1 えんぴつ事件(5)
海鳥は考え終わると同時に、行動を開始する──座っていた便座から転げ落ちる。
「──!? な、何を!?」
驚く女性の味方に、
「
海鳥自身、試したことはなかったが、女性の味方が立っている場所くらいまでなら水が届く
「…………あ、あれ?」
しかし果たして、水は出なかった。
海鳥は知る由もないことだったが、ウォシュレットには人が座っているかどうか確認するセンサーが付けられているのだ。人が座っていない時は、スイッチを押しても水は出ない。
「…………」
気の毒そうな目で、女性の味方は海鳥を見つめていた。海鳥は真っ青になる。もう何も考えられない。
「く、くそぉぉぉぉぉぉ!」
叫びながら、
目前に包丁の切っ先が迫っていようと、彼女は止まらない。
「──っ!?」
女性の味方が慌てて、包丁を手放さなければ──海鳥の
そして包丁を手放した女性の味方は、驚くほどあっさりと、海鳥の体当たりを喰らってしまう。女子とはいえ、170㎝××㎏の全力の体当たりである。女性の味方はドアに
「うわぁぁぁぁっ! うわぁぁぁぁっ!」
海鳥は
「はぁっ……はぁっ……」
海鳥は息を切らせながら、包丁を構える。「散々、好き勝手やってくれたね、女性の味方さん。こんな簡単に形勢がひっくり返るなら、最初からこうすればよかったよ。命乞いする必要なんて全くなかった……それで今度は、あなたが命乞いする番だ」
「まあでも、命乞いなんてしないよね? だってあなたは、女性の味方なんだもんね? まさか自分の敵に向かって、『助けて下さい』なんて言える訳がないよ。誇りを捨てるくらいなら死を選ぶ、あなたはそういう人間なんだから」
一方で、女性の味方は──
「ちょ、ちょちょちょちょっ、ちょっと待ってちょっと待って! ちょっと待ってください! ごめんなさい私が悪かったです! やめてください!」
「…………え?」
全力の命乞いだった。
「こ、殺すとか言われて熱くなっちゃったんですか? やだなぁ、ジョークじゃないですか!
「…………は?」
「……あ、あの、
少女の口調は、先ほどまでと打って変わって、抑揚が激しい。よく言えば明るい、悪く言えば頭の悪そうな
「…………その、一応確認なんですけど。まさか、まさか海鳥さんがそんなことするとは思ってないんですけど…………痛いこととか、しませんよね? その包丁で、痛いこととか、しませんよね? ね? …………えへへ、私痛いの、嫌だから」
「…………」
「……ご、ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい! ゆ、許してください! 今までのこと全部謝ります! だから許して! 刺さないでぇ!」
──なんだこれは? 海鳥は
「……ちょ、ちょっと待ってよ。あなた、女性の味方なんでしょ? 今まで何人もの女性の敵を葬ってきて、今も私を殺そうとしたわけだよね? それが、いざ自分がピンチになった途端に、変わり身早すぎない?」
「……か、変わり身なんてしていませんよ。だって私、そもそも女性の味方じゃないんですから」
「…………は?」
「じょ、女性の味方なんて、そんな人は、この世のどこにもいないんです。私がでっちあげたんです。て、適当に考えたキャラ設定だから、細部に矛盾とかあったと思いますけど、むしろ話の
「…………??」
少女が何を言っているのか、
「わ、私ですか? 私は──」
引きつった笑みを浮かべつつ、少女は答える。
「──私は、でたらめちゃんって言います」
「……?」
「でたらめちゃん。ちゃんまで含めて名前です。平仮名七文字きっかりで、でたらめちゃんです」
「……なんて?」
外国人? と海鳥は一瞬考える──いや平仮名七文字とか言っているし。でたらめちゃん? どこから
「でたらめちゃんは嘘しか吐けない。だから海鳥さんを殺すつもりというのは
「…………なにそれ? ふざけてるの?」
海鳥は
「きゃ、きゃあぁぁぁ!? な、何恐ろしいことするんですか!? やめて下さい!」
「じゃあふざけないで、ちゃんと本名を教えなさい。日本人で、そんなとんちんかんな名前の人がいる
「……い、いや、そんなこと言われても。私、これが本名なのでぇ」
少女──自称・でたらめちゃんは
「じゃあ、まあ……でたらめちゃんだっけ? あなたが女性の味方じゃないんだとしたら、今まで何人もの人間を葬って来たっていうのも、嘘なの?」
「は、はい! 嘘です! 人殺しなんて、そんな恐ろしい
「……私を殺すっていうのも?」
「嘘です! 嘘八百です!」
「…………」元気よく叫んでくるでたらめちゃんに、
「……意味が分からないよ。なんでそんな嘘
「……『テスト』ですよ」
「え?」
「『海鳥
いつの間にかでたらめちゃんは、なにやら意味深な表情を浮かべて、海鳥を見上げて来ていた。「より正確に言えば、嘘を吐けない海鳥東月という人間が、果たしてこの私の『パートナー』たり得るのかどうか、『テスト』しに来たんですけどね」
「……『テスト』? 『パートナー』? 何の話?」
「つまり、さっきまでの私のでたらめな言動はすべて、海鳥さんをわざと動揺させて、その『本質』を暴き出すための演技だった、というわけですよ……そして実際に、その試みは成功しました。やはりあなたは、私の『パートナー』に適格な人物のようです。
単刀直入に言います──海鳥さん。私と一緒に、嘘を殺してくれませんか?」
海鳥の方を
「…………。は? なんて?」
しばしの沈黙のあと、海鳥は眉をひそめて、
「嘘を、殺す……? なにそれ? どういう意味?」
「そのままの意味ですよ。嘘を吐けない海鳥東月と、嘘しか吐かないでたらめちゃん、この二人でタッグを組んで、この世に
「…………?」
「今はまだ、その自覚がないかもしれませんが……海鳥さん、あなたには、
「…………いやだから、意味がぜんぜん分からないんだけど」
まるで要領を得ないでたらめちゃんの話に、海鳥は困惑の息を漏らす。まさかこの期に及んでまた訳の分からないことを
「……はあ、もういいよ。これ以上あなたの
「……え? 警察? なんでですか?」
「当たり前でしょ。今回あなたがやったことは、子供の
「…………」
諭すような
「……はあ? なに言ってるの? そんなわけないでしょ? 言っとくけど、今さらしおらしく謝ったって私は許してあげないからね」
まるで取りつく島もなく、スカートのポケットからスマートフォンを取り出して、画面を操作し始める海鳥。そんな彼女を、でたらめちゃんは何やら歯がゆそうな顔で見上げていたが……やがて意を決したように、唇を
「……致し方ないですね。痛いのは、出来れば避けたいところなんですけど」
「……?」
「海鳥さん。その包丁で、今すぐに私を刺してください」
「…………は?」
その突拍子もない物言いに、海鳥は思わずスマートフォンを床に落としてしまっていた。
「どうか、ひと思いにお願いします。手首のあたりをちょっと切りつけるくらいでいいんですけど……これが一番、海鳥さんに理解してもらいやすい方法だと思うので」
「…………え? いや、やらないけど、え?」
海鳥は困惑したように、でたらめちゃんを見つめ返す。いきなり何を言い出すのだろう? まさか海鳥を傷害犯に仕立て上げて、今回の事件を
「そうですか。やっていただけませんか……ならば、かくなる上は!」
「──わっ!? な、何するの!」
海鳥の悲鳴が上がる。何を思ったのか、でたらめちゃんが無理やり
「暴れないでください! 下手に動くと
「……っ! そ、それはこっちの
「違います! いいから大人しくしてください!」
「で、できるわけないでしょ! このっ、このっ……!」
……。……。そうしてしばらくの間、両者の間で
「──ぎゃっ!?」
──ふとした拍子に、でたらめちゃんの腹部めがけて、
「……う、い、痛い……」
「……!? きゃぁぁぁぁぁ!?」
海鳥は包丁から手を離し、悲鳴を上げる。でたらめちゃんの腹部からは、どくどくと、大量の血液が流れ出て来ている。
「……お、お
「い、いやああああ!? ちょっ、救急車! 救急車呼ばないと!」
ぐるぐると目を回しながら、その場にへたり込んでしまった海鳥に、でたらめちゃんは引きつった笑みを浮かべて、
「……だ、大丈夫です。痛い、だけなんで」
「……ば、馬鹿言わないでよ。大丈夫な訳ないでしょ?」
「…………いいえ、大丈夫ですよ。だって、ほら」
でたらめちゃんは腹部に刺さった包丁をぐっと握りしめ、ひと思いに引き抜いていた。大量の返り血が海鳥に降りかかる。それでなくても、床の上は既に真っ赤に染まっている。
鮮血に海鳥は思わず顔を覆い──そして腕の隙間から、信じられない光景を目撃した。
──血液が、逆流していく。
でたらめちゃんの腹部からあふれ出した大量の鮮血が、まるで時間を巻き戻すように、彼女の体内へと戻っていくのだ。床から赤い染みが消える。海鳥の
「……え? え?」
「──この通り」
そうして『元通り』になったでたらめちゃんは、今度こそ完璧な笑みを浮かべて言うのだった。「私は人間じゃないのです。人間の世界の常識なんて、私には一つも通用しません。だから警察とか呼ばれても、意味ないですね」
「…………」
いよいよ海鳥は、腰を抜かして動けなくなった。