第一章 五年ぶりの夏(1)
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「あっつ……」
陽炎が立ち昇る道を、ぼやきながら足を進める。
肌を焦がすような陽光を避けて街路樹の影を渡り歩くが、気休めにもならない。
あまりの暑さに蝉も参っているのか、辺りはやけに静かだ。
人口が密集した都内の住宅街だというのに、行き交う人も疎ら。履きなれない靴でアスファルトを踏む音がやけに大きく聞こえ、頭に響く。
「っ……」
ズキンと感じた痛みに、汗で濡れた額を押さえる。
昨日の酒がまだ残っているようだ。
大学の期末試験やレポートの提出が終わってからは昼夜逆転の生活を送っていたので、本来なら寝ている時間。分解できていないアルコールと眩しすぎる日差しに眩暈がする。
今すぐアパートに引き返し、クーラーを全力運転させた部屋で布団に包まって眠りたいが──そうもいかない事情があった。
「世話になったしなぁ……」
周りに誰もいないからと、独り言を口にする。行かなければならない理由を自分に言い聞かせる。
服の真っ黒い生地が熱を溜め込んで体力を奪うが、もう少しだとなけなしの根性を振り絞った。
そうしてJRの駅に辿り着く。
この辺りはさすがに人通りが多く、駅前ロータリーのバス停には行列ができていた。あまりに列が長く、後ろの方は屋根の陰からあぶれている。
下を向いて殺人的な日差しに耐えている人々に同情しつつ、俺は足早に駅の構内へ避難した。
「あれ、
そこで俺──間宮
視線をそちらに向けると、スマホを片手に駅の柱にもたれかかっている女性の姿。
長い髪の毛先を赤く染め、指には全部違う種類のネイルをしている。
派手な人──初めて会った時はそんなふわっとした感想しか抱けなかったが、今では彼女の服やバッグがかなりの高級品だと分かるようになっていた。
「……
足を止め、彼女の名前を呼ぶ。
同じ大学のゼミに所属する睦月
「よ」
「っす」
手を小さく振る彼女に会釈をする。
「何してんの?」
「見て分かりませんか?」
俺は自分が身に着けている真新しい真っ黒な服を示した。
先ほど急いで一式揃えた〝喪服〟。それが今の俺の格好だ。
「まあ分かるけどさ。最初は一瞬、仕事用のスーツかと思ったよ。こんな真っ昼間から出勤なんてホストも大変だなぁって」
「……この時間から出勤とか死にますよ」
俺は大きく嘆息してみせる。
さすがに出勤は夕方からだ。
「あはは、そだねー。けど既に死にそーな顔をしてるけど。大丈夫?」
口調は軽いが、睦月先輩の瞳には真剣に心配している色が見えた。たぶんこの服のせいだろう。
「あんま大丈夫じゃないっすけど、暑いだけっす。それに今から行くのも親兄弟のとかじゃなくて、親戚のですから」
亡くなったのは叔父夫婦。
交通事故らしいが、詳しい状況までは知らない。
「ならよかった──って言ったらかなり不謹慎か。でも安心したよ」
苦笑交じりに彼女は答えた。
「はい……それで、睦月先輩の方はここで何を?」
あまり長く続ける話題ではないと思い、こちらから話を振る。
「朝帰りだよ。んで暑いしダルいし、親に駅まで迎えに来てくれって連絡したとこ」
「もう昼の二時っすけど」
「細けーなー。そういうツッコみはホスト的にもよくねーぞ?」
「睦月先輩は客じゃないっすからね。客だったら気を遣いますよ」
わざとらしく肩を竦めると、睦月先輩は俺の頭に手を置いてわしゃわしゃと髪を掻きまぜた。
「言うようになったなー、コラ。ついこの前まではあんなに口下手だったのによ」
口調は荒いが、彼女の声は楽しげに笑っている。
「──経験、積ませてもらいましたから。あと金の面でも、今の仕事を紹介してもらったこと……感謝してます」
客ではないが恩のある先輩に礼を言う。
「私は単に、向いてそうだなって思ったから少し手伝っただけさ。芋臭かった間宮を〝改造〟すんのも楽しかったしな。ただ……」
何故かそこで彼女は表情を翳らせ、俺から手を離した。
「睦月先輩?」
「今は、ちょっとホストを勧めて良かったのかなって思ってる。間宮は、向きすぎてたんじゃないかって……」
「向いてたならいいじゃないですか?」
俺は彼女が何を言いたいのか分からず、眉を寄せる。
「まあそーなんだけどさー……ああ、上手く言えねー」
歯がゆそうにそう呟いた後、睦月先輩はじっと俺を見つめた。
「間宮──どうしてこの前、ゼミの勉強会に来なかったんだ?」
「っ……」
いきなりの質問。それは今、一番触れられたくない話題。
「ちょっと体調が悪かったんすよ」
嘘を吐く。
定期的に開かれる勉強会。本当はその日、仕事を入れていた。最初から行くつもりはなかった。
「そっか。なら仕方ねーな」
睦月先輩は諦めたような顔で笑う。
居心地が悪くなって、俺は話を終わらせようとする。
「じゃあそろそろ──電車の時間もあるんで」
「ああ、またな」
軽く手を挙げて応える彼女。
けれど俺が背を向けて歩き出したところで、呼び止められる。
「間宮」
「はい?」
振り向くと、睦月先輩は真っ直ぐに俺を見つめていた。
「無理すんなよ」
「…………」
上手く言葉が出ず、頷きだけを返して再び歩き出す。
──無理ってなんだよ。
自分が怒っているのだと気付いたのは、電車に乗った後のことだった。