香」
玖遠がその妖の名を呼んだ瞬間、ぴしりと屋敷の梁が軋む音が響いた。
周囲の妖達の中には逃げ出す者もいれば、青褪めて立ち尽くしている者もいる。
妖達の様子を見て、はっとした沙夜は顔を上げた。玖遠の横顔がわずかに見えたが、彼は怒りを宿した瞳で風香を見据えていた。金色の瞳は淡く光り、鋭く細められている。彼から漏れ出てくる冷たい空気は、その場を一瞬にして凍らせていた。
彼の横顔はぞっとする程に冷たく、沙夜は驚いて一歩後ろに身を引いた。
「それ以上、沙夜を貶める言葉を発することは許さない。……いいか。彼女は俺が選んだ、たった一人の妻だ。お前が沙夜を貶めるたびに、俺を侮辱することにもなるが分かっているのか?」
「っ……」
有無を言わせぬ圧を含んだ玖遠の言葉に、風香は引き攣った声を小さく上げた。圧に耐え切れなくなったのか、壁に手を突き、身体を支えるようにしながら立っている。
屋敷の中に木々が擦れ合うような音が増していき、その場の空気の重さによって息がしづらくなってきた時だった。
「……落ち着いて下され、玖遠様。このままでは屋敷が倒壊しますぞ」
突如、その場に響き渡ったのはしわがれた声だった。それまで誰もが抱いていた緊張は、諫めるような言葉によって少しだけ和らぐ。
風香の後方からひょっこりと姿を現したのは、よぼよぼとした足取りの犬の妖だった。瞼が開いているのか分からない程に毛深く、衣を纏っており、二足で立っている。
「あなた様の妖力の圧をこの老体で受けると、少しばかり辛いのです。どうか、この真伏に免じて、お怒りをお収め下され」
玖遠は真伏という犬の妖の方に視線を移すと一度目を閉じ、ふぅっと深い息を吐いてから瞼を開いた。それまで宿っていた冷たさと怒りは彼の瞳から消えている。
そのことに沙夜は密かに胸を撫で下ろした。
「……悪かったな。最近は制御出来ていると思っていたんだが」
「いいえ、いいえ、あなた様がその大き過ぎる妖力を制御するために、どれ程修練を積まれたのか、わしは深く存じております。玖遠様が『頭領』として、立派に務めていることも。……ですが、このたびの婚姻はあまりにも唐突なこと」
真伏の声色は穏やかだが、年長の者としての言葉の重みが宿っていた。
「あなた様の結婚はとても喜ばしいことだと思っております。……しかし、相手が人間となると、我ら妖も、はいそうですかとお祝いするのは難しいのです」
真伏は玖遠を見上げていた顔を沙夜の方へと向けてくる。瞼は伏せられているというのに、心の中を見透かされるような気がして、沙夜は自然と背筋を伸ばしていた。
「ここには人間に傷付けられた際に、助けて下さった玖遠様を頼って身を置いている者もおります。そこに人間が一人でも入ってくれば、間違いなく場は乱れますぞ」
真伏が言っていることは正しい。沙夜も自分が彼らにとっての異物だということは自覚しているし、最初から受け入れられるなんて思っていない。
「現に、あなた様のお母君である先代頭領が『婿』を迎えた際も……」
「──真伏」
玖遠が少し苦い表情を浮かべ、真伏の言葉を奪った。もしかすると、彼にとっては触れられたくはない話なのかもしれない。
「……もちろん、先代頭領達が苦労していた話は知っている」
毅然とした態度で玖遠は胸を張りながら、真伏だけでなく、他の妖達にも宣言するようにはっきりと告げた。
「だが、全て承知の上で、彼女を妻にすると決めたんだ」
そう言って、彼は一歩後ろで控えるように立っていた沙夜へと手を伸ばし、一瞬にして抱き寄せた。
「っ……!?」
密着した身体から伝わる熱と揺らぐことのない熱い視線に沙夜は戸惑い、身動ぎすら出来なかった。
「俺が沙夜を娶ることを祝福しろとは言わない。ただ、彼女に害をなすな。……それだけを各々の胸に刻んでおいて欲しい」
全てを撥ね除けるように、玖遠の声色は真剣なものだった。沙夜のためを思って守ろうとしてくれる彼の想いに、胸の奥が熱くなってしまう。
父の手から逃げたい沙夜は、これまで己のことしか考えていなかったのを恥じた。それ程に、強い意志を宿した彼の瞳は自分には眩しすぎた。
「……そこまで強い覚悟を持って、娶られるというのですね」
「ああ。俺にはもう、沙夜を娶らないという選択はないんだ」
玖遠の返答に、真伏は深く息を吐く。それは呆れではなく、渋々といった様子だった。
「ならば、あなた様のご意思に従いましょう」
真伏は静々と頭を下げる。他の妖達も戸惑っているようだが、沙夜を追い出そうという意思は見受けられない。
だが先程、反する言葉を告げてきた風香だけは違った。沙夜を憎々しげに睨んできており、唇を噛みながら踵を返し、その場を後にした。
「ほら、挨拶は終わりだ、終わり。各自、今日の分の仕事に取り掛かってくれ」
玖遠が手をぱんっと叩けば、妖達は間延びした声を上げながら、それぞれ別の方向へと去って行く。先程までの張り詰めた空気は消え去り、沙夜は縛られていたものから解放されたように、深い息を吐いた。
「……沙夜。さっきから、ずっと固まっているけれど……。大丈夫か?」
玖遠からの問いかけに、沙夜は一瞬だけ肩を震わせる。目の前にいる彼は、心配する顔で沙夜を見ている。そこには冷めた感情は一つも宿っていない。
……今はこんなにも穏やかな表情をしているのに、先程の玖遠様は……まるで別人のようだったわ……。
特に風香を睨んでいた際の金色の瞳は、自分に向けられたわけではないというのに、背筋が凍りそうだった。自分にとっては優しく温かな人だと思っていたが、あの鋭い双眸を見た時、今更ながら彼は妖の頭領なのだと実感した。
「……やはり、妖は怖いか?」
玖遠には沙夜が怯えているように映ったらしい。彼は一瞬だけ寂しそうに目を細めた。「妖」と呟いたその中に彼自身が含まれている気がして、沙夜は必死に頭を振った。
「いいえっ。そういうわけではないのです」
沙夜は思わず、玖遠の袖をきゅっと握った。
自分の知らない玖遠の一面を見てしまい、少し驚いただけだ。だが、先程の頭領としての玖遠を見ても、怖いという感情は生まれて来なかった。
「確かに妖の中には恐ろしいものもいるでしょう……。ですが、妖は決して、恐ろしいだけの存在ではないと思うのです」
目の前の玖遠のように、心優しい妖がいることを自分は知っている。他にも、と考えた時、脳裏に浮かんだのは玄のことだ。
……あの子は……「玄」は今も元気にしているかしら……。
玄とは二度と会うことは叶わなかったが、沙夜にとっては大事な思い出の一つだ。
「……君は屋敷から出られなかったと聞いていたけれど、妖と会ったことがあるのか?」
訝しむ、というよりもどこか確かめるような問いかけだった。
「実は幼い頃、子狐の妖と親しくなったことがありまして。少しの間、一緒に過ごしただけでしたが、とても楽しくて……。心が満たされる日々をその妖から貰ったのです」
「……そうか。幼い君にとって、その妖との思い出が少しでも輝かしいものだったのなら、俺としても嬉しい限りだ」
沙夜が顔を上げれば、そこには優しい目をした玖遠がいた。
喜ばれるようなことは言っていないはずだが、と首を傾げていた時だ。
「玖遠様。もう一通、便りが届いたのでそちらにも返事を書いて頂きたいんですが」
背後から生真面目そうな声がかかり、振り返った。沙夜よりも少し年上に見える青年は、両手で紙の束を抱えつつ、こちらを見ていた。
よく見ると、青年は橙色の髪を一つに括っており、髪と同じ色の耳が頭にぴょんと生えていた。もしかすると、玖遠と同じ妖狐なのかもしれない。
「ああ、八雲。ちょうど良い時に通ったな。彼女が俺の妻となった沙夜だ」
「……」
八雲と呼ばれた妖は眉を寄せただけで、言葉を返すことはない。何となく、沙夜は彼から歓迎されていない雰囲気を感じ取り、ひとまず頭を軽く下げるだけに止めておいた。
「……とりあえず、早く返事を書いて下さい。以前のように、十日も放置するようなことはなさらないで下さいよ。いい加減にしないと、相手方の気に障ります」
「分かってはいるんだが、返事を書くのは苦手なんだよ」
「だから、こうやって早めに書くようにと申しているのです」
そう言って、八雲は玖遠に紙の束を押し付けるように持たせ、彼の背中を押しながら急かし立てた。
「ああ、もう、分かったから、押すなって! ……お前は真面目で良い奴なんだが、本当に融通が利かないな……」
玖遠は深い溜息を吐きつつ、小さく振り返る。
「沙夜。また後で案内をするから、さっきの部屋で待っていてくれる? すぐに戻ってくるから」
「あ……。ど、どうか、私のことはお気になさらず……」
玖遠は申し訳なさそうな顔をしていたが、やるべきことをさっさと片付けようと、その場から早足で去っていった。一仕事終えたと言わんばかりに八雲はふっと短く息を吐き、拒絶するような鋭い視線を沙夜へと投げかけてくる。
「……言っておくが、僕はお前を玖遠様の妻として、認めたわけじゃないからな」
「っ……」
八雲はそれだけを言い残し、ふんっと鼻を小さく鳴らして、玖遠の後に付いて行った。
彼の一言に対して、どのように返事をすれば良かったのだろうと沙夜が戸惑っていると、白雪が袖を小さく引いたため、振り返った。どうやら、白雪にも八雲が沙夜へと言い放った言葉がしっかりと聞こえていたらしい。彼女は少しだけ困ったような顔をしていた。