翌日の夜、沙夜は少し拍子抜けした気持ちで針仕事を進めていた。明日を楽しみにしているといい、と父は言っていた。だが、日中に訪ねて来ることはなく、今はもうすっかり夜更けだ。
……昨日の胸騒ぎは気のせいだったのかしら。
取り越し苦労だったのならば、それで良い。さすがに今日はもう来ないだろうと思っていた時だ。門が開く音が聞こえた気がして、沙夜は動かしていた針を止めた。
「……?」
このような夜更けに父が訪ねて来たことは無い。耳を澄ませば、砂利を踏む音が聞こえたが、その足音は二つ分、重なっているようだった。
足音の一つは父のもので間違いないだろう。父は上品とは程遠い、砂利を蹴るような足音を立てるからだ。だが、もう一つの足音は誰のものかは分からない。食事を運んでくる使用人の誰かかと思ったが、その者達の歩き方とは違う気がした。
奇妙に思った沙夜は持っていた針を針山へと刺し、息を潜める。
暫くすると、二つの足音は履物を脱いで階を上って来た。御簾には二人分の人影が映っているが、誰が立っているのか、顔までは分からなかった。
「沙夜よ、わしだ」
やはり、父だったようだ。機嫌の良さそうな父の声が何故か不気味に感じられて、沙夜は思わず身体を強張らせた。
「……あの、お父様。申し訳ございません……。昨日、新たに仕立てを頼まれたものならば、まだ仕上がっておりません。明日までには……」
「ああ、そのことではない。昨日、言っただろう。明日を楽しみにしているといい、と。お前に許嫁を紹介しようと思って、連れてきたのだ」
「……は、い?」
許嫁、という言葉の意味は分かる。それは確か、結婚の約束をしている男女のことを指すはずだ。
「待ちに待った成熟の日がやっと来たのだ。故にこれから結婚してもらおうと思ってな」
父の話はちゃんと頭に入ってきているというのに、理解することは出来なかった。
思わず、胸元で手をきつく握り締める。瞳を揺らす沙夜にはお構いなしに、父は言葉を続けた。
「この者はわしの弟の息子で、名を清宗という。この榊原家の次期当主となる者だ」
父の命令はいつだって絶対だと分かっている。それでも頭の中は大嵐が来たように混乱していた。
「さぁ、清宗よ。後は任せたぞ」
「はい、伯父上。ここまで案内して頂き、ありがとうございました」
もう一つの影が父へと言葉を返した。その取り繕ったような猫撫で声の男の関心が自分に向いたのが分かり、鳥肌が立つ。沙夜は引き攣りそうになった声を何とか抑えた。
「良い、良い。お前はわしにとっても息子のようなもの。……どちらが上の立場なのか、沙夜にしっかりと教えてやりなさい」
父はそれだけ伝えると、さっさと沙夜の前から去っていった。その場に残ったのは自身の許嫁と紹介された「清宗」という男だけだ。
「初めまして、許嫁殿。いや、『いとし子』と呼んだ方が良いかな?」
まるで愉快で堪らない、と言わんばかりに浮ついた声音で話しかけてきた清宗は、二人を隔てる御簾を片手で簡単に上げた。
「っ……」
するり、と中へ入ってきたのは烏帽子を被った青年だった。細面で糸目だが、鼻筋は沙夜の父と似ているようだ。浮かべている笑みが妙に不気味に思えて、沙夜は座ったまま後ろへと下がった。
「思っていたよりも身体つきが貧相だな……。まぁ、子を生せるならば、それで良いか」
清宗は沙夜の姿を上から下まで舐めるように眺めた後、どこか残念そうに言った。
「……っ、はっ……」
声を出したいのに何故か喉の奥が詰まり、右手で喉元に触れた。冷や汗を掻いてしまうのは、自分がこの男に恐れを抱いているからだと気付く。
震えている沙夜に、清宗は喉を鳴らすように低く笑い、膝を立てて座った。
「そんなに怯えるなんて酷いなぁ。私は君の夫となる男だぞ?」
「私の、夫……」
浅い息を吐きながらもやっと声を出すことが出来たが、その言葉の意味を理解したくはないと身体が拒否しているのが分かる。
「そうだとも。『いとし子』の夫として私は選ばれたのさ。だが、世の慣習に倣って、成人しなければ、結婚出来ないからね。……今日が来るのをずっと待ち望んでいたんだよ」
清宗はにこやかに微笑むも、沙夜にとっては恐怖を掻き立てるものでしかなかった。何故なら、その笑みには自分に逆らうことは許さないという意思が見え透いていたからだ。
……「いとし子」……? この方は、一体何を言っているの……?
よく分からない言葉だったが、そのことについて思考する余裕などなかった。
「さぁ、さっそく夫婦になろうか。大丈夫さ、怖くはないよ。……これでも女性を喜ばせるのは得意なんだ。ちゃんと可愛がってあげるから、安心するといい」
清宗は膝を進め、沙夜へと手を伸ばしてくる。彼の指先が沙夜の膝をなぞるように触れた瞬間、ぞわりと冷たいものが背筋を流れ、全身に鳥肌が立った。
……嫌だ。この人には、触れられたくない……!
嫌悪を感じた沙夜は、思わず右手の傍にあった衣の塊を清宗に向かって投げた。衣が清宗の顔を覆ったため、沙夜は素早く立ち上がり、距離を取るように後ろへと下がる。
「ははっ、照れているのかい。初心で可愛いじゃないか。……まぁ、今まで囲われて暮らしていたならば、男を知っているわけがないか」
清宗は沙夜の反応を楽しんでいるように見えた。沙夜が怯えることで、支配していると思っているのだろう。
震える足を何とか動かし、沙夜は清宗が入って来た御簾とは反対方向の場所から、転がるような勢いで簀子へと出た。唯一の出入り口となる門は、恐らく清宗の用事が済むまで閉められたままなのだろう。逃げ場はないと分かっていても、逃げなければこの身に危機が迫ると察した沙夜は庭に続いている階へと足を向けた。
しかし、纏っている衣の裾を後ろから踏まれたことで、がくん、と沙夜はその場にくずおれる。
「おっと、つい踏んでしまったが、怪我はないかい?」
心配するような物言いをしながらも、清宗は沙夜の腕を強く掴んできた。
「初めてのことに恥ずかしがっているのは分かるが、手間を掛けさせないでくれよ?」
「っ……!」
清宗は沙夜を簀子の床へと押し倒し、両手首を掴む。舌なめずりをしている彼の顔を見たくはなくて、思わず顔を逸らした。
……嫌っ……。触らないでっ……! 誰か、誰か、助けてっ……。
何とも言い難い恐怖と気持ち悪さが沙夜を襲ってくる。たとえ声を出して助けを呼んだとしても、ここには誰も来ないと分かっている。「父」の意思は榊原家の総意だ。
「ほら、君の瞳を私にじっくりと見せてくれ。……ああ、何と素晴らしい……! 君はやはり、『宵闇色』の瞳の持ち主なんだね……! これこそが『いとし子』の証……!」
確かに沙夜の宵闇色の瞳は夜空がはめ込まれたような色をしており、父や使用人達の黒い瞳とは違う。それを清宗がうっとりと見つめてくるのが酷く気持ち悪かった。
清宗は沙夜の帯の結び目を手慣れたようにするりと引いた。抵抗したくても、床上に押さえつけられているため、力は入らない。
……生きていても……こんなに辛くて苦しいことしかないなら……いっそのこと、心なんて無くなってしまえばいいのに……。
何もかもに絶望して思考が閉じかけた時、頭に一つの声が浮かんでくる。
──沙夜。
優しくて、真っ直ぐで、いつだって沙夜を気遣ってくれる声。その姿を瞳に映すことは出来なくても、自分にとっては唯一の心の支え。
心に浮かんだのは、たった一人。──玖遠だけだった。
「た……け、て……」
沙夜は最後の力を振り絞るように声を発した。
「助けてっ……。玖遠様っ──!」
心からの叫び声を上げた瞬間、身体が揺れる程の轟音がその場に響き、土煙が混じった突風が吹き抜ける。
「っ!? 何だ……!?」
それまで余裕の表情を浮かべていた清宗は焦ったように、突風の発生源の方へ顔を向けた。沙夜も仰向けのまま、音がした築地の方へと視線を動かしたが土煙で何も見えなかった。
「──沙夜に、何をしている」
突如、耳に入って来たのは、心臓に突き刺さるように鋭く低い声だった。
「なっ……誰だっ!? ──ぎゃっ!?」
土煙の中から青白い火の玉が飛んできたと思えば、沙夜に跨っていた清宗に直撃し、一瞬にして吹き飛ばしていった。清宗は屋敷の柱に身体を打ち付けたことで気を失ったのか、ぐったりとした様子で動かなくなった。
何が起きたのか分からず、身体を起こそうとしたが手が滑ってしまう。頭が再び床上へと打ち付けられそうになり、思わず目を瞑った時だ。ふわりと吹いた柔らかな風が沙夜の身体を包み込み、気付けば誰かの腕によって抱き留められていた。
「──沙夜。……沙夜っ、大丈夫か?」
「……えっ?」
降って来たのは耳慣れた声だった。その声音が自分の身体を支えてくれている相手のものだと気付く。
「君が俺を呼ぶ声が聞こえたが……。この男に何もされていないか?」
「その、声は……。まさか……玖遠様……?」
沙夜は瞼を開き、自分を心配する優しい声の主へと問いかける。
それまで月を覆っていた雲が途切れ、沙夜は改めて玖遠の姿をはっきりと目にした。
凜々しくも、思わずはっとしてしまう程に人間離れした美貌。沙夜はいつの間にか彼の容姿に魅入られたように見つめてしまう。月明かりに照らされている濡羽色の髪は艶やかで、目元は涼しげながらも意志が強そうに見えた。
だが、何よりも驚いたのは彼の瞳が金色だったことだ。まるで獣を彷彿とさせる鋭い瞳は月の光に反射するように光って見えた。
「……直接、顔を合わせるのは初めてだったね」
問いかけに答えるように彼の表情が少しだけ緩んだが、その口元に何故か艶めかしいものを感じてしまう。
「玖遠、様……」
いつか、ほんの一瞬だけでもいい、会いたいと思っていた相手が目の前にいる。込み上げてくるものがあった沙夜は、先程までの緊張を忘れたように視界が滲んでしまう。
「本物の、玖遠様……」
「……そうだよ」
「でも、今日は……約束の日ではないのに……」
「君が成人する日に祝わないと意味がないと思って、会いに来たんだ。……でも、沙夜に詫びなければならないことがあって……」
玖遠はどこか気まずそうに眉を下げる。
「桜の枝を手折ってきたんだけれど、ついさっき花びらが全て散るという不手際が起きてしまってね。……贈るのはまた、別の機会でも良いだろうか」
「そんなっ……。お気持ちだけで十分です……! それに玖遠様にお会い出来たことが、何よりも嬉しいですから……」
「沙夜……」
玖遠は表情を和らげ、目を細めた。金色の瞳の中には沙夜の姿だけが映っている。
「──大きな音がしたが、一体何事だ!?」
暫く、玖遠の瞳に見入っていた沙夜は、父の怒鳴り声と共に門の方が騒がしくなったことに気付き、はっとする。
「……さっきの轟音で気付かないわけがないか」
玖遠は肩を竦めながら、溜息を吐いた。
そういえば先程の震動は何だったのだろうと沙夜が再び視線を向ければ、築地があったはずのその場所には人が通れる程の大きな穴が開いていた。
……まさか、この大きな穴を玖遠様が一人で開けたというの……?
とてもではないが人間業とは思えず、沙夜は目を見開いてしまう。
やがて、開いた門から砂利を蹴るようにしながら父が庭へと入って来た。