第一章 五年ぶりの夏(3)
3
七登駅に着いて電車から降りると、夕暮れの赤い光が真正面から照りつけてくる。
眩しさに目を細めた俺の頬を、すこし粘り気のある微風が撫でた。
東京の空気とは明らかに違う。まだ気温は高いが、不快感の低い暑さだ。
潮の香りが微かに混じる空気を吸いこんでから歩き出す。
あれから五年経っても駅には自動改札がなく、駅員が一人で切符を確認している。
そのまま駅から出て、客待ちをしていたタクシーに乗り込み、メモしてあった葬儀場の住所を告げた。
今日のお通夜も明日の葬儀も叔父夫婦の家ではなく葬儀場で行われるらしい。
田舎のさらに外れにある葬儀場に着いた時にはちょうど日が沈み、お通夜が行われる奥座敷の入り口には俺と同じく喪服を着た人々が集まっていた。
こちらで付き合いのある親戚は叔父夫婦とその子供ぐらいだったので、ほとんど知らない顔だ。
とりあえず既に来ているはずの両親を探そうと視線を巡らせた時、甲高い声が耳に飛び込んできた。
「そんなの絶対にヤだし!!」
周りにいた人たちがざわめく。
どうやら座敷横の廊下で誰かが言い争っているらしい。
──今の声って。
もしかしたらと俺はそちらに足を向けた。
廊下の角を曲がると、そこでは五十代ぐらいの女性がセーラー服を着た少女と向き合っている。
「
女性は周りの視線を気にしながら少女を宥めていた。
「だったら放っておいて! 恵子伯母さんに助けてもらわなくても、あたし一人で何とかできるから!」
だが少女はかなり興奮しているらしく、大声で反論する。
──唯奈ちゃん、なのか?
──そうか……五年も経ったんだもんな。
ここに来てようやく流れた時間の長さを実感した。
中学生にしては小柄だが、それでも背は昔に比べてずっと伸びている。長い髪は恐らく校則に引っかからない範囲で明るくしており、スカートは短め。
地味で目立たない容姿だった昔とは正反対の印象だ。
対する女性は、今回亡くなった叔父の姉である
「一人で何とかって……それはさすがに無茶よ。しかも唯奈ちゃんはあの喫茶店を続けていくって言うんでしょう?」
困り果てた様子で恵子さんは言う。
喫茶店……懐かしい。
叔父さんの淹れてくれる珈琲は子供の俺には苦かったけれど、背伸びがしたくて美味しいと強がっていた。
ただ虚勢も張り続ければ本物になるのか、高校一年生の夏に飲んだ珈琲は、何だか忘れがたい──もう一度飲みたいと思える味に感じられたのだ。
「もちろん──小さい頃からお店は手伝ってたし、あたしだけでも……」
決意の浮かぶ横顔を見せ、彼女は頷く。
だが恵子さんは悲しそうな顔で首を横に振った。
「唯奈ちゃんは知らないかもしれないけど、飲食店をやるには許可や資格が必要で、中学生が一人でやれるものじゃないのよ」
大人としての忠告を彼女は口にする。
確か恵子さんはキャリアウーマンで、ずっと結婚せずに仕事を続けていたはずだ。俺は飲食店営業について詳しくないが、社会を知っている彼女が言うならその通りなのだろう。
「そ、それならバイトでも何でも大人の人を雇えばいいだけじゃん!」
けれど考えの甘さを指摘されながらも、唯奈は反論する。
「傍に保護者がいない環境で見知らぬ大人を雇う? あなたの後見人として、そんな危うい状況を見過ごすことはできないわ」
それまでは宥めようとする雰囲気だったが、そこで恵子さんの口調が厳しくなる。
その様子に気圧されたのか、唯奈はびくりと体を震わせ、口を噤んだ。
けれど彼女の拳は固く握られ、内心では納得していないことが伝わってきた。
「────」
追い詰められた様子で唯奈は周りを見回す。
けれど口論を見守っていた人々は、同情的な表情を浮かべながらも気まずそうに顔を伏せた。
皆、唯奈のことを可哀想だと思っている。だが言い分は恵子さんの方が圧倒的に正しく、口を挟めるわけもない。俺も……そうだ。
ただ──視線を逸らすことだけは、できなかった。
それは何と言うか、酷い裏切りのように思えたから。
どうしてそんな感情が湧き上がったのか、自分でも理由が分からないまま、彼女と視線が絡み合う。
瞳に涙を滲ませていた唯奈は、そのまましばらく俺を見つめた後、驚きの表情を浮かべた。
「宗……にぃ?」
恵子さんも俺に気付いて息を呑んだ。
「もしかして宗助くん? 見違えたわ……大きくなったわね」
「はい、ご無沙汰しています」
お辞儀をし、丁寧に言葉を返す。
そして唯奈にも挨拶を。
「唯奈ちゃんも、久しぶりだね」
葬儀場なので控えめな笑みを心掛けつつ、柔らかな声で話しかけた。
ホストの経験値を活かして最大限気を遣ったつもりだったが、彼女は何故か戸惑いの表情を浮かべ、訝しげに俺を見返す。
──まあ、俺もずいぶん変わったからな。
五年前、自分がどんな感じで彼女と話していたのか、いまいち思い出せない。
きっと彼女の様子からして、かなりの差異があるのだろう。
だがそんな変わり果てた俺でも、彼女にとっては最後に縋る藁になり得たらしい。
「っ……宗にぃ! お願い──助けて!」
躊躇いを振り切り、彼女は俺に必死な表情で呼びかけてきた。
……そう言われてもな。
わりと本気で困ってしまう。
この状況で俺に何ができるというのだろう。いや、そもそも何かをする資格があるのだろうか。
「困ったことがあったら助けてくれるんでしょ!? そう言ってたよね!?」
「え……?」
ピンとは来なかったが、記憶の底が揺さぶられる感覚があった。
──そういえば、そんなことがあったような。
夜の海辺に立つ小さな人影。その震える背中に俺は……。
どんなきっかけだったかは曖昧だが、確かに俺は彼女と約束を交わしている。
さっき視線を逸らせなかった理由が、何となく分かった。
「唯奈ちゃん、そんな無理を言っちゃいけないわ。宗助くんが困っているでしょ?」
恵子さんが唯奈ちゃんを窘めようとする。
「うるさいうるさいうるさい!!」
駄々をこねるように叫び、唯奈ちゃんは恵子さんの手を払いのけて俺に駆け寄って来た。
そして喪服の裾をぎゅっと握り、俺に訴えかける。
「お願い……助けて! 何でもするから! だから……何とかしてよ──お父さんとお母さんの喫茶店はあたしが継ぐって決めてたの……あたしの夢を守ってよ、宗にぃ……!」
ポロポロと彼女の瞳から涙が零れ落ちた。
──可哀想だ。
そう思うが、即座に頷けるほど俺はもう子供ではない。
泣いている女の子を助けなきゃ、なんて青臭い正義感はとっくの昔に擦り切れた。
俺は大学生という表の立場もあるので越えてはいけない一線を守っていたが、夜の街にはあくどい奴らも大勢いる。
破滅して泣き喚く女性を見るのは、日常茶飯事。
同情はするけれど、助ける方法も義理も理由もないので見て見ぬ振りをするしかない。そうした日常に俺は慣れすぎていた。
──だからって、唯奈ちゃんのことも見捨てるのか?
いつの間にか変わり果てていた自分自身に苛立ちと怒りを覚える。
俺はもう、唯奈ちゃんの知ってる〝宗にぃ〟じゃない。
やり切れないが、それはどうしようもない事実だ。
ただ、そんな俺でも何かできることはないかと懸命に脳を回転させた。
『困ったことがあったら、俺が必ず助けに行くよ』
約束は、こんな言葉だった気がする。守れる保証などない無責任な台詞。
でも義理と理由はそこに在るのだ。
もう俺は子供じゃないけど、だからこそ大人として何か……。
──あ。
一つだけ思いついた。
あとは衝動だけでは踏み出せない足を、前に進ませる理由があればいい。
──ここで突き放すのはさすがに後味が悪いし、俺にできることがあるなら……。
それが正直な思い。
加えて俺にとってもメリットはある。俺は今、東京での現実から逃れるようにしてここへ来た。
七登町でやることができれば、現実逃避の期間は延ばせる。周りに、自分自身に、言い訳ができる。
──これだけあれば十分だ。
ほんの少し、彼女を〝手伝う〟動機としては。
「分かった。俺に任せて」
彼女の頭にポンと手を置き、優しく笑いかける。
内心の葛藤は一切表に出さずに。
「ほ、ホント!?」
目を丸くし、裏返った声で聞き返してくる彼女。
「ああ」
「ちょ、ちょっと宗助くん……!」
頷く俺を見て、恵子さんが慌てている。
「あの──少し二人で話せませんか?」
俺はそっと唯奈の体を離すと、恵子さんにそう提案した。
「暗いのでお気をつけて。段差がありますよ」
葬儀場の外に出て、恵子さんに手を差し出す。
「あ、ありがとう。助かるわ」
彼女は少し戸惑った顔をしたが、俺の手を取って段差を降りた。
そして玄関脇の暗がりで向かい合う。
「改めて──お久しぶりです、恵子さん。会うのは祖父の法事以来ですが、変わらずお美しいですね」
「……宗助くんの方は本当に大人っぽくなったわね。そんなお世辞を口にするようになったなんて、おばさん驚いちゃったわ」
「そうですか? お世辞じゃなく素直な感想だったんですが」
頭を掻いて謙遜しつつ、心の中で少し反省。相手が女性だったので、ついホストっぽい言動をしてしまったかもしれない。
「はいはい、じゃあありがたく褒め言葉として受け取っておきましょう。それより唯奈ちゃんのことだけど──」
苦笑交じりに俺の言葉を受け流した後、恵子さんは真剣な声音で切り出す。
彼女の目には、どういうつもりで唯奈の味方をしたのかと責める色があった。
「すみません、あの場はああしないと収まらないと思ったので……。今の唯奈ちゃんは冷静じゃありませんでしたから」
俺は恵子さんと敵対するつもりはないと示すため、まず口を挟んだことを謝っておく。
「ええ……そうね。突然こんなことになって、冷静でいられるわけはないわ」
彼女は沈痛な表情で頷いた。
葬儀場の周囲はちょっとした林のようになっていて、夜風に吹かれた木々がざぁざぁと波音のようにざわめく。
「たぶん少しでも〝遺ったもの〟に縋りついて、守ろうとしているんでしょう。唯奈ちゃんはきっとこれ以上、何も失いたくないんですよ」
俺は意識的に〝大人〟を演じて発言する。
恵子さんにとって、俺は数年ぶりに会った甥っ子。成長したといっても二十歳そこそこの大学生など、彼女にとっては子供にしか見えないだろう。
でも子供のままでは対等に話などできない。ナメられたら終わりなのは、夜の世界でも表の世界でも同じことだ。
「それは私も分かっているつもりよ。でも……」
渋い顔をする彼女に、俺は頷き返す。
「一人で喫茶店をやっていくなんて、いくらなんでも無茶ですよね。でも、唯奈ちゃんにはそれがまだ分からないんです。夢を諦めるのにも──過程は必要だから」
じくりと胸の奥が痛むのを感じつつ、俺は言う。
それはまさに自分のこと。
大切だったものを放り捨てた直後だからこそ、俺には分かる。
「宗助くん、あなたは……」
「恵子さん、唯奈ちゃんのために時間をください。これから夏休みに入りますし──その間は俺が喫茶店を手伝いますから、少しだけ唯奈ちゃんの好きなようにやらせてあげて欲しいんです」
彼女の言葉を遮り、俺は頭を下げた。
「時間が経てば、唯奈ちゃんにも現実が見えてきます。そうしたら俺が上手く説得しますから……だから、任せてもらえないでしょうか?」
そこで顔を上げ、恵子さんの目を真っ直ぐ見つめる。
これは決して彼女を丸め込むための方便ではない。嘘偽りのない俺の本音。
理由と義理があったから、東京の現実から逃れたい思いがあったから、俺は唯奈ちゃんを手伝うと決めた。
けれどそれは〝夢を諦めるための手助け〟だ。
その方が唯奈ちゃんのためになると、俺も思ったから。それが大人になってしまった俺が彼女のためにできる唯一のことだから。
つまり俺の意見は、恵子さんと同じ。
──ごめんな、唯奈ちゃん。
胸の中で彼女に謝り、恵子さんの返答を待つ。
「…………宗助くんの言いたいことは分かったわ。私としても強引に事を進めたくはないけど──」
だが彼女は言葉を途中で切り、迷いの色が滲む表情で俺を眺めた。
値踏みされている。
結局最後にものを言うのは〝俺個人への信用〟だ。
「お願いします、恵子さん」
俺は彼女と目を合わせたまま一歩詰め寄る。
「ちょっ、そ、宗助くん……!」
近すぎる距離にたじろぐ恵子さんの手を俺はそっと掴み、両手で包み込むように握りしめた。
「唯奈ちゃんは俺に助けてと言いました。だから……出来る限りのことはしてやりたいんです。このままじゃ──あまりにも可哀想ですよ!」
至近距離で彼女の目を見つめ、抑えつつも強い口調で訴えた。
相手に心を開かせるには、自分の心も剥き出しにすることが時には必要になる。
甥という立場は信用度的にプラス要素なはずなので、あとは俺の気持ちが本物だと見なしてもらえるかどうか。
もちろんホストの仕事をしているということは秘密にしなければならない。まあ両親にも黙っているので、自分から話さない限りバレようはないのだが。
しばらく彼女は黙った後、ゆっくりと口を開く。
「そうね、私も同じ思いよ。今の話──君の両親も含めて親族で相談した上で、唯奈ちゃんの後見人になる私が最終的に判断させてもらうわ」
その場で確約は貰えなかったが、前向きな返事に俺は胸を撫で下ろす。
「分かりました。お願いします」
彼女の手を放し、もう一度頭を下げる。
結論が出たのは、翌日の葬儀が終わった後。
俺は今年の夏を、この海の傍にある町で過ごすことになったのだった。