「あ、あの、八雲さんが失礼なことを言ってしまい、申し訳ございません……。特に人間嫌いな方でして……」
「ううん、大丈夫よ。……でも、妖も人間を嫌っている方が多いのね」
「それは……人間達による妖狩りのせいかと」
「妖狩り?」
初めて聞く言葉に、沙夜は首を傾げる。
「えっと、妖に対処出来る術を備えた人間が、妖を捕まえたり、殺めたりすることです」
「……!」
沙夜は思わず漏れそうになった声を出さないようにと、咄嗟に口を両手で押さえた。
……だから、妖も人間のことを嫌っているのね……。
お互いに嫌い合っている理由を知り、それならば八雲が人間の自分に向けた視線の意味も分かる気がした。
「八雲さんはご家族と共に妖狩りに遭ってから、人間を酷く嫌うようになったそうです。その際に玖遠様に助けられて、腹心となったと聞きました。ここには同じように妖狩りの手から逃れてきた者が多いのです」
「……白雪も、その……人間に、傷付けられたの……?」
答えを聞くのが怖かったが、沙夜は恐る恐る訊ねた。白雪は首を横に振りつつ、ほんの少しはにかんだ。
「私はお腹を空かせて倒れているところを玖遠様に拾って頂いたのです。その時、頂いた干し柿が最高に美味しくて……」
白雪は恍惚とした表情を浮かべたが、すぐさま我に返った。
「なので、恩義を受けた以上は返そうと思い、こうしてお仕えすることを決めたのです」
「そういえば先程、真伏さんが玖遠様に助けられた妖は多いって言っていたけれど……。『頭領』というものは皆そうなの?」
「玖遠様はどちらかと言えば、変わっている方ですね。他の頭領達の中には妖力の強い妖を引き抜いて配下にしたり、厳しい上下関係を強いている者もいるそうです」
「でも、白雪達と玖遠様との距離は近いように見えたわ。……玖遠様をただ慕っているだけじゃなくて、お互いの接し方に気安さもあるというか」
「それはきっと、玖遠様の人柄がなせる業というやつですね! ……玖遠様に自覚は無いようですが、お人好しなところがありまして。弱い立場の妖や困っている妖を見つけると放っておけないそうです。なので、そんな玖遠様を慕っている者が集うこの場所は、比較的性格が穏やかで妖力が弱い妖が多いんです」
白雪が語る頭領としての玖遠は、沙夜が知っている彼と似ているようで違うものだ。
……ああ、だから彼らは私に害意を向けてこないのね……。
玖遠は懐が深いだけでなく、弱い立場の者と同じ目線に立っているからこそ、彼らの気持ちに配慮した心配りが出来るのだろう。
たとえ、沙夜のことを妖達が快く思っていなくても、「妻」として迎えられたことに目を瞑ってくれているのは玖遠のおかげなのだと改めて思った。だが、それは「沙夜自身」が認められたわけではないと分かっている。
先程の八雲が沙夜へと吐き捨てるように告げたのは、「人間」である自分が玖遠へと害をなさないか警戒しているからに違いない。
「……玖遠様は本当に、人望がある方なのね」
「はい、とてもお強くて、頼もしい方ですから」
笑って答える白雪も、沙夜が知らない頭領としての「玖遠」を知っているのだろう。
……どうして、あの方は私を妻にして下さったのかしら……。
もちろん、実家から逃げるために手を差し伸べてくれた玖遠には感謝している。それなのに自分を助けてくれた相手のことを何も知らないのだ。
だからこそ、少しずつでいいから玖遠について知りたいと思った。
……そうしたら、いつか、あの方に返せるかしら。今まで貰った優しさや温もりに代わる、何かを……。
今の自分には何もない。けれど、彼の「妻」となったからには、自分も他の妖達のように恩を返すために尽くしたいと思った。
……私も「妻」として、ここで生活していくなら、それに相応することをしないと。
でなければ、人間である自分はここに居てはいけない気がしてならなかった。
● ● ●
その日の夜、畳の上で沙夜は玖遠と向かい合わせに座っていた。
妖の中には夜の時間帯になるにつれて活発になる者もいるそうだが、人間と同じように夜に眠る者も多いらしい。玖遠はどちらかと言えば、後者だという。
寝所で沙夜は玖遠に頼み事をしていた。
「つまり、何か仕事が欲しい、と?」
「はい。不慣れ故に迷惑をかけると思いますが、少しずつ覚えていきますので……」
「そうは言っても、配下の妖達に普段から担当してもらっているからなぁ」
彼の「妻」として何が出来るだろうと考えた結果、沙夜は他の妖達のように仕事をもらえないかと玖遠に掛け合った。
この屋敷で共に暮らしている妖達はそれぞれ担当している仕事がある。例えば、守護領域の巡回や部屋の掃除、山菜の採取、他にも作物の栽培といった仕事だ。
「それに君はあの屋敷で、やりたくもないのにずっと無理に働かされていたんだ。……ならば、せめて俺の傍に居る時は、自由に好きなことをしていて欲しいんだよ」
眩しいものを見るように、玖遠は目を細めた。
「……何故、ですか」
「ん?」
「どうして……玖遠様はそんなに、私を気遣ってくれるのですか。あなたは私を助けるために『妻』として、ここに置いてくれるというのに、私は何も持っていないのです……。あなたに何も返すことが出来ないのに、どうして……」
玖遠から次々と渡されるものはどれも温かくて、優しくて、けれど自分には馴染みのないものばかりだ。だからこそ、素直に彼の厚意を受け取っていいのか、戸惑ってしまう。
「それは違うよ、沙夜。……俺はすでにたくさんのものを君から貰っている」
夜の空気にゆっくりと溶けていったのは、心地よい声音だった。
「……どんなに自分が辛くても、自分以外の誰かのために優しさを与えることが出来るのは、並大抵のことではないよ。それは沙夜だけの強みだ。……俺はね、君のその優しさに救われたことがあるんだ」
「私が、玖遠様を……?」
しかし、玖遠を手助けするようなことをした覚えはないため、首を傾げてしまう。
「他者を気遣うことを教えてくれたのも君だ。それまでの俺は自分のことばかり考えて生きて来たから衝撃を受けたくらいだよ。でも、そのおかげで頭領としての俺がいるんだ」
それに、と玖遠は言葉を付け加えた。
「君とこうやって言葉を交わす穏やかな時間は、何よりもかけがえのないものだと思っている。この時間は俺にとって、糧となるものだ。……沙夜はどうかな?」
「……私も、玖遠様とお話しする時間はとても好きです」
「中々、嬉しいことを言ってくれるね。……君が共に過ごす時間を好きだと言ってくれたように、俺にとってもすでに自分の一部となって切り離せなくなっているんだよ。……つまり、それ程に気に入っているってこと」
気付けば、膝の上に置いていた手に、玖遠の手が重ねられている。沙夜が顔を上げれば、こつん、と玖遠と自分の額が軽く重なる音がした。
「君が救いを求め、そして俺はその手助けが出来る力を持っている。……ならば、手を差し伸べるのは当然のことだ。だって、俺は自分の一部を失いたくはないからね」
沙夜の境遇を知り、同情で付き合っているわけではなかったのか。それよりも、自分との時間が彼にとっての一部だと言われたことが、どうしようもなく嬉しいと思った。
「でも……。何か、出来ることはありませんか。玖遠様の『妻』である以上、私も何かをしなければ……」
「焦らなくてもいいんだよ」
玖遠は右手で、沙夜の左頬へとそっと触れた。
「やらなければならないこと、ではなくて……君がやりたいと思うことをこれから見つけていくといい」
「やりたいこと……?」
「何でも良いんだ。……知らなかった花の名を知ったり、食べたことがないものを味わったり、見たかった美しい景色を眺めたり。少しずつ、小さな欲を作っていけばいい。……俺はね、そんな小さな欲を君と共有したいと思ったんだ」
開け放した蔀から入ってくる月明かりが玖遠の顔を照らした。そこには沙夜を慈しむような優しい笑みがあった。
それでも沙夜は玖遠が何故こんな表情を自分に向けてくれるのか、分からなかった。
「要するに君が好きなものを知りたいってことだよ」
「私の……好きな、もの……」
好きなものなんて、ない。いや、分からないのだ、自分のことなのに。
そんな沙夜の様子に気付いたのか、玖遠は頬に触れていた右手で、零れ落ちていた沙夜の髪を掬うように指先に絡めていく。
「ゆっくりでいいからお互いに知っていこう。……今まで二人で築いたものに重ねるように新しく、好きなことを見つけていこう。それが、俺が君へと望むことだ」
「……」
気を張らなくていいのだと、言ってくれているようだった。
……望まれているならば、私も……少しだけ、声を上げてもいいのかしら。
今も心の奥から蘇ってくるのは、かつて父に告げられた言葉。
『──お前は何も望んではならない。お前の望みは誰かを不幸にするものだ』
その言葉を思い出すたびに、ずきりと胸が痛む。
けれど、今だけは違う。玖遠が望んでくれるならば、彼と共に好きなものを見つけてもいいのでは、とほんの少しだけ縛りを緩めることが出来た気がして、沙夜は顔を上げた。
「……それなら、あの……玖遠様と一緒に……外を歩いてみたい、です」
叶うなら、いつも壁越しに玖遠が教えてくれる世界を彼と共に見たいと思っていた。
窺うように玖遠を見上げれば、彼は沙夜の小さな望みの内容が意外だったのか、少しだけ目を丸くし、やがて柔らかな笑みを浮かべた。
「もちろん、いいとも。それなら今度、一緒に屋敷の周辺を散策しようか。色んな草花を沙夜に教えてあげるよ」
玖遠は否定することなく、頷いてくれた。それが何だか心地よくて、胸の奥に新たな熱が生まれた気がした。ああ、そうだった、と沙夜はやっと気付けた。思い出したのは、実家で玖遠と秘密の逢瀬を重ねていた時のことだ。
……この方が私のことを知りたいと仰ってくれたように、私も……玖遠様が「好き」なものを一つずつ知っていきたいと確かに思っていたのに。
それはきっと、自覚していなかった小さな欲だ。何故なら、玖遠が一番好きな花を教えてくれた時、自分にだけ彼の秘密を明かしてくれたようで嬉しかったのだから。
「……楽しみに、しています」
髪に絡められた玖遠の指先に手でそっと触れつつ答えれば、彼は嬉しそうに破顔した。
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続きは本編でお楽しみください。