第一章 五年ぶりの夏(2)


 混雑気味の快速電車で東京駅まで行き、そこで北陸新幹線に乗り換える。

 美味い駅弁で遅めの昼食を摂ると、ざわつく気持ちは次第に落ち着いた。

 車内は冷房が効きすぎているぐらいで、少し肌寒いほど。

 窓際の席で流れる景色を眺めていると、激しい眠気に襲われる。

 それに逆らう理由もなく、俺は素直に瞼を閉じた。

 たぶん直前まで色々と考え込んでいたせいだろう──微睡む意識の中に、過去からの声が浮き上がる。


『デザインなんてセンスのある人間がやることやろ。あんたには無理やって』

『真面目な宗助には公務員が向いてると思うんやけどな』


 それは進路希望を打ち明けた時の両親の台詞。

 都会なら仕事の口はあるからと、仮にセンスがなくても技術さえ身に付けられればやれることはあるのだと何とか説得し、俺は東京にある美術大学のデザイン学部に進学した。


『君の作品は……地味だねぇ。プレゼンでもデザインの魅力が伝えられていなかったし、それじゃあどうやっても評価は得られないよ』


 頻繁に行われる課題の講評。

 思い出したくもないが、忘れられない。一回生の前期はいつも散々な結果だった。


『ねえ、間宮──あんたホストやってみない?』


 これは睦月先輩か。

 講評の結果が振るわず、せめて大学生らしい生活だけでも満喫してみたくて入った飲み系サークル。だが周りのノリについていけず、金も足らなくなり、その時の幹事だった睦月先輩に今日でサークルを辞めると言った時のことだ。


『まあ社会経験だと思ってさ。あんた素材はいいから、私に任せてくれたら〝外側〟は何とかしてやるよ。お金、必要なんでしょ?』


 たぶん睦月先輩も冗談半分だった。

 ただ、その時の俺は本当にどん底で。半ば捨て鉢になって彼女の話に乗ったのだ。


『今は、ちょっとホストを勧めて良かったのかなって思ってる。間宮は、向きすぎてたんじゃないかって……』


 ああ……これはついさっき睦月先輩に言われた台詞。

 確かに、俺は自分でも意外なほどホストの仕事に適応している。

 もちろん最初は戸惑うことばかりだったけれど、金のため、これは仕事なのだと割り切るとスラスラ相手をノせる言葉が出てくるようになった。


『──また会えて嬉しいよ。今日も可愛いね』


 まさかそんな言葉を、俺が照れもせず言える日が来るとは。

 恐らく昔の俺は他人との距離感を計りかねていたのだろう。言葉を交わす以上は〝仲良くならなければならない〟──そんな強迫観念に突き動かされ、必要以上に緊張していた気がする。

 けれどホストという仕事では、客との理想的な距離が決まっている。それ以上踏み込んではならない一線が確実に存在していた。


『君はどうやったら私を好きになってくれるの?』


 その一線を越えさせようとする客との駆け引きにも慣れ、ホストとしての適切な振る舞いを覚えてからは、大学生活もずいぶん楽になったように思う。

 地味で面白味のないデザインしかできないのは相変わらずだったが、喋りが流暢になったことでプレゼン時に評価を得られるようになった。

 自分をどう売り込むかという点ではホストの仕事と同じ。それを徹底すれば講評だけでなく就職にも有利に働いた。

 うちの大学の講師はデザイン会社の社長が兼任しており、気に入られればそこに就職ということも珍しくない。

 かくいう俺も講師に気に入られ、まだ三回生であるが就職先はほぼ内定している状況だ。

 ただ確定ではないので、今講師の不興を買ってはいけない。

 当然、その講師のゼミを欠席するのはマイナス要素だ。睦月先輩が気にしていたのもそれが分かっていたからだろう。


『進路も決まったことだし──今度、二人でゆっくり飲もうじゃないか』


 俺を指名する女たちと同じ目を、五十前の男性講師は俺に向けた。

 ──気持ち悪ぃ。

 まさかあの男にそのケがあったとは予想外。ただ気持ち悪いと思ったのは相手が男だったからではなく、それが進路という俺の弱みを握った上での誘いだったから。

 正直、もう顔も見たくない。嫌悪以上に失望が大きい。

 それで、勉強会をサボった。

 薄汚い下心を受け流し、見ない振りをして愛想笑いをするのは日常茶飯事だったはずなのに、突然限界が来てしまった。

 実を言えば、ホストの仕事にも影響が出ている。

 俺に笑いかける客の──女の顔に講師の笑みが重なって、嫌悪感を覚えてしまう。

 だからこうして仕事を休まざるを得ない状況になり、少しホッとしている。

 睦月先輩はああ言っていたが、このままだとホストを続けていくことも難しくなりそうだった。

 結局俺は、何をしたかったんだっけ。

 どうしてデザインを生業にすることに拘ったのか。そもそも才能があれば、講師の伝手を頼る必要もない。デザイナーとして名を馳せていくのは、既にいくつものコンペで賞を取り、引く手数多の睦月先輩みたいな人。

 最後の最後で全部投げ出してしまえたのは、もうそれが〝捨ててしまえる夢〟になっていたから。


そうにぃは絵描きさんになるの?』


 あれ、これは誰の言葉だったか。

 声が遠くて、記憶を追いかけられない。

 ただ何故だか、胸の奥がひどく痛んだ。


「────乗客の皆さまにお知らせします。次は終点──」


 それは心の中から湧き出た声ではなく、直接耳に飛びこんできた車内アナウンス。

「ん……」

 ほんの少し微睡んでいたような感覚だったが、いつの間にか深く眠っていたらしい。

 学生がつけるには不釣り合いなブランド物の腕時計で時間を確認すると、二時間以上が過ぎていた。

 ただ、終点の駅が目的地というわけではない。

 そこで新幹線からローカル線に乗り換えて一時間半ほど行ったところが、叔父夫婦が暮らしていたななという北陸沿岸部の町だ。

 ちなみに俺の実家は関西の方なので、そことはまた違う。

 俺にとって七登町は〝夏休みに来る場所〟という感覚。

 叔父夫婦は海の近くで喫茶店を営んでおり、昔は夏に家族で遊びに行くのが恒例となっていた。

 しかし受験に備えなくてはならなくなった高校二年生の頃から、叔父夫婦の家には行っていない。

 今は大学三回生だから──もう五年か。

 ……こんなことになる前に一度くらい遊びに行けばよかったな。

 後悔しても遅いのは分かっているが、そう思わずにはいられなかった。

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