一章 夜半の逢瀬②

 翌日の夜、沙夜は少しひようけした気持ちで針仕事を進めていた。明日を楽しみにしているといい、と父は言っていた。だが、日中に訪ねて来ることはなく、今はもうすっかりけだ。

 ……昨日のむなさわぎは気のせいだったのかしら。

 取り越し苦労だったのならば、それで良い。さすがに今日はもう来ないだろうと思っていた時だ。門が開く音が聞こえた気がして、沙夜は動かしていた針を止めた。

「……?」

 このような夜更けに父が訪ねて来たことは無い。耳をませば、じやむ音が聞こえたが、その足音は二つ分、重なっているようだった。

 足音の一つは父のものでちがいないだろう。父は上品とは程遠い、砂利をるような足音を立てるからだ。だが、もう一つの足音はだれのものかは分からない。食事を運んでくる使用人の誰かかと思ったが、その者達の歩き方とは違う気がした。

 みように思った沙夜は持っていた針を針山へとし、息をひそめる。

 しばらくすると、二つの足音ははきものいできざはしを上って来た。には二人分のひとかげが映っているが、誰が立っているのか、顔までは分からなかった。

「沙夜よ、わしだ」

 やはり、父だったようだ。げんの良さそうな父の声が何故なぜか不気味に感じられて、沙夜は思わず身体を強張らせた。

「……あの、お父様。申し訳ございません……。昨日、新たに仕立てをたのまれたものならば、まだ仕上がっておりません。明日までには……」

「ああ、そのことではない。昨日、言っただろう。明日を楽しみにしているといい、と。お前に許嫁いいなずけしようかいしようと思って、連れてきたのだ」

「……は、い?」

 許嫁、という言葉の意味は分かる。それは確か、けつこんの約束をしている男女のことを指すはずだ。

「待ちに待った成熟の日がやっと来たのだ。ゆえにこれから結婚してもらおうと思ってな」

 父の話はちゃんと頭に入ってきているというのに、理解することは出来なかった。

 思わず、むなもとで手をきつくにぎめる。ひとみらす沙夜にはお構いなしに、父は言葉を続けた。

「この者はわしの弟のむすで、名をきよむねという。この榊原家の次期当主となる者だ」

 父の命令はいつだって絶対だと分かっている。それでも頭の中はおおあらしが来たように混乱していた。

「さぁ、清宗よ。後は任せたぞ」

「はい、伯父おじうえ。ここまで案内して頂き、ありがとうございました」

 もう一つの影が父へと言葉を返した。その取りつくろったようなねこで声の男の関心が自分に向いたのが分かり、とりはだが立つ。沙夜は引きりそうになった声を何とか抑えた。

「良い、良い。お前はわしにとっても息子のようなもの。……どちらが上の立場なのか、沙夜にしっかりと教えてやりなさい」

 父はそれだけ伝えると、さっさと沙夜の前から去っていった。その場に残ったのは自身の許嫁と紹介された「清宗」という男だけだ。

「初めまして、許嫁殿どの。いや、『いとし子』と呼んだ方が良いかな?」

 まるでかいたまらない、と言わんばかりにうわついた声音で話しかけてきた清宗は、二人をへだてる御簾を片手で簡単に上げた。

「っ……」

 するり、と中へ入ってきたのはかぶった青年だった。ほそおもてで糸目だが、鼻筋は沙夜の父と似ているようだ。浮かべているみが妙に不気味に思えて、沙夜は座ったまま後ろへと下がった。

「思っていたよりも身体からだつきが貧相だな……。まぁ、子をせるならば、それで良いか」

 清宗は沙夜の姿を上から下までめるようにながめた後、どこか残念そうに言った。

「……っ、はっ……」

 声を出したいのに何故かのどの奥がまり、右手で喉元にれた。冷やあせいてしまうのは、自分がこの男におそれをいだいているからだと気付く。

 ふるえている沙夜に、清宗は喉を鳴らすように低く笑い、ひざを立てて座った。

「そんなにおびえるなんてひどいなぁ。私は君の夫となる男だぞ?」

「私の、夫……」

 浅い息をきながらもやっと声を出すことが出来たが、その言葉の意味を理解したくはないと身体がきよしているのが分かる。

「そうだとも。『いとし子』の夫として私は選ばれたのさ。だが、世の慣習にならって、成人しなければ、結婚出来ないからね。……今日が来るのをずっと待ち望んでいたんだよ」

 清宗はにこやかに微笑ほほえむも、沙夜にとってはきようを掻き立てるものでしかなかった。何故なら、その笑みには自分に逆らうことは許さないという意思が見えいていたからだ。

 ……「いとし子」……? この方は、一体何を言っているの……?

 よく分からない言葉だったが、そのことについて思考するゆうなどなかった。

「さぁ、さっそくふうになろうか。だいじようさ、こわくはないよ。……これでも女性を喜ばせるのは得意なんだ。ちゃんと可愛かわいがってあげるから、安心するといい」

 清宗は膝を進め、沙夜へと手をばしてくる。彼の指先が沙夜の膝をなぞるように触れたしゆんかん、ぞわりと冷たいものが背筋を流れ、全身に鳥肌が立った。

 ……いやだ。この人には、触れられたくない……!

 けんを感じた沙夜は、思わず右手のそばにあったころもかたまりを清宗に向かって投げた。衣が清宗の顔をおおったため、沙夜はばやく立ち上がり、きよを取るように後ろへと下がる。

「ははっ、照れているのかい。初心うぶで可愛いじゃないか。……まぁ、今まで囲われて暮らしていたならば、男を知っているわけがないか」

 清宗は沙夜の反応を楽しんでいるように見えた。沙夜が怯えることで、支配していると思っているのだろう。

 震える足を何とか動かし、沙夜は清宗が入って来た御簾とは反対方向の場所から、転がるような勢いですのへと出た。ゆいいつの出入り口となる門は、恐らく清宗の用事が済むまで閉められたままなのだろう。げ場はないと分かっていても、逃げなければこの身に危機がせまると察した沙夜は庭に続いている階へと足を向けた。

 しかし、まとっている衣のすそを後ろから踏まれたことで、がくん、と沙夜はその場にくずおれる。

「おっと、つい踏んでしまったが、はないかい?」

 心配するような物言いをしながらも、清宗は沙夜のうでを強くつかんできた。

「初めてのことにずかしがっているのは分かるが、手間をけさせないでくれよ?」

「っ……!」

 清宗は沙夜を簀子のゆかへと押したおし、両手首を掴む。舌なめずりをしている彼の顔を見たくはなくて、思わず顔をらした。

 ……嫌っ……。さわらないでっ……! 誰か、誰か、助けてっ……。

 何とも言いがたい恐怖と気持ち悪さが沙夜をおそってくる。たとえ声を出して助けを呼んだとしても、ここには誰も来ないと分かっている。「父」の意思は榊原家の総意だ。

「ほら、君の瞳を私にじっくりと見せてくれ。……ああ、何とらしい……! 君はやはり、『よいやみいろ』の瞳の持ち主なんだね……! これこそが『いとし子』のあかし……!」

 確かに沙夜の宵闇色の瞳は夜空がはめ込まれたような色をしており、父や使用人達の黒い瞳とは違う。それを清宗がうっとりと見つめてくるのが酷く気持ち悪かった。

 清宗は沙夜の帯の結び目を手慣れたようにするりと引いた。ていこうしたくても、床上に押さえつけられているため、力は入らない。

 ……生きていても……こんなにつらくて苦しいことしかないなら……いっそのこと、心なんて無くなってしまえばいいのに……。

 何もかもに絶望して思考が閉じかけた時、頭に一つの声が浮かんでくる。

 ──沙夜。

 やさしくて、真っぐで、いつだって沙夜をづかってくれる声。その姿を瞳に映すことは出来なくても、自分にとっては唯一の心の支え。

 心に浮かんだのは、たった一人。──玖遠だけだった。

「た……け、て……」

 沙夜は最後の力をしぼるように声を発した。

「助けてっ……。玖遠様っ──!」

 心からのさけび声を上げた瞬間、身体が揺れるほどごうおんがその場にひびき、つちけむりが混じったとつぷうける。

「っ!? 何だ……!?」

 それまで余裕の表情を浮かべていた清宗はあせったように、突風の発生源の方へ顔を向けた。沙夜もあおけのまま、音がしたついの方へと視線を動かしたが土煙で何も見えなかった。

「──沙夜に、何をしている」

 とつじよ、耳に入って来たのは、心臓にき刺さるようにするどく低い声だった。

「なっ……だれだっ!? ──ぎゃっ!?」

 土煙の中から青白い火の玉が飛んできたと思えば、沙夜にまたがっていた清宗にちよくげきし、一瞬にして吹き飛ばしていった。清宗はしきの柱に身体を打ち付けたことで気を失ったのか、ぐったりとした様子で動かなくなった。

 何が起きたのか分からず、身体を起こそうとしたが手がすべってしまう。頭が再び床上へと打ち付けられそうになり、思わず目をつむった時だ。ふわりと吹いたやわらかな風が沙夜の身体を包み込み、気付けば誰かの腕によってき留められていた。

「──沙夜。……沙夜っ、大丈夫か?」

「……えっ?」

 降って来たのは耳慣れた声だった。そのこわが自分の身体を支えてくれている相手のものだと気付く。

「君が俺を呼ぶ声が聞こえたが……。この男に何もされていないか?」

「その、声は……。まさか……玖遠様……?」

 沙夜はまぶたを開き、自分を心配する優しい声の主へと問いかける。

 それまで月を覆っていた雲がれ、沙夜は改めて玖遠の姿をはっきりと目にした。

 しくも、思わずはっとしてしまう程に人間ばなれしたぼう。沙夜はいつの間にか彼の容姿にられたように見つめてしまう。月明かりに照らされているぬれいろかみつややかで、目元はすずしげながらも意志が強そうに見えた。

 だが、何よりもおどろいたのは彼のひとみが金色だったことだ。まるでけものほう彿ふつとさせる鋭い瞳は月の光に反射するように光って見えた。

「……直接、顔を合わせるのは初めてだったね」

 問いかけに答えるように彼の表情が少しだけゆるんだが、その口元に何故なぜなまめかしいものを感じてしまう。

「玖遠、様……」

 いつか、ほんの一瞬だけでもいい、会いたいと思っていた相手が目の前にいる。込み上げてくるものがあった沙夜は、先程までのきんちようを忘れたように視界がにじんでしまう。

「本物の、玖遠様……」

「……そうだよ」

「でも、今日は……約束の日ではないのに……」

「君が成人する日に祝わないと意味がないと思って、会いに来たんだ。……でも、沙夜にびなければならないことがあって……」

 玖遠はどこか気まずそうにまゆを下げる。

「桜の枝をってきたんだけれど、ついさっき花びらがすべて散るというぎわが起きてしまってね。……おくるのはまた、別の機会でも良いだろうか」

「そんなっ……。お気持ちだけで十分です……! それに玖遠様にお会い出来たことが、何よりもうれしいですから……」

「沙夜……」

 玖遠は表情をやわらげ、目を細めた。金色の瞳の中には沙夜の姿だけが映っている。

「──大きな音がしたが、一体何事だ!?」

 しばらく、玖遠の瞳に見入っていた沙夜は、父のり声と共に門の方がさわがしくなったことに気付き、はっとする。

「……さっきの轟音で気付かないわけがないか」

 玖遠はかたすくめながら、ためいきいた。

 そういえば先程のしんどうは何だったのだろうと沙夜が再び視線を向ければ、築地があったはずのその場所には人が通れる程の大きな穴が開いていた。

 ……まさか、この大きな穴を玖遠様が一人で開けたというの……?

 とてもではないがにんげんわざとは思えず、沙夜は目を見開いてしまう。

 やがて、開いた門からじやるようにしながら父が庭へと入って来た。

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